カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

もうひとつ、コンクリもの。

2016-07-14 23:18:51 | レトロ建築
昭和初期のコンクリート造住宅遺産を見学したついでに
琵琶湖疎水(山科疎水)に架かる日本で初めてのコンクリート橋を
見に行きました。

その前にちょっと、1890(明治23)年に、日本人だけの手で完成させた
疎水には明治の遺構ともいえるトンネルが残されていて、
それらにつけられた扁額もまた見逃せません。


〈第2トンネル・東口〉



「扁額でたどる琵琶湖疎水」の案内板が必ずあるので、楽しめますよ。






〈第2トンネル・西口〉



西郷従道(じゅうどう)は、西郷隆盛の弟ですね。西南戦争には加担せず、
明治政府に留まり海軍大臣や内務大臣を歴任した政治家です。
名前を登録する際、本名「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとした
ところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と
記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで
通したそうです。兄弟ともに太っ腹?(^_^ゞ


〈第3トンネル・東口〉



他にも『疎水の扁額』いろいろ。


琵琶湖疎水は、幕末の「禁門の変」で市中の大半を焼かれて、明治維新で
天皇を連れ去られ首都の座から転落した京都。その後、急激な人口減少と
産業衰退に直面。そこで、起死回生のため発案されたのが、琵琶湖疏水の
建設という大事業でした。

琵琶湖の水を京都市内に引き込み水運や発電、灌漑や上水道に利用しよう
というこの計画は、前例のない壮大な土木建築工事を必要としました。
それをやってのけたのは、工部大学校(東京大学工学部の前身)を
卒業したばかりの弱冠22歳、田邉朔郎(たなべさくろう)でした。
そんな田邉が、世界の最新工法だった鉄筋コンクリートを試したくて、
1903(明治36)年に手掛けたのが、第11号橋です。


これは、山ノ谷(黒岩)橋と呼ばれる第10号橋。
栗原邸のすぐ近くの橋です。



日本初といわれる第11号橋の8ヶ月後に出来た橋ですが、第11号橋は
試作的なものであり、本格的な鉄筋コンクリート製アーチ橋は、
これこそ日本初ではと言われたりもします。
いずれにしろ「鉄とコンクリートの時代」と言われる20世紀の、
その初頭に世界でもまだ最先端だった鉄筋コンクリートの橋が、
110年以上の年月を経て、今でも山科疎水の遊歩道の一部として
使われているのは凄いです。(鉄柵は後に付けられたもの)



さて、第2トンネルの東側から迂回路を通って西側へ出ると、比較的
新しい橋が架かっていますが、これは後に日ノ岡船溜を埋め立てて
造られた新山科浄水場取水池へ渡るための橋です。
その先に見えるのが「第11号橋」。



ここも今でも歩道として利用されているので、補強と安全のため柵などが
設けられているため、全貌が見にくいのが残念。

手前には〈日本最初の鉄筋コンクリート橋〉の石碑が。


渡ると立派な「本邦最初鉄筋混凝土橋」の石碑が建っています。
1932(昭和7)年に建てられたものですが、橋が出来てから30年後に?
実は前年に疎水の大改修工事が行われた際、京都大学教授となっていた
田辺朔郎が立ち会った時に
「そうそう、この橋は日本で最初の鉄筋コンクリートですよ」って言った
もんだから、それまでそうとは知らなかった関係者が「そんなんやったら
記念碑たてなあかんやん!」ってことになったようです。(^_^ゞ




当時、日本人だけの手で行なわれた琵琶湖疏水建設という世紀の難事業。
田邉にとって、世界でも最先端だった工法、鉄筋コンクリートを使った
この橋の設計施工は、技術者としての探究心を満たしてくれる、楽しい
トライアルだったのかも知れませんね。



セメントと鉄筋は輸入しながらも、他の建設資材は現地・山科に
煉瓦工場を造るなど工夫を重ね、国内から調達しました。
この橋を造るにあたっても、鉄筋は専用の材料がなかったため、
疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されているそうです。




今でこそ補強はされているものの、充分使用に耐えられる100年越えの
耐久性は実証されていますね♪



2016.5/28、琵琶湖疎水(山科疎水)にて。

文化財に住んでみる?

2016-07-09 15:27:38 | レトロ建築
一般公開のあった栗原邸(旧鶴巻邸)は2014年に国の登録有形文化財に
なっています。
現在の所有者は栗原氏なんですが「この住宅の継承者を募集しています。
ご興味のある方は最寄りの住宅遺産トラスト関西スタッフまで。」って
貼り紙があちこちに。

日本におけるモダニズム建築の先駆者、本野精吾氏の設計、鎮ブロック
による中村式鉄筋コンクリート建築・・・我が国の建築史にとっても
貴重な建造物であり、保存・修復が進められている最中に、
継承者募集とは・・・ちょっと悲しい?
「これほどわかりやすく価値が確認できる建築を継承していけない
なんて現代人として悔しい。」と、住宅遺産トラスト関西の理事も。
なんとかこの建物を後世に残したいものです。




さて、この住宅の特徴的で最も魅力的な部屋は、玄関ポーチの上に
造られた部屋。帽子のような庇を持つ半円形に突き出たユニークな
形態が特徴です。



外観も内から見てもインパクトのある空間、お部屋ですね。



ここに置かれているものに限らず、建物内には本野氏がデザインした
家具・調度品、照明器具などが残されています。



時代を感じさせるものもありますが、概ねシンプルなデザインで
近代的なもので、やはり昭和初期にしては画期的じゃないかな。



照明器具も全ては撮れなかった、いや撮ったのですが失敗で・・・
他にもユニークなものがあったのですが。ザンネン!(^_^ゞ



ドアノブは建築当初のものかな? でも何だか懐かしい。
特にクリスタル調のノブ、トイレに使われていましたが、
ありましたよね、これッ♪




食堂に置かれたテーブル、これも本野氏のデザインだそうで。
可動式になっており、中央部の長方形の部分を折りたたむことで
大きさを4段階変えられ、最小の場合は丸テーブルになる。
というもので、フルに広げれば8人掛け、たたんでいくと6人掛け、
4人掛けになり、最小は2人掛けになる便利もの♪
現代でこそ似たような機能の食卓はありますが、やはり先駆けだった
のでしょうね、椅子も同時にデザインされたもので座面の布など
当時のままなのだそうです。




家主は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長だった
鶴巻鶴一氏から広告業・萬年社社長であった栗原伸氏に。途中戦後に
進駐軍の接収で、米軍中尉の家族が10年ほど住んだ後、栗原家に
戻された変遷があり、どの時期のものかわかりませんが
生活感が垣間みれる私物も多々残されていました。

留守中にお宅拝見みたいで、いろいろ妄想してしましますね。






このベッドも本野氏のデザインとみられ、他の部屋に置かれている
木製のベッドとは大きさもデザインも異なる真鍮製のもので、
施主であった鶴巻氏が使用していたものと思われます。







階段脇にある大きな金庫。いつ頃まで使われていたのか、
まだ開くのかな? 
そうそう、昔はよくこんな織物を被せたりしていましたね。(^_^ゞ

3階だったかな、蔵のような厳重な2重扉になった倉庫が
ありました。座敷牢のような、仕置き部屋のような・・・
変な妄想し過ぎかな?(^_^ゞ



バスルームは今はすっかり現代のものに変わっていて、機能も最新。
施工当時は写真のようなものだったようですが、当時としては
最新だったのでしょうね、蛇口が2つあるってことはセントラル給湯
だったのかも。昭和初期は自宅に風呂がついているのも珍しい、
あっても五右衛門風呂だったりしますからね。
トイレも現状は水洗ウォシュレット便器がついていたと思います。







階段は建物中央奥にあり、3階まで吹き抜け。手摺もシンプルながら
装飾的な意匠が施されています。そろばんみたいだけど・・・

建物自体はコンクリートブロック構造ですが、この吹き抜け階段と
玄関ポーチ部分はさすがに強度が持たないのか、柱と梁で支える
ラーメン構造の鉄筋コンクリート造が採用されています。




この建物の魅力のひとつに広いバルコニーが設けられていること。
2階部分は東側に。3階はルーフバルコニーになっています。



2階のバルコニー、個人宅でこれほど広いバルコニーはなかなか
見られませんね。洗濯物いっぱい干せます?(^_^ゞ




3階から見た2階のバルコニー。




3階は物置、さっきの蔵のような部屋ね。があるだけで、あとは
屋上バルコニー。走り回れる広さです。手摺が低いので子供だと
危ないですが・・・













眺めも悪くないです。もともと高台に建っていますからね。



JR東海道線がよく見えます。夜景も綺麗でしょうね♪



北側には琵琶湖疎水が見えます。この辺りの疎水道は桜並木。
春はお花見、秋は紅葉狩りのスポットとして楽しめる遊歩道です。




さて、話しを始めに戻して、この建物の継承者募集・・・

それに国・登録有形文化財の位置づけ、メリット・デメリットは?
まず文化財って何?って話しになりますね。
そもそも文化財には有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物、
文化的景観、伝統的建造物群の6種類があります。
●有形文化財:建造物・美術工芸品などで、特に重要とされるものを
重要文化財、その中でも貴重な価値があると判断されたものが国宝。
●無形文化財:芸能・工芸技術など、これも重要無形文化財があり、
その保持者を通称 人間国宝と呼びます。
●民俗文化財:風俗慣習・民俗芸能など。無形、有形があります。
●記念物:史跡・名勝・天然記念物など。
●伝統的建造物群:宿場町、城下町などがありますね、これはまず
市町村が伝統的建造物群保存地区を定め、その中から特に価値が高い
ものを文部科学大臣が重要伝統的建造物群保存地区として選定します。
●文化的景観:棚田や里山、日本の原風景などが該当します。
2004年の文化財保護法改正により創設された文化財のジャンルです。

国が定めたもの以外で、地方公共団体(都道府県、区市町村)の多くが
条例を制定し、重要な文化財について教育委員会が指定等を行い保護を
図っています。これもよく見ますね。

ところでこの建物は「国・登録有形文化財」というものです。
普通、有形文化財は国の厳しい審査・基準により指定されるもので、
「指定有形文化財」。しかし指定制度では身近な近世末期や近代以降の
多種多様な建造物が、その建築史的・文化的意義や価値を十分認識され
ないまま破壊される事例が相次いだことを受けて1996年の文化財保護法
改正により、従来の文化財「指定」制度に加えて、文化財「登録」制度
が創設されました。

登録有形文化財は、原則50年を経過した歴史的建造物であることと、
以下の3点のうち、いずれか1点を満たしていることが条件です。
(1)国土の歴史景観に寄与しているもの
(2)造形の規範になっているもの
(3)再現することが容易でないもの
・・・この邸宅も条件を充分クリアしてますね。

建物を活かしながら残していこうという考え方で創られた制度ですから
内装の変更や設備の更新などの規制は、指定文化財に比べると緩やか。
ですから、修復してまちづくりに活かしたり、観光資源として利用する
例も多くなっています。
ただし、指定文化財のように補助金や固定資産税の非課税などの
優遇措置はありません。地価の高い地域でのみ相続税の免除が
受けられるとかあるようですが、「ほとんどメリットはない」らしい。
おっと!最初の写真で門に付けられているパネル。あれがもらえます。
プレートには『この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁』と
記されており、名誉にはなるでしょうが・・・
最近では文化庁系ではなく国交省系がフォローして補助金など用意、
メリットが増えつつある傾向がみられます。


さて、最後にちょっと不動産屋的な話しを・・・
栗原邸の敷地面積は約600坪、建築面積は64坪、延床面積は124坪で
3階建て。建物の背後にある林もすべてこの住宅の敷地で、
ちょっとした公園くらいの広さがある。



玄関を入ったホールの正面に階段があり、部屋は左右に配されている。
1階・右手には客間、食堂があり、その右には施主鶴巻氏のアトリエ。
左手に居間、キッチンと女中部屋、階段脇には小さな電話室も。
2階は左右に寝室が2室ずつあり、各室は10畳程度。外から見て
半円になった部分にはサンルームがある。右(東側)にバルコニー。
3階には倉庫とルーフバルコニーに。
各室には暖炉が用意されているほか、スチーム暖房用のラジエーターも
配されて(接収当時の設備)おり、1階にはそのためのボイラー室も。
部屋によってはベッド、収納家具、椅子などが置かれている。

気になる金額は・・・交渉の余地が多々あるという前提で大台を目安に
していただけると。詳しくはお問合せください。とのことです。
私にはとても無理な話ですが、世の中広い。現に私が見学している
間に、どうやら説明を受けてらっしゃるご婦人が居られました。
一見してファッションからも一般の方とは違ったので、この豪邸に
ふさわしいかも・・・(^_^ゞ
もし、成立すればもう一般公開は今回が最後?それは残念ですが。

追記『設計者・本野精吾(もとのせいご)氏のプロフィール』



2016.5/28、栗原邸(旧鶴巻邸)にて。

昭和初期のコンクリート住宅

2016-07-05 21:50:07 | レトロ建築
我が町(京都市山科区)に残る貴重な建築遺産「栗原邸(旧鶴巻邸)」が
一般公開されるというので、訪ねてみました。

そのお屋敷は山科北部の山手にあり、すぐうしろを琵琶湖疎水が
流れています。自宅からは歩いて20分ほど、実はこの先に私の
母校(高校)があり、通学路だったので見慣れた建物でもあります。
その異形からとても印象的な邸宅でした。



建物はコンクリートブロック造、塀も同じくブロック塀です。
普段は固く閉ざされた門扉がこの日は開かれていました。もちろん、
門の中を見るのも入るのも初めてです。

10年ほど前に一般公開が始まり、ここ数年は不定期ながら毎年期日限定で
公開されるようになったので、一度訪ねてみたいと考えていました。
一昨年には国の登録有形文化財に指定されたようです。



敷地面積は600坪とかで、庭もかなり広い。右に行けば玄関へ、左は
裏口に達しますが、斜面なのでどちらも少し登ることになります。



この邸宅、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)2代目校長だった
鶴巻鶴一氏の邸宅として昭和4年(1929年)に建てられたもの。
設計者は同校教授だった建築家・本野精吾(もとの せいご)氏。
1941年に広告代理店・萬年社の社長、栗原伸氏の邸宅となり、
現在はご子息(伏見のお医者さん)が所有されています。
※萬年社は電通よりも古く日本最古の広告代理店でしたが、1999年に
倒産。109年に渡るその長い歴史に終止符を打ちました。

この建物で特徴的なのは、やはりコンクリート打ち放しの玄関ポーチ。
建物自体はシンプルな四角で構成されていますが、ここだけ円形に
張り出し、上はサンルームになっています。
帽子を被ったような庇もアクセントになっていますね。












設計者の本野精吾氏は1909(明治42)年、ドイツに留学し当時欧州での
モダニズムへの変化に影響を受け帰国、図案科教授として建築のみならず
インテリアや家具・グラフィック・服飾などデザイン全般の教育に
携わりながら建築家としての活動もしたプロフェッサー・アーキテクト。
ただ多才で多趣味。船舶デザインでヒット作を出したり、音楽・舞台・
社交ダンスや南画などすべてを極めたようで、果てはエスペラント語も
使いこなすというただならぬディレッタントぶり。(^_^ゞ
そのため、生涯で残した建築作品は10点余りだとか、現存するのはここを
含めて4作品にすぎません。

ここを建てる5年前、1924(大正13)年にやはりコンクリートブロックで
自邸を建てられています。おそらく我が国最初のモダニズム建築。
これは世界的にも最先端をリードするものだったようです。
この旧鶴巻邸もコンクリートブロックむき出し、コンクリート打ち放しの
建築物は世界でもまだ珍しいもので、2007年にはモダニズム建築の保存に
関する国際組織DOCOMOMO Japanより、優れた日本のモダニズム建築の
1つとして選定され、2014年には国の登録有形文化財に登録されるなど、
近年その文化財的評価が高まっています。

この建物、2000年にその存在が発見され、現存を確認されたというもの。
実は私などは1970年前後の高校生活で毎日のように見ていたのですが、
当時すでに老朽化で傷んでおり、人が住んでいる気配も無く。
ただ不気味でミステリアス、オカルトチックな建物として見てました。
これほど貴重な建物だったとは・・・(^_^ゞ

2011年度より京都工芸繊維大学大学院の教育プログラム「建築リソース
マネジメントの人材育成」などの一環で、学生らが修復作業を行い、
一般社団法人 住宅遺産トラスト関西が活動支援しているようです。








全景を見ることは木々に被われているため、なかなか難しいのですが
疎水沿いの道から見るとこんな感じ、通学路で見ていた風景です。



疎水に架かる橋の上から見ると、北面のほぼ全景が見られます。
これが昭和4年に建てられたものだと考えると、とんでもなく先鋭的な
建物だったことでしょうね。





高校生の頃、この建物が只者じゃないとは感じつつも、すでにコンクリート
ブロックの塀や建物もよく目にしていたので、これほどエポックメーキング
なものだとは知らず。ただ、こんなデカい建物をよくブロック積みで造った
もんだなぁと。それにレトロな風情を見せるこの建造物を憧れの目で
見ていたことも確かです。こうして一般公開で見学できるとは思っても
みなかった嬉しいことです。



一般公開といっても勉強会的な要素も大きく、ギャラリー・トークなども
あったようです。参加費1,000円を払うと小冊子やコピーされた資料を
渡してくれます。参加費の収益は栗原邸の修復費用に充当されるとのこと。
スタッフは学生さん達が大勢で。見学者も私のように散歩がてら来た者も
居られるでしょうが、全国からこの一般公開(4日間)を目指して
多くの方が来られるようです。




細かに色んな説明札も置かれているので、興味深く見ることが出来ました。
ここで使われているコンクリートブロックは、大正時代半ばに
中村鎮(まもる)によって発明された通称「鎮(ちん)ブロック」と
いわれるもので、これを用いた中村式鉄筋工クリート建築は、
1920〜1930年にかけて、全国で119棟が建てられ、1923年の関東大震災で、
一棟も倒壊しなかったことから、耐震性や耐火性が高く評価された。
この工法、現在も見直しても良いですね。


さて、1階64坪、2階45坪、3階15坪。延床面積124坪の建物内は・・・



まだこれから補修の必要がある部屋も多々。この部屋は染色家でもあった
鶴巻氏の仕事部屋として使われていたもので、まだ手が入ってない様子。



この襖絵は、鶴巻氏による蠟纈(ろうけつ)染の作品。
氏は廃れていたろうけつ染を復興するなど、その染色技術や技法の研究は、
社会変化に直面していた京都の染色産業へ大きな貢献を果たしたそうです。


こちらはキッチン。






天井までの食器棚、これも昭和4年という時代を考えれば、とてもモダンな
設えだったでしょうね。今でも充分新しい?かも。






ちょっと失礼して引き出しなど開けて見ましたが、まだ食器や調理器が
いつ置かれたものか分かりませんが・・・古いものじゃなかったです。






一部、ドアや壁がペンキで塗られているのは、おそらく・・・
戦後この建物はGHQ、進駐軍により家族用住宅として接収されていた
時期があります。米軍中尉とその家族が暮らしたようですが、もともと
洋式の建物だったため、あまり改修されること無く使われたようです。
しかし内装はペンキで塗りたくられた?と考えられます。
前述の北面全景の写真で赤い大きな扉が見えますが、あれはジープを
乗り入れるため屋根付の車庫と共に設けられたものです。
ただ、中尉はフレンドリーな人柄だったようで、クリスマスの時期には
近所の子供たちを招いてパーティを行なったとか♪




無駄な装飾を排除し機能重視なモダニズムではありますが、シンプルながら
階段手摺などには装飾的な部分も垣間みれます。



主な部屋には暖炉がありますが、こちらもシンプル。
椅子やベッド、調度品なども多くは本野精吾によるデザイン。
長楽館のロココ調とは真逆ですね。




久しぶりの更新、栗原邸はまだ見所があるので続きます・・・(^_^ゞ



2016.5/28、栗原邸(旧鶴巻邸)にて。

豪華絢爛、極上、ゴージャス。

2016-05-16 23:07:56 | レトロ建築
贅の限りを尽くしたような旧村井別邸、長楽館の中身は・・・
それほど大きな建物では無いのですが、趣の違う様々な部屋があって楽しめます。
カフェメニューで来ても2階までは見学OK、もちろん写真撮影も可です。
ただ、お客さんも居られるので、なかなか思うようには鑑賞できませんけど。

建築様式から見ると外観はルネサンス様式。1階の客間〔迎賓の間〕はロココ調、
食堂〔フレンチレストラン〕は英国ビクトリア調のネオ・クラシック様式。
重厚な設えの〔書斎〕、ビリヤードを興じる部屋として造られた〔球戯の間〕、
建設当時は温室だった〔サンルーム〕今はいずれもカフェとして使われています。
2階には美術の間、喫煙の間、貴婦人の間、鳳凰の間、接遇の間などの部屋が
ありますが、ゆっくり見学はできませんでした。
3階は和室で長楽庵、御成の間があるのですが公開されてません。宿泊客は
見学できるようです。
インテリアに関しては英、仏、米、中、イスラム、そして和の趣が折中され、
さながらモデルルーム?
調度品も極上の本物、30ほどが文化財に指定されています。




〔迎賓の間〕アフタヌーンティーをいただいた部屋です。
応接間として造られた部屋、現存する日本の西洋館では最大規模だそうです。



シャンデリアは全館、バカラ社製だそうです。置き時計もタダもんじゃない?



今はアフタヌーンティー専用の部屋として、エレガントでゴージャスな
雰囲気を漂わせるロココ様式。乙女チックかな?(^_^ゞ
かつては数多くの賓客を迎えた部屋だったことでしょう。




暖炉、寒い時季には薪で火が入れられます。他の部屋にも暖炉があり
それぞれにマントルピースも趣向が凝らされているようです。
薪による暖房、そう言えば外から見ると煙突が何本かありました。



カメラ女子、撮影会を兼ねてアフタヌーンティーで女子会。
なんてグループも居られるようで・・・

さて、2階へまいりましょう。



隅々まで豪華絢爛、重厚な雰囲気が凝縮されている感じ。
写真を何枚とっても足りないくらいです。



二階の階段ホールから、もう何様式か私には分かりません・・・



この二階にはバルコニーが備えられた〔喫煙の間〕と呼ばれる部屋が。
さすが煙草王・村井吉兵衛別邸、建物の中心的存在?



扉の上にはステンドグラス。天井にはシャンデリア・・・なのに



なぜか壁や置物は中華風。
観音開きのドアにもステンドグラス、床はイスラム風のタイル張りに。



バルコニーはこんな感じ、桜の季節は最高でしょうね♪




二階のサンルーム、建設当時はバルコニーだったそうです。











〔喫煙の間〕を挟んで〔美術の間〕と〔貴婦人の間〕があります。
どちらも入りませんでしたが、当時は美術室、村井夫人の部屋として
使われていたもので、今はカフェやパーティ会場に使われています。




伊藤博文揮毫の扁額が飾られています。実は「長楽館」と名付けたのは
彼だそうで。竣工直後に訪れた際
「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と
感想を述べ、扁額に館名を揮毫されたものです。

貧しい煙草商の次男として生まれ、煙草王と呼ばれるまでに登り詰めた
村井吉兵衛。煙草産業が国家による専売制になった後、
その莫大な補償金を元手に村井銀行、東洋印刷、日本石鹸などの事業を
設立し財閥を形成するも、昭和に入りすぐに起った金融恐慌により破産。
没後、豪華絢爛を誇ったこの館も売却されます。
明治、大正、昭和を駈けた一代記をこの残された館が語っているようにも
思えます。



虎は死して皮を留め人は死して名を残す、名前ばかりでなく明治の
成り上がり、実業家の中にはこのような文化財を残した方が多いですね。
もちろんこの館に惚れ込み買い取って現在の姿にした先代オーナー、
現オーナーの情熱があってこそ、こうして観賞できるのですが・・・

珈琲、紅茶が1杯864円、高いようですが入館料込みだと思えば・・・



日本の洋館は西洋への憧れと、その文化に追いつきたいとする
バイタリティを感じることができるし、真似では終わらない匠の技も
感じたりします。そんなところが魅力です。
もともとバタ臭いものが好きですが、最近は「百年名家」で紹介される
ような和風の建物にも大いに魅力を感じますが・・・



2016.4/16、長楽館にて。

想いは遥か、百年の夢幻。

2016-05-08 23:55:11 | レトロ建築
円山公園の一角にある長楽館、レトロな洋館建てが目を引きます。
この建物、明治42(1909)年にアメリカ人建築家のJ.M.ガーディナーの
設計で建てられたもの。依頼主は明治のたばこ王・村井吉兵衛です。
さて、107年前にタイムスリップです。



かつては村井吉兵衛の別宅として、国内外の賓客をもてなすための
迎賓館の役割を果たすべく建てられたもので、伊藤博文、大隈重信や
山県有朋など明治の偉人たちや英国皇太子ウェールズ殿下や米国財閥
ロックフェラーなどなど名だたる賓客が多数訪れた館です。

現在は、私たちでもレストランやカフェ、ホテルとして利用すること
ができる『長楽館』。一度行ってみたいと思い、訪ねてみました。


訪ねたのは先月半ば、まだ円山公園には八重桜がなんとか咲いていました。



名残りを惜しんでのお花見があちこちで。このグループは女子会?



こちらはお決まりの隣国観光客、なんかなぁ着物姿です。







時代が時代なら私ら市井の人間が門をくぐることも許されなかった?
今は予約さえすればマイカーで堂々と入って行けます♪

この館誕生から107年、現代に至るまでの経緯、物語を辿ると・・・
建築主・村井吉兵衛は幕末の京都に生まれ、煙草の行商から身を立て
日本初の両切り紙巻き煙草を製造、煙草王と称されるまでになります。
当時のたばこ産業は製造業者が5000人ほどいたと言われる過当競争。
その激戦を勝ち抜き、生産日本一に。パリ万博で金賞をとるなど
世界的評価も得たようです。

しかし明治37(1904)年、日露戦争の戦費調達のため「煙草専売法」が
施行され、官営化されてしまいます。その際、明治政府から煙草商へ
莫大な保証金が支払われた。村井吉兵衛は全補償額の45%以上を手に
することが出来たようで、それを元手に長楽館の建築や銀行などの
事業を展開することになります。
長楽館には国内外の賓客、各界の錚々たる人物が集い、鹿鳴館を
しのぐともいわれた華やかな時代もありました。

それも束の間、吉兵衛没後の昭和2(1927)年には昭和の金融恐慌の
煽りで村井銀行が破産、長楽館も売却されます。
その後、何人かの手に渡ったようですが、昭和29(1954)年、現在の
オーナーの義父、土手富三が土地・建物を購入。
この建物に並々ならぬ情熱を持っていた土手氏、前の持ち主を5年も
かけて口説き落とし手に入れたのだとか。
購入時は進駐軍の接収を経ていたため、壁にはペンキが塗られ、
ぼろぼろだったようで・・・
私財を投じてひたすら修復に情熱を傾けた先代オーナー、購入から
10年余、隣接地にホテル・レストランを建設、開業。
昭和43(1968)年には、本館にて喫茶店開業に至ります。その後も
一部屋づつ改修を進め、3階までの修復が終わったのが昭和55年頃。
昭和61(1986)年に、館とその調度品の多くが京都市指定有形文化財に
指定されるに至ります。
現在も改装が続けられ、今年2月に全室リニューアル・オープン
されました。







外観はルネサンス様式で、1階部分が石張り、2階・3階がタイル張りに
なっています。正面から見ると意外とシンプル。



設計者のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーは、米国人宣教師。
教育者として現・立教大学の第3代学長も務めましたが、
学長を退任後、建築家として活躍します。
代表作は「外交官の家(旧内田家住宅):横浜」「聖アグネス教会:
平安女学院聖堂」「京都聖ヨハネ教会教会堂:明治村に移設」など



エントランス・ファサードには、イオニア式の柱頭、デンティルと
呼ばれる歯形飾りも観られる。上部はバルコニーになっていて、
玄関入口には村井家の家紋・丸に三つ柏があしらわれています。



側面の出窓やバルコニーが美しい。



前庭には大きな石灯籠や五重塔が置かれ、まさに和洋折衷。
これも海外からの賓客を楽しませるためだったのかな?



ちなみに、村井吉兵衛ゆかりの建築が幾つか残されているので
機会があれば訪ねてまわりたい。
残念なのが明治33(1900)年築の東山・馬町にあった煙草工場。
赤煉瓦造りの貴重な建築物だったのに、2009年に跡形も無く解体
されてしまった。『2006・京男雑記帳』
煉瓦ファンにはショッキングな記事?『解体現場』








2016.4/16、長楽館にて。

赤レンガにサクラ色。

2016-04-12 23:18:46 | レトロ建築
陸自宇治駐屯地の建物は、明治・大正・昭和戦前のものが4割以上
だそうです。何せ日清戦争を契機にできた所ですからね。
中でも煉瓦造りの建造物は25棟も遺されているとか。



煉瓦マニアには堪らない。レンゲ畑ならず、レンガ畑?(^_^ゞ
ただ、一般開放されるのは年に3回だけ。
それも建物見学のためではないので、近寄れるのは一部だけでした。



同じような建物が多いので、マニアになりきれない私にはよく分からない
のですが・・・ざっと、
補給部:需品倉庫、通信電子倉庫、整備部:木工所、器材工場、
キャンバス工場、メッキ工場、総務部:外来宿舎、授講室、教場などなど
の煉瓦造りの建物が並んでいます。







立ち入り禁止区域ばかりなので、全部は見られませんが・・・



機能重視の建物でしょうが、アーチ窓に瓦屋根、なんかイイ感じですね♪


〈補給部回収課及び保管課及び管理課〉



真っ赤なドラム缶の消火用水も雰囲気です。

〈補給部回収課及び保管課及び管理課〉





授講室、教場かな・・・


〈図書室〉




明治から平成まで、現役で使われ続けているというのが凄いですね。
煉瓦の積み方はみんな、イギリス積みかな。


さて、駐屯地のシンボル。貴重な煉瓦建造物といえば・・・



やっぱりコレかな、今は展望塔として活用されています。



この展望塔は、もともと明治28年(1895年)の日清戦争の時代に
「陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所」の水槽塔として建てられたものです。
大戦後は宇治市の給水施設として使用されていましたが、水槽部分の
老朽化に伴いタンク部分を撤去、平成6年に展望部分を設置して
現在の26mの高さの建物になっています。






一般公開されるのは春の桜まつりと秋の創立記念日だけだそうです。



中は随分補強されているようでした。壁沿いの階段を登って行くと
最上階の展望室に到達します。
外から見ると4階建に見えますが、階段フロアは6階分あったかな。
だから窓と階段フロアが完全に一致してません・・・






最上階、展望室から写真を撮りたいところですが、撮影は禁止。
やはりな、軍事機密か何かかな・・・と思ったら
周辺住民のプライバシーを守るためってことでした。それも納得。






この塔の前には枝垂れ桜の大木があるのですが、
残念!まだ今年は咲いていませんでした。検索すると見事に満開の
年もあるのですがね。





塔の中にこんな貼り紙が「刻印のある古~い耐火レンガ、どこに
あるか探してね」・・・



塔の廻りを探しまわりましたが・・・あらへんやん!
門番?の自衛官に「教えて、何処にあるのん」って聞いても
笑って、探してみて下さいって言うばかり・・・(⌒-⌒)ニコニコ
写真をよく見ると床か地面ですね、塔に無ければアソコかな?って
ここへ来る前に撮影した場所に戻ってみて・・・



ありやしたぁ~!発見~♪



上の写真は菱形にSSの刻印かな、『品川白煉瓦株式会社』の
刻印のようです。



これらは保存状態の良い、はっきりした刻印が残っていますね。
右の「BIZEN-□-INBE」は「備前-□-伊部」?
備前市伊部(いんべ)は、耐火レンガ発祥の地であり、現在も
耐火レンガの町として知られています。

左は「ACID PROOF KIOTO TAKAYAMA KOZAN」の刻印ですね。
今も株式会社高山耕山という会社がありますが、
この会社の沿革では、
明治5年・京都清水焼の窯元である高山源兵衛(耕山と号す)は、
耐酸セッキ煉瓦及び磁器煉瓦を日本で初めて製造し、造幣局の
前身である大蔵省大阪精錬所に納入する。
とあります。
ACID PROOF=耐酸・レンガの生みの親だったのですね。



他も探したのですが、汚れていてこれくらいしか見つかりません。
左は桜の刻印ですね。真ん中のは「×」でしょうか、だとしたら
「岸和田煉瓦」が明治26年~大正8年までに使用していた刻印。
右のはちょっと分かりません。



煉瓦刻印探しは夢中になってしまいますね。ここだけでもまだまだ
あったようですが、見つけることはできませんでした。







2016.4/2、陸自宇治駐屯地にて。

土木遺産隧道三昧、その3

2016-01-10 18:53:59 | レトロ建築
中途半端で小刻みな記事が続きましたが、いよいよ土木遺産ランクAの
『逢坂山隧道東口』(鉄道記念物)です。

京都から国道1号線、逢坂山を越えて大津へ降りて行くと
左R161(敦賀・高島)、右R1(四日市・草津)の標識が見え、
その分岐点、R161側にあります。






旧逢坂山トンネルは、明治13(1880)年完成。大正10(1921)年、新逢坂山
トンネルができ、現在の路線になるまで使われていたものです。
現存する最古の鉄道トンネルで、日本人技術者だけで初めて造った
トンネルでもあります。全長664.8mのレンガ積トンネル、当時はノミや
ツルハシでの手掘りで約1年8ヶ月で竣工したと書かれていますね。




ポータル(坑口)は重厚な石積み、内部はレンガ積みです。
のちに複線化され、この右側に上り線用のトンネルが開通し、
こちらは下り線として使われました。
ここから入り、抜ければ京都だったのですね・・・

鉄道記念物としても貴重ですが、現在世界一とも言われている日本の
トンネル掘削技術、その最初の一歩はここからってことなんだね。



ん! 霜?塩を噴いてる?何だろうなこの結晶は・・・



使われていたのは40年間ほどですが、蒸気機関車の吐く煙、煤の跡かな
黒く残っていますね。特に京都~大津間には逢坂山峠越えの急勾配、
山科~大谷間5キロに及ぶ25パーミル(蒸気機関車の登坂能力のほぼ
限界とされている)を走るため、勾配区間用として輸入された
Cタンク1800型という車両が使われていたそうです。




つくづく明治のマンパワーは凄いですね、ちょんまげの時代から
わずか数十年で近代国家に。
このトンネルが開通した時の歓びが目に浮かぶようです。
きっと輝かしい未来が見えたのでしょうね・・・♪



「楽成頼功」と書かれた扁額があります。時の太政大臣・三条実美の
揮毫によるもので、人々の功に頼って落成したって意味でしょうが、
「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であるとして「楽成」の字を
あてたと言われています。楽に成し遂げた訳ではありません。(^_^ゞ




右はのちに複線化に伴い掘られた、上り線の隧道出口です。
扉が付けられ中には入れませんが、そもそもこの旧逢坂山隧道、
東口はこうして残りましたが、西口は名神高速道路の工事のため
埋められてしまっています。

わずかに内部の煉瓦が見えます。

石積みのポータル、過度な装飾が無い分、質実剛健とした重厚感が。
翼壁も城郭の石垣を連想させますね。

輝かしい将来の礎となったはずのこの隧道ですが・・・
太平洋戦争末期には、三菱の軍需工場がトンネル内に引っ越し、
京都の女学校の生徒たちが勤労動員されていたといいます。
格好の防空壕兼軍需工場に利用され、戦後は家を失った人々が
住み着いていた時期もあるそうです。

現在は「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」
として、トンネル入り口から約350メートル進んだ中央部に、岩盤の
ひずみを測る伸縮計や地下水位計が置かれているのだそうです。


夏草やつわものどもが夢のあと・・・冬ですが (^_^ゞ
苔生したこの遺構が見て来た歴史は、いかばかりのものだったのか


2016.1/6、旧逢坂山隧道東口にて。

土木遺産隧道三昧、その2

2016-01-09 22:20:17 | レトロ建築
近代土木遺産と言っても、ここは現役バリバリ『蝉丸跨線橋』。
大正10(1921)年に竣工したもので、土木遺産ランクB。

何か古城か要塞のような煉瓦建造物で、見応えがあります。



この年、同時に東山トンネル・新逢坂山トンネルが竣工して
東海道線は新路線(現在のルート)となります。

これは、上を京阪電車京津線が走る跨線橋(こせんきょう)として
造られたもので、下を今もJR東海道線が走っています。
京阪電車が少し斜めに交差するからでしょうか、入り口がずらされて
いますね。この100メートルほど先に新逢坂山トンネルがありますが
その入り口はずれずに並んでいます。デザインもほぼ同じなんですが
コチラの方がカッコいい♪(^_^ゞ

ちなみにこの跨線橋の工事が遅れたため、京津線はこの区間約100mを
徒歩区間として京都側、大津側を別運行することで開業したようです。



1970年に京都-草津間の複々線化が完成、今の姿になりました。
向こうに見えるのが新しく出来たトンネルです。



それにしても重厚で素晴らしい煉瓦建造物。
汚れ放題なのが残念ですが・・・
ケルヒャーで洗ったら綺麗になるかな?(^_^ゞ



ここまで来て、新逢坂山トンネルの東口を見なかったのは片手落ち?
短時間しかいなかったから、上を走る京阪電車もトンネルを抜ける
JR電車も撮れなかったし。

またしてもリベンジですかね・・・
旧逢坂山隧道の東口は見て来たのですが。(^_^ゞ



2015.12/5、蝉丸跨線橋にて。

土木遺産隧道三昧、その1

2016-01-08 23:02:35 | レトロ建築
京都と滋賀県の境、逢坂山周辺の明治期・近代土木遺産の隧道を
探索してみました。(3部レポになります)

まずは異次元への入り口を連想させそうな「ねじりまんぽ」。

「ねじりまんぽ」とは、斜拱渠(しゃきょうきょ)の俗称。
鉄道と川や道路が斜めに交差する場合、トンネルのアーチ部分の煉瓦が
斜めに積まれるため、ねじれたような不思議な空間になります。
コンクリート構造物が発達する大正時代以降の構造物には見られず
主に明治期に造られたものです。

伊達や酔狂で斜めに積んだ訳ではありません。(^_^ゞ
上を走る鉄道に対して斜めに掘られたトンネル、強度を確保するため
線路・レールに対して直角になるよう煉瓦を積み上げると、
トンネル内では渦巻き状に積んだようになります。

詳しくは『駅員3』さんのブログの記事をご覧ください。
その法則なども分かりやすく解説されています。




場所は京都方面からだと国道1号線で逢坂山を越え、国道161号線との
分岐点を161号線に入って直ぐのところ(京阪の踏切を渡って右)です。
この上は国道1号線になっています。
この部分を通過するとまた1号線に合流します。



知らなかったらまず見逃してしまいそうです。

ねじりまんぽと言えば、南禅寺・蹴上げの琵琶湖疎水インクライン下の
通路が有名ですね(国史跡・土木遺産ランクA)
あそこの場合、上にインクラインのレールが敷かれているのですが、
ここの上は国道1号線。鉄道ではなく、何故?って疑問が生じます。

実はここの国道1号線、以前は東海道線だったのです。
明治13年(1880年)京都駅~稲荷~山科(勧修寺)~大津間が開通。
大正10年(1923年)東山トンネルができ、現在のルートになるまで
東海道線の路線でした。廃線になった部分の多くは道路に転用された
ようです。ここの道路の形状も明らかに築堤の名残りがあります。



明治13年にはすでに出来ていたと思われる斜拱渠、もう使われてない
のかと思ったら、今でも水路として健在でした。
入って行けないのが残念ですが(入るマニアも居るようですが)
地図で確認しましたが、向こう側から入るのも無理なようです。



現在は音羽台1号橋となっていますが、鉄道開業当時は東川橋梁と
呼ばれていたようです。
インクライン下のねじりまんぽと比べてもかなり急な角度のように
思えるのですが・・・某サイトで中に入り調査されたデータによると

起拱角が約30°という日本有数のレンガ傾斜角。
国道1号線の真ん中あたりでコンクリート製暗渠と結合されるだが
暗渠全体で50mほどあり、ねじりまんぼ自体の24mも国内で
トップクラスの長さになるのかもしれない。とのことです。

写真が上手く撮れなかったのが残念。
やはり長靴持参でリベンジかな・・・(^_^ゞ


2015.12/5、大津・ねじりまんぽにて。

ヴォーリズの大丸

2015-12-22 01:49:49 | レトロ建築
ヴォーリズ建築で知られる大丸心斎橋店本館が今年いっぱいで
大改装、来年初めから建て直し工事に入るという情報を知り、
えらいこっちゃ見とかな・・・と思い、行ってきました。



11月14日だったので、御堂筋の銀杏並木もまだこんな状態。

実は私、大阪の市街地をクルマで走るのは苦手。
あまり来ることがありません。大阪の学校に通っていたことも
あるのですが、その頃は電車だったしね。
それに淀屋橋と梅田くらいしかうろうろしなかったし・・・
考えたら大丸心斎橋店は初めてかも。



相変わらず駐車場は屋上が好き。(^_^ゞ あれ何やねん?
ここはどこやねん、みたいなものも見れるしね。



こんな細い路地があった、何か楽しそう♪「風呂小路」やて。
風呂工事? 袋小路でもなく、抜けると・・・

御堂筋~!



ででぇ~んと大丸心斎橋店がッ!

建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作のひとつで、
1933年に完成した「大正モダン建築」。
この景観は見納め?外観は保存するということだが、どうなることか。

重厚なネオ・ゴシック様式。幾何学模様や動植物を抽象化した図柄を
基調としたアール・デコの装飾を至る所に採り入れている。
北西角の塔は同時代のエンパイアステートビルを彷彿とさせる。

とりあえず、ぐるっと回ってみることにします。



(左)塔の部分を見上げるが、肝心のてっぺん部分が見られない。
(右)ネオ・ゴシックスタイルのランタン。



ここだけ切り取るとアメリカかヨーロッパのようです。



御堂筋側エントランス上部の装飾、花崗岩とテラコッタによる
手の込んだ幾何学模様が美しい。



創業1717年の銘板が懸けられている。享保2年、徳川吉宗の時代。
京都伏見に古着商「大文字屋」を開業したのが始まり。
1912(明治45)年にはデパート形式の京都大丸が開店してた。

京都では大丸百貨店を呼ぶとき「大丸さん」とさん付けにして呼ぶ、
理由は何だっけな?災害か何かの際、市民を救済すべく店の前で
炊き出しをしたとか・・・
大丸創業者の経営理念は「先義後利」。天保の大塩平八郎の乱の時、
「大丸は義商なり。これを侵すなかれ」として大丸は焼き討ちを
免れたといいます。京都人には根強く大丸信仰が残っているかもね。
高島屋も京都が創業の地なんだけどね・・・
そうそう、さん付けでなくても大丸京都店とは呼ばないかな
「京都大丸」って呼ぶ。これも京都人らしいところかも。(^_^ゞ




御堂筋中央玄関、もう少し上を見ると
大丸のシンボル、孔雀のレリーフが。そして、鷲とペリカンの彫刻。
なんでペリカンなんやろ・・・?












正式な大丸の社章は「七五三」と知られています。
創業当時の大丸の屋号は「大文字屋」と言うこともあり、当時から
「大」の字を使っていました。「大という字は、一と人を合わせた
もので、丸は宇宙・天下を示す」ことから、天下第一の商人であれ
という創業者の志と決意が込められたものと伝えられています。
大丸マークは、1913(大正2)年に、縁起のよい七五三の髭文字を
商標登録したということです。
「一」の左が三本、「人」の左下が五本、右下のはねが七本に
分かれています。

大丸の社章の左右には「イソップ寓話」をモチーフにしたと思われる
「ウサギとカメ」。ヴォーリズ建築における「ウサギとカメ」は、
滋賀県の豊郷小学校のものが有名ですね。






南西門を曲がって清水町筋へ。






それにしても色んな意匠が見られる、これをどのように保存するのか?
1945(昭和20)年の大阪大空襲で焼失した部分の修復やその後の増築
など同店は何度かの修復・改装を経ているが、一貫してヴォーリズの
デザインを尊重し、守ってきた。
今後もその方針は変わりません。いかなる改装があっても
それは継承していくことになっています。
と言うことなので、お手並みを拝見したいものです。


〈南玄関〉


さて、これが心斎橋筋かな。アーケードが邪魔をして
残念なことに上が見えない・・・





〈心斎橋筋中央玄関〉

こちらのファサードには印象的な孔雀、大丸のシンボル
ピーコックのレリーフが輝いています。
当初ヴォーリズからは、焼失した店舗再建の願いを託して
不死鳥フェニックスでという指示が出ていた。ところが
テラコッタを受注していたアメリカのメーカーは愛と幸福の
象徴である孔雀を提案し、それが採用されたのだそうです。




北側、大宝寺通りから塔を見上げたけれどやはり無理がある。


〈北玄関〉

一応ぐるっと回ったけれど、見れなかったり見落としたり
しただろうな。それでもまずは納得。ヴォーリズ建築を
堪能できたと思います。

それでは次回、店内編を・・・



2015.11/14、大丸心斎橋店にて。

観楓・清凉寺

2015-12-12 00:30:38 | レトロ建築
カメラ試写の続きです。下鴨神社では紅葉が見られなかったので
清凉寺を訪ねてみました。



今年の夏に訪ねた折り、境内や庭園に楓がいっぱい植えられていて
秋には、さぞ・・・と思ったのですが。


〈多宝塔の前の紅葉〉

お寺の説明は今回はなし、前回とだぶりますからね。
今回は写真の羅列になります。










観楓(かんぷう)という言葉はあまり使いませんね。
もみじ狩りの方が一般的。逆に「さくら狩り」は聞きません。
「梅狩り」なんて言ったら果物狩りみたいだもんね・・・






どうも「狩り」という言葉は自然の中、特に山かな?に分け入って
何かを獲ってくる。そんなニュアンスがあるようです。
鹿狩り、猪狩り、植物で言えばキノコ狩り、柿狩りなんてね。
イチゴ狩りやブドウ狩りは農園や果樹園に行きますが・・・







もみじがお寺の境内や庭園に植えられるようになったのは
梅や桜より後のようです。
源氏物語五十四帖の巻の一つ、第7帖。に「紅葉賀(もみじのが)」
というのがあり、光源氏の建てた六条院の秋の町には紅葉が植えられて
いたと記されていますが、この頃はまだ、観賞用としてあまり庭園に
植えられてはいなかったようです。












平安貴族の紅葉の愛で方は、どうやら山に行き紅葉した楓の枝を
手折り、それを眺めて楽しんでいたってところでしょうかね。



桜とともに日本の四季を雅に彩ってくれる紅葉、
できれば優雅に観楓したいものですね。



2015.11/28、清凉寺にて。

制限時間いっぱい。

2015-10-09 09:44:15 | レトロ建築
四国紀行に戻ります。(^_^ゞ
お城でとろとろしていたから、レトロ建築をゆっくり観る時間が
無くなりました。と言うか目的地多くて・・・欲張り過ぎかな?


〈愛媛県庁〉
クルマの中から撮りました。いやいやなかなか素晴らしい建造物。
1929年に本館が完成。1980年に別館が完成。そして、1982年に
県議会議事堂が完成し、現在にいたるそうです。
設計者は木子 七郎(きご しちろう)氏。愛媛県内に多くの名建築を
残した方だそうです。生まれは京都のようですが♪

いつかじっくり見学したい建物です。『愛媛県庁』


それよりもっと観たかったのがここ・・・


〈萬翠荘(ばんすいそう)〉
設計者は愛媛県庁と同じく木子七郎氏です。
旧松山藩主の子孫,、久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が
別邸として建てた、フランス・ルネッサンス風の洋館。

松山城の南にある愛媛県庁のすぐ東、「坂の上の雲ミュージアム」の
前の道から少し登ったところにあります。

松山城のロープウェイを営業時間ギリギリで降りて、立体駐車場から
クルマを出して、ここに辿り着いたのが・・・6時前。
案内の方が「あと5分で門を閉めますが、見に行かれますか?
外からだけなら見れるとは思うけど・・・」ってことでした。
とりあえず観たいので、お願いしますと・・・門を入ったものの
建物前まで行くのにクルマでも1分以上はかかるのね。(^_^ゞ
往復の時間を考えれば写真を撮るのは1分か2分!

慌てた、慌てた。門を閉められたらと思うとね。



ほんとうは中も見学したかった。
心残り・・・でも明日の予定も詰まっているし、ここもリベンジかな。
『萬翠荘』



とにかく門が閉まるまでに出られました。案内の方はにこやかに
私達が出るのを確かめられて・・・
後で写真の日付を確かめると、すでに6時を回っていました。
待っていて下さったのね♪


さて、この日のホテルはお城の西側。くるっと回れば着きます。



おぉ、路面電車♪ 『ぼっちゃん列車』にも乗ってみたかったけど
以前、道後温泉へ行った時に乗りそびれたからリベンジしたかった。
今回も無理みたい・・・




ホテルと言っても『アパホテル松山城西』
その名の通り、松山城の真西にあります。



窓からはお城の堀が見えました。

夕食は近くで探そうと思っていたので予約せず。ご近所をぶらぶら
イイ感じのお好み焼き屋さんに入りました。



ここが結構アタリでして、関西風お好み焼きイカブタとネギ焼きを
セットメニューで注文したら、ボリューム満点。



セットも色んなものが付いてきて、食べきれず。余ったものを
お持ち帰りで詰めてもらいました。
ちなみに、セットで選べるドリンク、クリームメロンソーダに
したのに、やっぱりお好み焼きにはビールでしょ!って思って
ノンアルコールのビールを注文。お腹ちゃぷちゃぷ・・・(^_^ゞ



お好み焼きに小鉢3種、鶏唐揚げ+フライドポテト、大盛りのサラダ、
ソフトドリンクも付いたサービスセット。
半端無くリーズナブル、結婚40周年、私ららしいディナーかな。(^_^ゞ
『みつ蜂』また機会があれば行ってもよいお店でした。


さてと、アサーーッ!
東に見える勝山からの日の出、ちょうど松本城がシルエットに。




SW、満室なので朝食は混みますよとは聞いていたのですが






変哲無い朝食バイキングですが、品数はかなり多い方だったと思います。
『アパ社長カレー』も食べ放題です。意外と美味しかった♪




APAホテルは初体験だと思いますが、悪くは無いですね。
クラシックな設えは、もともとミレニアホテル松山ってとこだった
ようで、古い建物では無いですが殺風景でもないかな。
部屋は狭くて駐車料金も別途だったけれど、安くは済みました。





2015.9/22、アパホテル松山城西にて。

ぶっちゃけ、仏教系。

2015-08-07 21:31:43 | レトロ建築
西本願寺境内と隣接する龍谷大学大宮キャンパスに寄ってみました。
龍谷大学は、1639(寛永16)年に西本願寺境内に設けられた学寮を
前身とする仏教系の私立大学です。
龍谷大学を知らなくても、高校野球でお馴染みの付属平安高校は
ご存じでは?(^_^ゞ

〈東黌(とうこう)〉本館の向いにある教室棟。比較的新しいがユニーク。


本館のほか、校舎である南黌・北黌、正門、旧守衛所などは、
1879(明治12)年に竣工したもので、関西における洋風建築の
先駆を成す斬新な建物として、重要文化財に指定されています。



〈正門・重文〉
明治初期に建てられたままの景観を残し、ドラマのロケにも多く
使われているそうです。



鉄製の門扉はロンドンから取り寄せたものだそうで、当時
日本の軍艦などを造っていた英国のアームストロング社製。
現在の扉はレプリカで本物は東黌に展示されているそうです。

正面には本館、右に北黌(ほくこう)。手前に守衛所があります。
「ごめんやすな、写真撮らせてもろてもよろしおすか」と
声をかければ(別に標準語でも良いけど)快諾いただけます。
見学用のパンフレットも貰えるらしい・・・
左には南黌(なんこう)、手前にはこれも重文の旧守衛所が。



〈龍谷大学大宮学舎 本館・重文〉

モダンな洋風建築で、とても仏教系の大学とは見えませんね。
もうひとつ驚きが、この建物、木造なんです・・・(^_^ゞ



擬洋風建築といわれるもので、日本の技師、大工が見よう見まねで
造った?内部も含めて思いっきり和洋折衷の美が堪能できます。
ちなみにここの住所は、七条通大宮東入大工町。
居たのですね、こんな建物を建てる大工が・・・(^_^ゞ
木造石貼り建築は、比較的早い時期に外国人が居住した横浜などで
よく用いられたそうですが、現存するのは珍しいそうです。
窓や手摺等には前述の英国製のものが設えてあります。



〈南黌(なんこう)・重文〉

白亜の美しい壁とアーチ型に連なるヨーロッパ調の窓が印象的な
優雅な建築物。これも木造で、ベランダの連続アーチは、木を弓形に
組んで石灰モルタルを用い、石造りのように見せています。

〈渡り廊下〉南黌と本館を結んでいます。柱は昔の駅のイメージ?

〈北黌(ほくこう)・重文〉
2階の窓も優美、南黌、北黌は本館を挟んで建っています。
現在、教室として使われていますが、もともと寮として建てられました。
今でこそレトロですが、当時の学生たちはこんなにモダンな寮で
生活していたんだなぁ。



さて、煉瓦マニアにはお待たせ。小型建築物ですが、これは木造ではなく
煉瓦積み、側廻り四隅砂岩石材の明治初期のものです。
今は龍谷大学オリジナルグッズ展示館になっています。
〈旧守衛所・重文〉

(北小路通から北黌の北面を観る)




北小路通を挟んで西本願寺境内。台所門、大玄関門(工事中)、
唐門が並んでいます。



ところで、西本願寺系がこれなら東本願寺系は?
・・・ありますよ、北区にですが大谷大学尋源館(旧本館)が。
ここより少し遅れて1913(大正2)年に建てられた煉瓦造りの建物。
これまたレトロ建築として充分見る価値ありかな。



2015.7/5、龍谷大学大宮学舎にて。

おにっさんの伝道院

2015-07-18 12:41:22 | レトロ建築
見どころいっぱいの『龍谷山 本願寺』通称:西本願寺を訪ねました。
西洞院通りを真ん中に、左右に東と西の本願寺がありますが
東本願寺は真宗大谷派の本山。正式名称:真宗本廟で、
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。正式名称:本願寺です。

京都では「おひがっさん」「おにっさん」と呼んでいます。
そこのお兄さん、「おにっさん、参ったか!」と訊かれても
「参りました、降参です」と勘違いしたらあきまへんどすぇ。(^_^ゞ

本願寺の歴史を辿れば・・・長くなるので、後々憶え書き程度に
まとめることとして。
現在の東・西本願寺は仲良うしたはるようです。



〈御影堂門築地塀越しに見える本願寺伝導院〉




境内北側、聞法会館(もんぼうかいかん)のところに
広大な無料駐車場があります。



〈総門〉重文

境内に入る御影堂門の真東、堀川通を隔てて総門が建っています。
この門は「高麗門」と呼ばれる形式で、門扉の上に大きな屋根、
左右の控柱(脇柱)の上に小さな屋根を設けている。
写真では左右に塀が続いているように見えますが、実際はすぐに
途切れていて・・・何か変。(^_^ゞ
片側3車線、中央分離帯、歩道もある京都にしては広い堀川通が
境内の間に通っており、ちょっと特異な立地かも。

重要文化財ですが、西行き一方通行の正面通りにあり、門扉は無く
普通にクルマがくぐり抜けて行きます。
正面には西本願寺の御影堂門、目隠塀が見えています。






総門を出た門前町、正面通りは仏具店ストリート。
ずっと先には東本願寺も見えています。
ちなみに仏壇や仏具、浄土真宗だと言うと「お東さんどすかお西さん?」
と訊かれます。結構違うんです。お東さんの方が地味だったかな。

そうそう「正面通り」の由来は、本願寺の正面だから、ではなく。
かつて東山山麓にあった方広寺大仏殿の正面に通じるからなんです。


さて、この建物を観て、誰が仏教施設だと思うでしょうか・・・


〈本願寺伝道院〉重文

1895(明治28)年に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、
東京帝国大学教授 伊東忠太の設計により建築されたものです。
様々な使用を経た後に現在は「本願寺伝道院」となり、僧侶の教化育成の
道場として使われているとのこと。









近代レトロ建築ファンには見逃せない建物ですね。
様々な国の建築様式が融合されたような・・・
レンガ張りに石造り風の装飾をあしらった外壁、2階窓枠はギリシャ風?
塔やアーチ状の門はサラセン様式、塔の窓は日本古来の花頭窓にも
見えるし、千鳥破風のカタチも・・・何とも見応えのある建物です。

設計者の伊東忠太は、東京駅など多数の近代建築を残した辰野金吾の
教え子でもあり、欧化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を進化させる
ことにより生み出さなければいけない、という「建築進化論」を提唱し、
日本の建築界に大きな影響を与えた人物です。
数多くの作品が残っていますが、築地本願寺や一橋大学兼松講堂、
震災祈念堂(現・東京都慰霊堂)、京都では祇園閣などが有名かな。




そしてこの伊東忠太の作品には、もうひとつ特徴があります。
それは、こんな怪獣?妖怪たちの姿・・・









伊東忠太は妖怪好き。「妖怪研究」なんて著書も残されています。
もともと画家(漫画家)になりたかったということで、本格的な
日本画や、妖怪などを描いた軽妙な漫画も多く残されていて、
建築でもここだけではなく、兼松講堂や震災祈念堂などには
摩訶不思議な動物の彫刻が付けられています。






2015.7/5、本願寺伝道院。