カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

名残り桜?平安神宮。

2014-04-29 22:00:59 | 花だより
ソメイヨシノは終わったものの、枝垂れ桜や八重桜、御衣黄(黄桜)が楽しめます。



ソメイヨシノもいいけれど、花としては八重桜も見応えがありますね。








おっと、これは桜ではありません。石楠花(しゃくなげ)ですね。

「花は桜」・・・と言えば、「君は美し」?いきものがかりの歌の歌詞ですね。
元は「花は桜木、人は武士」じゃないかな、もう聞かなくなった言葉ですが・・・
これ、一休和尚の言った言葉の一部なんです。「花は桜木、人は武士、柱は桧、
魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」



枝垂れ桜と牡丹桜のコラボ

さくらの品種は600種以上確認されているそうです。原種、自生種だけでも100種。
自生種をヤマザクラと言うのに対して、人為的に品種改良されたものを
サトザクラと呼びます。その代表が「染井吉野」ということになりますね。
江戸末期に江戸染井村の植木屋が吉野桜と銘打って売り出したのが初めですから
150~160年ほどの歴史かな、でも全国シェアは80%なんだとか。


黄桜と牡丹桜のコラボ

さくらに黄桜という品種は無いはず、黄色い桜は「鬱金(うこん)桜」、
緑の桜「御衣黄(ぎょいこう)桜」は、最初緑で黄色くなってから散る前は
ピンクっぽくなります。鬱金桜も散る前はピンクっぽくなりますが。


御衣黄

ここの黄桜は「御衣黄桜」でしょうね。もう開ききってピンクっぽいですが。



楓と八重桜のコラボ

八重咲きのものを八重桜、牡丹桜と呼びますがニュアンス的には牡丹桜の方が
花弁が豊かな感じかな。花弁が細いもので菊咲きというのもありますね。


薮椿と八重桜のコラボ

東神苑、栖鳳池(せいほういけ)。もう出口が近いです・・・








泰平閣(橋殿)



ここの鯉の餌は、焼き麩でした。どうも食いつきがよろしく無いようでw(^_^ゞ
花嫁さんの記念撮影、こちらの恋のエサは何だったのだろう・・・?


蒼龍池の飛び石にも使われていた三条、五条大橋の橋脚の遺構。






2014.4/20、平安神宮 神苑にて。

シーズンオフ?の平安神宮。

2014-04-26 23:04:52 | 京都徘徊記
平安神宮の神苑に入るのは初めて。ここは紅枝垂れの桜が有名で、
ライトアップもされます。今年は2014年4月10日(木)~4月13日(日)
4日間のみですが、その間、恒例「紅しだれコンサート」が催されました。

それが済むと、観光客もぐんと減り人出は少なくなっているだろうと・・・



案の定、少ないです。ま、ひっそりとまではしませんが。(^_^ゞ



ただ、神苑の紅枝垂れは見頃を過ぎ、左近の桜はもう完全に散ってしまってw

そんな中、華やかに満開なのが・・・





期間限定の「桜(はな)みくじ」。その結び木でした。
・・・吉もない、凶もない、花の季節だけの運だめし・・・
薄紅の桜色をした紙に、吉凶の代わりに「つぼみ、つぼみふくらむ、咲き初む、
三分咲き、五分咲き、八分咲き、満開」というように運勢が書かれています。
願い事を書いてこの結び木に結び、満開成就を願うそうです。
ここだけは枯れ木に花が咲いたように満開でした。




神苑の特設受付ももう終了? しめしめです。人出は思った通り少なそう♪
常設の入口から入って行きます。







盛りは過ぎているとはいえ、まだ楽しめました。

平安神宮 神苑、総面積は33,000平方m(約10,000坪)の池泉回遊式庭園。
国の名勝に指定されています。
作庭は7代目小川治兵衛(明治から昭和にかけて「植治(ウエジ)」と
呼ばれ東山界隈に円山公園、無隣庵を始め幾多の名園を残す。)
神宮境内の三方をぐるっと囲むように、南神苑・西神苑・中神苑・東神苑が
あります。虫垂炎や中耳炎は無かったな・・・(^_^ゞ



南神苑の南の端っこに展示されている日本最古の電車、チンチン電車です。
もともと平安神宮は明治二十八年(1895年)、平安遷都1100年を記念して
行われた京都博覧会のメインパビリオンとして建設されたもの。
電車は、それに合わせて日本で初めて営業運行を開始したものです。
電源確保のため琵琶湖疏水を造り、これまた日本初の水力発電を開始するなど
京都の近代化、観光都市化を象徴するようなものですね。
それにしては、保管状態はイマイチ・・・





桜散り、ツツジが咲き出す季節の移ろいを感じます。
順路を進むとちらちら社殿が見えるのも楽しいですね。



神苑には白虎池、蒼龍池、栖鳳池と三つの池が配され、それぞれの池を
結ぶように小川も流れています。
作庭の際、びわ湖から水を引いて閉じ込めてしまったおかげで、
今はびわ湖で絶滅危惧種となった淡水魚がここでは見られるそうです。



平安神宮でれんげ草が見られるとは思ってませんでした。ま、京都御苑には
いっぱい咲いていますけどね。(^_-)




桜が終われば藤の花、ここは藤も・・・と思って来たのですが、
咲いていたのはここだけw 少し早かったようです。
紫の花の藤棚は東神苑、栖鳳池(せいほういけ)の泰平閣の近くにあります。



白の藤棚があるのは中神苑、蒼龍池のほとりです。
蒼龍池には臥龍橋と呼ばれる飛び石があり、珊琥島につづいています。
この飛び石、豊臣秀吉による京都大復興の際、造営された三条大橋と
五条大橋の橋脚に使われていたものだそうです。



初夏ともなると、池には睡蓮や河骨(こうほね)が咲き、杜若(かきつばた)
花菖蒲も咲き競い、八つ橋が架けられるので趣のある風景が観られます。









シーズンオフでしたが、それなりに楽しめました♪




2014.4/20、平安神宮 神苑にて。

とんでる?飛行神社。

2014-04-20 21:39:23 | 京都徘徊記
一見、ナニコレ的な神社。京都・八幡市にある『飛行神社』です。

日本で初めて飛行器を考案、ゴム動力による「模型飛行器」を製作、飛行に
成功した人物。二宮忠八氏が自邸内に私財を投じて1915(大正4)年に創建。
これって航空マニアならずとも、非常に興味がわきますよね。



忠八の死(1936(昭和11)年)により廃絶していたものを息子、二宮顕次郎に
よって1955(昭和30)年、復興されました。今は宗教法人となり、
三代目宮司に二宮裕二が就任されているとのこと。
設備も近代的?建物の下が駐車場になっています。





祭神は大阪府交野市の磐船神社より勧請した饒速日命(ニギハヤノミコト)。
饒速日命は神話において天磐船(アメノイワフネ)に乗って地上に降臨した
とされることから、空の神・飛行機の神として結び付けられ、飛行神社の
祭神に選ばれたようです。

向かって右の社殿には、航空殉難者諸神が。左には薬祖神が祀られています。



それにしてもギリシャ神殿風の拝殿は、独創的。
拝殿の前後にはステンドグラスが嵌められています。柄はそれぞれトンボと
トビウオのようでした。どこまでも飛行にこだわっていますね。





鳥居はジュラルミン製、その両脇にはプロペラの狛犬?(^_^ゞ
ひとつは綺麗なプロペラが石灯籠の台座、アルミ合金の支柱に付いています。
もうひとつは、無残な姿のプロペラ。破損したエンジン部分も残っています。
実は大阪湾の漁場で漁師が底引き網に引っかかったものを引き揚げたとか。
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機首部だそうです。(昭和58年)
戦争で悲惨な運命を辿った航空機の部品、一方の綺麗な方のプロペラは
平和を願って建てられているようにも見えました。

さてここらで、二宮忠八という人物と、この飛行神社を設立された経緯なども。
1866(慶応2)年、まだ幕末、池田屋事件、第二次長州征伐が勃発した年。
アメリカでは、やっと南北戦争が終結した年です。そんな年に生まれた忠八。
今の愛媛県八幡浜市の商家の四男坊ですが、12歳で父親が亡くなり生計を
助けるため働きつつも、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。
その頃から学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は
「忠八凧」と呼ばれて人気を博したといいます。

1889(明治22)年、陸軍従軍中に「飛行器」を考案。この飛行器という言葉も
忠八が考えたもののようです。もちろん日本で初めて飛行原理を確立したと
いえます。この時は「烏型飛行器」で、1891年に模型での飛行に成功しました。
翼幅は45cm、全長は35cmで翼の後ろに推進式の四枚羽プロペラを配し、動力は
ゴム紐(聴診器のゴム管を流用)。3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行。

・・・そんなん、僕でも飛ばしたことあるわ!模型のゴム飛行機ってあったもん。
喝ッ!当時はそんなもんありまへん。世界でもまだまだ珍しい偉業でした。
ましてやプロペラを推進方法にするなど画期的。

この後も、有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の模型(翼幅2m)を
作成。その実用化への開発を軍に申請するが、受け入れられず実機の完成を
実現することは出来なかった。
見る目のある人が軍に居たなら、世界初の有人飛行は日本人の手で成されたかも。
ちなみに、この時の上官は後に忠八に宛てて詫び状をしたためたとか・・・

また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ
忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に
飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。



結局、飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにした忠八は退役し
大日本製薬株式会社に入社、支社長にまで昇進するものの資金をまかなえず、
ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。
この間、1903(明治36)年12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。
しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への
情熱を持ち続けていた。ちなみに忠八の設計した玉虫型飛行器の動力には
ライト兄弟のフライヤー1号と同じく12馬力のエンジンが予定されていた。



ライト兄弟の偉業を知った忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を
取りやめ、製薬の仕事に打ち込むことになる。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために私財を投げ打って
飛行神社を設立、自ら神主になっている。
自らも飛行機開発に携わった者として責任を感じたのでしょう。
ここ八幡市に私邸を構えたのは、故郷愛媛県八幡浜市への思いからとも。

日本で唯一といわれる航空関係の神社(世界でもここだけかも?)、
ここには世界中の全ての航空事故の犠牲者の御霊が合祀されています。
日本国内の航空事故犠牲者についてはひとりひとり表名で、国外の犠牲者に
ついては無表名で合祀されているようです。

宮司さんの話では、拝殿も「ギリシャ風というわけではなく、全世界の
航空事故で亡くなった方を祀っているので、外国の方も参拝しやすいように、
西洋風にしているんです」とのことです。
絵馬も世界各国の言葉で書かれたものがあるようです。もちろんCA志望、
航空業界就職祈願とか旅行の安全祈願や合格祈願もね。



もうひとつの社殿には、薬業の祖神とする武田長兵衛と金毘羅神と
地主神である白龍神を祀っています。



大阪湾で引き揚げられたというゼロ戦の機首部分です。

ここにはまた「二宮忠八資料館」(有料:一般300円)があります。
私はこの日、ゆっくり観る時間が無かったのでパスしましたが、
航空マニア(そうでなくとも?)ぜひともご覧アレの施設のようです。
二宮忠八氏関連のものはもとより、さまざまな飛行機の模型や実際の機器が
置かれ、人工衛星やロケットの模型も多数あるとのこと。
また別室には全国の有志による飛行機プラモの展示室と航空機に関する図書室に
なっており自由に閲覧できるそうです。プラモはどれもこれも飛行機ファンなら
垂涎の品ばかりで、日本一の飛行機模型コレクションではないかとまで。




これまたレアな!道路側に展示されているこの巨大なブツは・・・
F104戦闘機のジェットエンジンです。
ジェット戦闘機と言えば、このF104が強烈な印象があります。僕らの世代は?
『ロッキード F-104 スターファイター』
航空自衛隊では、三菱重工がライセンス生産したF104Jが「栄光」と
呼ばれていました。またの名を「三菱鉛筆」(^_^ゞ







2014,3/16、飛行神社にて。

もうちょっと、うろうろ男山。

2014-04-17 22:42:07 | 京都徘徊記
『絲杉山 神應寺(しすぎさん じんのうじ)』何故かまた行きたくなりました。
以前は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の展望台近くから徒歩で
険しい山道を谷に降りて、また山を登って・・・今回はクルマでぐるっと
回り込んでみました。五輪塔(航海記念塔)があったところから狭い道を
もう少し先に行けば参道口の山門があります。直ぐに160段余りの急な石段が
待っています。で、そこもパス。その先の駐車場へ向かいました。(^_^ゞ


無料駐車場、貸し切り状態でした。



山門からの参道の石段は回避したものの、こちらからも結構な登り坂。



最後は結局、急な石段が待ち構えています。横になにやらレールが・・・



電動リフト?バリアフリーの装置かと思ったのですが、どうやら荷物用?




率直に言って「城南第一の古刹」と言われているようには見えません。(^_^ゞ
創建は平安時代初期の860年、石清水八幡宮を創建した行教律師によって、
応神天皇の御牌所として創建されたといわれる。当初「応神寺」として、
四宗兼学(天台、真言、法相、律)の道場でした。寺号も天皇の号まんまなので
「神応寺」と改め(逆さにしただけ?)現在は、曹洞宗の寺院となっています。



寺紋は、豊臣家(太閤桐)及び徳川家(三葉葵)両家の家紋使用が認められて
いるのだそうです。これは珍しいですね。
秀吉の死後、秀頼によって安置された秀吉公の木像があり、徳川家代々の
位牌も安置されているのだとか。

「神応寺てらこや」と言うのがどういうものなのかは、判りませんでした。



元禄五年(1692年)に作られたとされる鐘楼で、この釣鐘の中でお願い事を
大声で叫べば望みが叶うのだとか・・・



この釣鐘、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎の寄進って事じゃなかったかな?
そんな記述は無いので、きっと思い違いかな。(^_^ゞ
ただこのお寺には淀屋辰五郎のお墓があるようです。
大阪の淀屋橋はこの淀屋が架けた橋だったり。「一刻の商いが80万両に及ぶ」
という米市を初め、幕府や西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、
その力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商だったそうです。
ちなみに、淀屋の栄華も5代目辰五郎の時に、ぜいたくが過ぎ?町人の身分を
わきまえぬと、徳川幕府から米商の免許を取り消された上、
家財等を没収されて潰れてしまいましたとさ。



以前、このお寺に来た時は、椿がもっと咲いていて等身大の竹人形があったり
結構楽しめたのですが・・・w
秋は紅葉の名所であり、本尊薬師如来、日光・月光菩薩像、
重要文化財である木造行教律師座像などが特別拝観ができるようです。
書院は伏見城の遺構と伝えられ、襖戸杉戸には狩野山雪の筆による「竹に虎」
「御所車(重要文化財)」が描かれている。これも見られるのは特別公開時。
なお、近代の航空機研究者・二宮忠八のお墓もあるそうです。


ここまで来たら奥の院、杉山谷不動尊にも行ってみないとね。



途中、この下を通ります。男山ケーブルの橋脚で、高さ50mはケーブルの
橋脚としては日本一だとか。



15分に1回、ちょうどここで登りと下りがすれ違います。
スピード遅いので写真に撮るのは簡単ですが、木立が邪魔で・・・
前回のように散策路・こもれびルートからだと上から撮ることもできます。


さらに谷の方へと降りて行くと谷不動への道。
途中の分かれ道を、朱の鳥居の方へ行くと霊泉瀧(ひきめの瀧)、ちょっと
気味が悪いので行きませんでしたが。(^_^ゞ



神応寺もそうですが、ここはなおさら人の姿を見ません。静けさの中に
ただただ幟がはためいているだけ・・・



雰囲気あります、お堂も他では見ないようなカタチだし・・・









由来を読むと、平安時代の初期、悪鬼が出没し、人々を悩ませていた。
たまたま、諸国を行脚中の弘法大師(空海)がこの話を聞き、法力によって
悪鬼を封じた。そして、一刀三礼により不動明王を刻んで安置し、諸人を
護ったという。本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王が座し、
両脇には善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制咤迦(せいたか)の2童子が
控えている。これらは秘仏で見られないようですが、十一面観世音菩薩像が
安置されているのは見られます。

こんな秘境のような霊場ですが、駅から徒歩10分ほどなんです。
夏場はひんやりして良さそう・・・












2014.3/16、神應寺にて。

男山散策

2014-04-15 13:39:11 | 京都徘徊記
在庫ネタ、石清水八幡宮のつづきです。もう1ヶ月前の話・・・
神社としても歴史・由緒のある八幡宮ですが、他の顔もあるのでご紹介。



?何故か、目立つところにこんな像が・・・ボーイスカウトと所以が?
どうやらスカウト育成会の拠点になっているようです。
この像、どうも広場のシンボルタワー涌峯塔(ゆうほうとう)に向かって
スカウト特有の三本指の敬礼をしているように見えるのですが・・・
この場違いな?シンボルタワー自体、どういう所以があるものなのか?不明です。
ちなみに私の長男がカブスカウトに入っていましたが、ボーイスカウト・ガール
スカウトの三指礼とは違い、二本指のV字で敬礼だったかな。ビーバーになると
同じ二本指でもくっつけての敬礼になります。余談でした・・・(^_^ゞ


突然ですが、あの発明王エジソンの立派な記念碑が・・・



バックの竹林を見てピンときますね。エジソンが発明した発熱電球、
フィラメントに日本の竹を使ったって事を思い出します。

もう少し詳しく説明すると、1879(明治12)年の発明当初は木綿糸を
フィラメントに使ったもので40時間の寿命でした。それに満足できなかった
エジソンは、紙や糸、植物の繊維など数々の材料を試してみます。
その数は植物の種類だけでも6,000種類以上とか、実験ノートは何冊?(^_^ゞ
ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、
その骨を使って電球を試作してみたところ、コレだ!ってことに。
この扇子の骨こそ竹だったわけで、すぐに究極の竹を探すべく研究員を
世界中に派遣。その内の一人が様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、
京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の
「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。
各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、
そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。
それこそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は
何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。
(この文章、HPよりコピペ、流用・改ざん?しました。ごめんなさい)


お腹が減ったので、茶店で休憩。特別?なメニューが揃っていました。




う~ん・・・w

そう言えばお総菜の「八幡巻き」、ごぼうを芯に、うなぎ・あなご・牛肉・
はもの皮などを巻いて、煮たりつけ焼きにしたりした料理。
石清水八幡宮の門前町が発祥の地?八幡ごぼうと言われるごぼうの産地
であることから、この名がついたようです。

料理といえば「松花堂弁当」もここと深い関わりがあります。
ここで出家、阿闍梨にまでなられた松花堂昭乗は、書家、画家、茶人としても
著名で当時の超一流文化人です。その昭乗が愛用した道具箱(絵具箱)を
ヒントに「吉兆」の創始者がこの器で茶懐石の弁当をつくったのが始まりとか。
なお、境内には草庵 松花堂跡が残されており、近くには
「松花堂庭園・美術館」という施設があります。寄りたかったのですが
時間が足りずにパス。

男山でうろうろしすぎたかな・・・(^_^ゞ









やはり周りは竹林が多いです。この鳥居と灯籠も不明、謎です・・・





展望台のところには谷崎潤一郎の文学碑がある。私は文学にも疎くて
谷崎潤一郎の作品は読んだ事が無いと思うが、代表作のほとんどが映画化
されていますね。『刺青』『痴人の愛』『卍』『春琴抄』『細雪』『鍵』・・・
関東大震災を機に京都に移住、ここの碑は「蘆刈抄」の一節を谷崎自筆の
原稿から刻んだものです。






展望台には桜の樹がたくさんあるのですが、行った時はまだ蕾が堅かった。
以前、春に来た時もまだ咲く前だったな・・・



今回はケーブルに乗らず、クルマで山を降りて次のスポットへ。
そこへ行く前にこんなものを発見・・・






五輪塔(航海記念塔)
高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔で国の重要文化財指定。
刻銘がないため、誰がどのような意図で制作したのか謎のままだそうですが、
宋と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、
その御礼のために建立したとの伝承から「航海記念塔」とも呼ばれています。
五輪塔は密教思想に基づき、地・水・火・風・空という「宇宙の五大要素」を
形象化し、下から一段目が地輪(四角)、二段目が水輪(丸)、三段目が
火輪(三角)、四段目が風輪(半月)、五段目が空輪(宝珠)とされ、
「五輪」をあわせて全ての徳を具備するという意味を持つとされています。
(またコピペです。(^_^ゞ)




2014.3/16、石清水八幡宮にて。

百花繚乱、卯月の庭

2014-04-13 10:44:14 | in My お庭
トップの写真は我庭ではありません。(^_^ゞ 小学校の校庭に咲いていた桜♪
日曜日は午後から晴れて・・・でも仕事なんですよねぃ。その合間に
京都府知事選挙の投票に小学校へ行くと、満開の桜が迎えてくれました。





そうそう、ついでにランチも・・・またやってしまった!洋食屋さんの
フライもんオンパレード。
ウチからは一番近くにあるグリル、町の小さな昭和色漂う洋食屋さん。
古くからやられているけれど、あまり利用したことが無いお店です。
20年ぶりくらいかな・・・
注文したのはサービスランチ。品数、ボリュームもたっぷり。
エビカツにトンカツ、ハンバーグ、ポークピカタ、鶏の唐揚げに、何故か
焼き鳥、だし巻きまでついている。グリーンサラダとポテトサラダもね。
お味噌汁、ライスがついて750円。なかなかのコスパでした。
でもいつもの洋食屋さんの方が好きなので、ここはまた20年後?(^_^ゞ


さてと、いつも記事が遅れるのでちょっと気張って、今の庭の様子を。
レンズは AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G で。安もんですけど・・・



イベリス(別名:キャンディータフト・曲がり花)〈アブラナ科〉
去年植えて大事に置いておいたら、いっぱい花を咲かせてくれました♪


ベニジオ・アークトティス〈キク科〉
ガーベラ?ヒマワリ?・・・何かに似ているビミョーな花ですね。

花の名前に疎い人でも、これなら分るでしょ。チューリップ♪





ヒヤシンスが終わって、今はアプローチを彩っています。



チューリップって和名は無いのかな?
語源はペルシャの古語でチューリッパ、頭巾って意味だそうです。
赤い花なら赤頭巾ちゃんって事になるかな。(^_^ゞ


花も可愛いけれど、私はこの葉っぱがなんとなく好きです。



桜空木(さくらうつぎ)〈ユキノシタ科〉
空木は卯ノ花(うのはな)のこと。他に箱根空木、二色空木などがありますね。
これは更紗空木に近い品種かな。


ゼラニユーム(和名:天竺葵・てんじくあおい)〈フウロソウ科〉



花蘇芳(はなずおう)〈マメ科〉
マメ科らしく鞘に入った実がなります。


カタチも色も可愛いくて、花の付き方も面白いですよね。切っても切っても
大きくなる丈夫な木です。







花桃(はなもも)〈バラ科〉
白色八重の花桃です。まだ若木ですが、これでもかってくらい花が咲く。(^_-)


椿(つばき)〈ツバキ科〉
まだ咲いています。庭には10種近くの椿がありますが、傷みやすい花なので
写真はこれだけ。(-。-;)







八重桜(やえざくら)〈バラ科〉
今の庭では唯一の桜。昔は大きなソメイヨシノと牡丹桜の樹がありましたが
改築、更地にするためにやむなく処分してしまいました。


花月(かげつ)別名:金の成る木 〈ベンケイソウ科〉

雪柳(ゆきやなぎ)別名:小米花(こごめばな)〈バラ科〉



紫花菜(むらさきはなな)別名:花大根・諸葛菜 〈アブラナ科〉
自生ですが、今年は出が悪い?あまり咲いていません。


連翹(れんぎょう)〈モクセイ科〉今年は花のつきが悪かった。

射干(しゃが)別名:胡蝶花 〈アヤメ科〉
これも自生、今年は勢力を強めていっぱい咲いています。





木瓜(ぼけ)〈バラ科〉
いつも楽しみにしているのですが、今年は葉っぱばかりで・・・


最後に、水仙(すいせん)〈ヒガンバナ科〉




日本水仙はもう終わり、今はこんな花が咲いています。
個別の名前はよく分りませんが・・・(^_^ゞ



2014.4/12、我庭にて。

万福寺でお茶かい

2014-04-11 22:29:17 | 京都徘徊記
仕事でバタバタ、体調不良でぐだぐだ、昨日から花粉症が酷くてヒイヒイですw
在庫ネタもはけないまま・・・時期遅れのネタばっかり?(^_^ゞ



先週の日曜、黄檗山萬福寺で家内のお友達(煎茶道の先生をされている)が
お茶会を催されるとのことで、ご招待を受けて・・・
恥ずかしながらこの歳まで本格的なお茶会、しかも煎茶道なんて初めて。
遅咲きのお茶会デビューです♪









日本における煎茶道の開祖は、江戸時代初期に禅宗の一つである黄檗宗を
開いた隠元隆。全日本煎茶道連盟の事務局もこの黄檗山萬福寺内に置かれ、
同連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっているとかで
まさに煎茶道の本拠地?ちょっと緊張しつつ不作法承知での参加です。


やっぱ、私のスニーカーは場違い?(^_^ゞ

気軽なお茶席だから、煎茶道はお作法も難しくないから、楽しんで・・・
ってことでしたから来たものの、席が空く間にまずはお抹茶を一服って
それこそ茶道の作法なんて知りませんから!(汗)
ま、これも略式で結構。椅子席なのでってことでよばれてみました。
さて、本番のお茶席は・・・正座ができないことは伝えていたのですが
私だけ腰かけを用意してもらって、しかも男は私のみ・・・浮いてるやん!
それでも面白く、楽しみましたけど。(^_^ゞ

雨が降ったり止んだりの空模様でしたが、折角なので散り始めた桜の花を
少しだけ楽しむことにしました。



黄檗山萬福寺は宇治市にあって、黄檗宗の大本山。
中国、明の高僧であった隠元隆(いんげん りゅうき)和尚が、日本からの
度重なる招請に応じ、63歳の時に3年間の約束で来日。本国から帰国要請が
あったにもかかわらず、日本に留たいと考えた信奉者が幕府に働きかけ
この地に寺院を建立。結局、隠元和尚はここに骨を埋めることに。



お寺を開くにあたり、隠元和尚は故郷福建省で住職をされていた寺名と同じ
「黄檗山 萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)」と名付けました。
建築、仏像などは明時代末期頃の様式でつくられ、日本の多くの寺院とは
異なった空間を形成しています。本国では臨済宗の代表的な僧であった
隠元和尚ですが、日本では黄檗宗を開宗されます。
ちなみに、日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類
されています。

この隠元和尚、さまざまな文化を日本にもたらしたとされています。
インゲン豆は有名ですが、孟宗竹(タケノコ)、スイカ、レンコンなども。
中国風精進料理である「普茶料理」も有名ですね。
私は、まだ食したことは無いのですが・・・















境内は広くて見どころ満載なのですが、この日はゆっくりできなかったので
総門から三門までのエリア(拝観料要りません)だけ
また近いうちに境内、伽藍、仏像などゆっくり観に来たいものです。


三門前の放生池(ほうじょうち)

夏になると一面、蓮に被われるそうです。蓮根を日本に伝えた隠元和尚の
お寺だけあって、境内参道にも蓮の鉢が数多く見られました。


         三門



春雨じゃ、傘もささずに写真撮ってました。風邪ひいてしまった。(-。-;)

放生池周辺に小川を配した庭園が設えてあり、6月にはそこに蛍を放す
蛍放生会が催されるはずなんですが、情報がありません。やめられたのかな?






桜の名所ではないので観光客も少なく、まったりと楽しめる穴場です。
ちなみにここのすぐ近くには、醍醐の花見で有名な醍醐寺があります。



売店に入ってみると、年代物の箪笥や伏見人形が展示されてました(非売品)
こういうところでは撮影を断られることが多いので、お店の方に許可をもらうと
「なんぼでもどうぞ。」って♪並べ替えても構わないから気の済むように
撮って下さいと・・・どうやら相当お暇な様子、ひやかしでもイイから
話し相手が欲しいようでした。(^_^ゞ
ちなみにその方の話では平等院はえげつない人混みだったとか・・・
ここはこの通りのんびりですわ。って(笑)








2014.4/6、黄檗山 萬福寺にて。

三づくし?石清水八幡宮。

2014-04-04 15:01:21 | 京都徘徊記
創建は平安時代前期、860年に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県)から
勧請されたもので、八幡市(やわたし)男山(鳩ヶ峰、標高143m)山上に
鎮座する。都の裏鬼門(南西)を守護する神社として、表鬼門(北東)の
延暦寺とともに重要視されてきました。
国家鎮護の神として歴代天皇が参詣するなど、伊勢神宮に次ぐ「天下第二の
宗廟」として信仰を集め、武家からは守護神として崇敬。源氏はもとより、
平氏、足利、織田、豊臣、徳川と天下人たちの手厚い保護を受けてきました。


一ノ鳥居(写真左)表参道の入口です。額には「八幡宮」の文字。
八の字をよく見ると八幡大神の神使である鳩が一対向かい合った絵文字に。

私はここから入ったことが無い。いつも山上の駐車場までクルマで登ります。
だから二ノ鳥居も見ずに、三ノ鳥居(写真右)を見ることに。
一度まともに表参道から参拝しないとね。表参道は結構急勾配のようですが・・・
もう1つのルートとして、ケーブルが京阪電車八幡市駅の近くから男山山上駅
まで通っています。これは経験済み。(^_^ゞ


石灯籠の参道の先に南総門が見えます。


表参道の坂(写真左)
三ノ鳥居をくぐったところに「一ツ石」というのが参道の真ん中に。
走馬・競馬のスタート位置だったことから「勝負石」とも呼ばれています。

駐車場のところには桜が1本だけ咲き始めていました。3/16日時点・・・

「手水舎」 歩いて来られたのでしょうね、山歩きの格好ですやん。


「南総門」 手前には樹齢700年以上のカヤの巨木が。


「本殿」 珍しい八幡造りという社殿建築様式です。

現在の社殿は1634年徳川三代将軍家光の造営によるもの。
檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は前後二棟からなり、その軒に接する所に
織田信長寄進の「黄金の樋」が架けられている。
本殿から弊殿、舞殿、楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊がある。
本殿をはじめ建物全てを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が
刻まれており壮麗な社殿である。
左甚五郎の作と伝わる「目貫きの猿」もあるのですが、普段は見られない?
平成の大修造も一段落、本殿はピカピカ鮮やかになっていました。



さて、タイトルにした「三づくし」を、いってみよぉ~!('∇^d)

「伊勢神宮」「賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)または春日大社」とともに
日本三社のひとつです。

「宇佐神宮(大分)」「筥崎宮(福岡)または鶴岡八幡宮(鎌倉)」とともに
日本三大八幡宮のひとつ。

「門戸厄神東光寺(兵庫)」「天野明神(和歌山)」とともに
日本三大厄除の一社でもあります。

御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・比大神(ひめおおかみ)・
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、この三神を総称して
「八幡三所大神(八幡大神)」と言います。

9月15日に行われる「石清水祭」は、上賀茂神社・下鴨神社の「葵祭」、
春日大社の「春日祭」とともにとともに日本三大勅祭のひとつに数えられます。
勅祭とは、天皇の使者(勅使)が執り行う祭祀のことです。

そして、この男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流する地でもあります。

別に石清水八幡宮さんが「三」に拘っている訳じゃないでしょうが、
これだけ「三」が出てくるとやりたくなるよね「三づくし」。(^_^ゞ


本殿は築地塀に囲まれ、ぐるっと裏まで回れます。


「信長塀」 本殿の周囲に巡らせている塀は、織田信長寄進によるもの。


「西総門」と「北総門」。「東総門」は、撮るのを忘れたw
門や塀もそうですが、ここの建造物はほとんどのものが国指定重要文化財。


「水若宮社」(写真上)、「住吉社」と校倉(下)
他にも末社が並んでいました。10以上あったと思います。
校倉には所蔵量全国一を誇る石清水八幡宮の古文書類が収まっているのかな?


お宮参りの何かかな・・・

八幡御神矢(破魔矢)は厄除け?お正月には巨大破魔矢が南総門に飾られる。

末社・竈神殿(そうじんでん)、台所守護神。

かつて石清水八幡宮では源義家が元服し、平清盛が舞を舞い、織田信長・
豊臣秀吉が所領を寄進し、徳川家康・家光が社殿の修復をしたという・・・
そして、この八幡の地は古戦場としても名高い。
南北朝時代の八幡の戦い(後村上天皇・南朝 vs 足利義詮・北朝)
山崎の戦い(明智光秀 vs 羽柴秀吉)の決戦場、天王山は三川合流の地。
川を挟んで男山があります。
幕末、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍がここの境内に陣をしき、新政府軍を
迎え撃ちました。男山中腹で両軍が激突、戦いは熾烈を極めたといいます。
この戦渦により頓宮など多くの寺や摂社を焼失しています。

トップ写真をおみくじにしましたが、ここのおみくじはちょっと珍しい
「平」というのがあります。(他の神社でも出るところがあるようですが)
吉でも凶でも無いってこと?「未分(いまだわかれず)」というのも
あるようだし。勝手に平和、平穏の「平」ってことにしましょ♪(^_^ゞ
源平の時代から室町、戦国、そして幕末と、戦乱を見てきたからこそ
何事もない「平」な時が一番幸せだと言えるのかも知れませんしね。

ちなみにここの高札「謡曲弓八幡と石清水八幡宮」には
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
八幡大菩薩は源氏の氏神、弓矢の守護神であるから弓と矢と幡の三つの兵具に
訳して弓矢幡と名づけたとある。
この祝言は弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめる
のである。作者世阿弥は平和論者である・・・
と言うようなことが書かれていました。




2014.3/16、石清水八幡宮にて。

遅れてしまった花便りw

2014-04-01 16:08:33 | 花だより
タイトな仕事が入り、先週一週間更新が滞ってしまったら・・・在庫のネタは
まだ梅が咲き始めだったりします。(/・。\)
花、特に春は次から次へと変遷するので1週間前でも致命的。それが3週前の
情報ですから・・・でもまぁ、記録は残して置きたいので、アップしておきます。

3月9日、長岡天満宮を訪ねた時のものです。



天神さんと言えば梅ですね。神紋も梅鉢ですしね♪
北野天満宮ほどではないですが、ここにも梅林があります。





天神さん(菅原道真)を祀っているのですから、縁の牛もちゃんと居ります。
ここは「見返り天神」ともいわれ、道真公が太宰府へ西下される途中、
「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた地だとか。

創建は不明?なのですが、かつての社地は10万余坪だったのを明治維新後
上地し、それでも現在2万余坪あるそうです。  
現在の社殿(ご本殿、祝詞舎、透塀)は、昭和16年に京都の平安神宮の
社殿を拝領移築したものですからそんなに古くは無いですね。

末社として稲荷神社もありますが、そこを登って行くと・・・





その先に、長岡公園梅林があります。
HPの開花情報を見ると3/9日「早咲きは見頃、遅咲きは蕾」とありました。
ちなみにその後の開花情報は「3/17 梅見頃です」「3/27 梅ほぼ終わりです」







菅原道真公の邸宅は紅梅殿・白梅殿と呼ばれ、梅をこよなく愛されたようです。
“美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある”
道真公、5歳の時に詠まれた歌だとか・・・


椿もちらっと♪


境内の東には八条ケ池がひろがります。この八条ケ池は1638(寛永15)年に
当時の領主・八条宮が造らせた灌漑用の溜め池で、外周は約1㎞あります。

「水上橋」は改修工事中で入れませんでした。


たけのこ会席が有名な「錦水亭」の水上座敷もこの池の風景に。



池を二分する中堤は参道になっており、中堤真ん中には石の太鼓橋があります。
4月の末頃、この中堤は樹齢130年前後といわれるキリシマツツジに包まれ
真っ赤な花の壁が見事です。「3年前のGW」




長岡京はあまり知られてないかな、桓武天皇が784年に平城京より遷都された
正式な首都であり、そのスケールは平城京よりわずかだけれど大きかったほど。
近くには桂川、宇治川、淀川などがあり水上交通が利用できる利便さと
豊かな水源(現在サントリーがある山崎など)に恵まれた地でもあり、
首都機能としては万全。当時、力をつけてきた東大寺など仏教勢力と
大伴氏などの貴族勢力から距離を置く必要性から遷都を決断した桓武天皇。
藤原種継を責任者として、わずかな期間に難波宮から宮殿を移設するなど
都を造営するのだが、その最中、種継は暗殺されてしまう。
これを首謀、加担した多くの反対勢力が処罰されるが、その中には
桓武天皇の弟、早良親王も流罪を言い渡される。親王は配流先に向かう途中、
恨みを抱いたまま死去。怨霊と化す?
なんだかんだ、最初っからどたばたの長岡京。結果わずか10年後の794年には、
平安京に遷都するハメになります。ただ発掘が進むにつれ、かなり完成度が
高かったことなどで、期間が短かった故に従来言われていた形だけの遷都、
大規模な遷都への準備だったというのは間違いかも。

また、余談が長くなってしまった・・・

命短し、長岡京。花の命もまた儚し・・・ってことで。




2014.3/9、長岡天満宮にて。