カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

うろうろかいわい、姉小路。その参ッ!!!

2016-01-31 19:25:35 | 京都徘徊記
しつこく姉小路(あねやこうじ)通りを、富小路(とみのこうじ)、
麩屋町(ふやちょう)、御幸町(ごこまち)辺りをうろうろ。
これにて今回の散策はラスト。
それにしても通り名の読みって、法則が無いですね。(^_^ゞ


〈便利堂〉姉小路通富小路下ル

京行燈に長暖簾、水引暖簾(軒暖簾)・・・いかにもって感じ。
1887(明治20)年創業の老舗、コロタイプ印刷による絵はがきなどを
扱ってらっしゃる。もちろん販売も。

〈naeclose〉便利堂の南隣り、アクセサリーのお店。

〈とん漫〉姉小路通富小路下ル
格子戸の奥、路地をずずっと進めば突き当たりに・・・
純和風情緒が漂う創業昭和23年のとんかつ屋さんがあります。



〈泉屋市古商店(いずみやいちこ)〉姉小路通富小路東入ル

昭和12年創業で、現在はお酒と味噌・醤油を販売している店です。
看板右にある盛田合資会社とは、ソニーの盛田昭夫氏の生家である
造り酒屋(現在盛田株式会社)のことで、山泉は盛田株式会社の
登録商標です。こちらの初代が、盛田合資会社京都支店長を退職され
独立された時の開店祝いに贈られたものだとか。


〈平野とうふ〉姉小路麩屋町北西角

俵屋、炭屋、柊家など品格ある老舗旅館が軒を連ねる麩屋町通り。
明治期創業の平野とうふは、これらの旅館に豆腐を卸し続けている
老舗のおとうふ屋さん。初代の豆腐は北大路魯山人も食し、2代目は
白洲次郎にも好まれたというもので、現在3代目がその味を頑なに
守り続けていらっしゃる。
京都と言えば、おとうふ。その京都人がすすめるおとふ屋さんの
ひとつどす。平野とうふ、正式名は看板通りの「丸平商店」だとか。





〈柊家(ひいらぎや)〉麩屋町通姉小路上ル西側(御池麩屋町南西角)

1818年(文政元年)に運送業・海産物商として創業した「柊家」、
時は幕末、二代目が1864年(文久元年)に宿を本業とし、
「柊家旅館」を開業し今に続く老舗旅館です。
川端康成がこよなく愛したという部屋があるなど、利用された
著名人は数限りないのでしょうが、私なんかには敷居が高い?
文化人としての知識や経験を身につけてないと・・・(^_^ゞ
誰でも泊まれる宿ですが、“資格”が要るように感じてしまう。


こちらは「俵屋」さん

創業300余年のこの「俵屋旅館」は京都で最も古い旅館の一つです。
大の京都好きとして知られるApple創設者故スティーブ・ショブズ氏が
お気に入りで定宿にしていたことが自伝に書かれているようです。
他にも初代総理大臣である伊藤博文をはじめ、映画監督スピルバーグ、
俳優リチャード・ギア、トム・クルーズなどの有名人も虜にした
老舗旅館、ちょっと桁違いな感じが・・・
究極のおもてなしが味わえそう、泊まってみたいものです。


〈俵屋(たわらや)〉麩屋町通姉小路上ル東側



〈彩雲堂(さいうんどう)〉姉小路通麩屋町東入ル

富岡鉄斎(明治・大正の南画家)が命名、揮毫し主人に贈ったという
濡額が威風堂々と据えられている。
江戸末期より続く絵の具と筆の老舗です。京都で絵の具と筆?
ちょっと意外かも知れませんが、その理由は京都には優れた日本画家
たちがいたこと。特に明治時代以降に活躍した画家たちは
「京都派」や「京都画壇」と呼ばれ近代日本画の発展に大きな影響を
与えました。こうした優れた画家たちが道具を作る職人たちを育て、
そして職人が作り出した道具が画家たちを支えてきたのです。



彩雲堂の東隣りは「総本家 河道屋」なんですが、その前にちょっと
創業は元禄年間、300年続く生そばの老舗。
ここもまた故スティーブ・ジョブズ氏が頻繁に来ていたお店。


〈晦庵 河道屋(みそかあん かわみちや)〉麩屋町通姉小路下ル

これまた意外かも知れませんが、京都には老舗の蕎麦屋が存在します。
本家尾張屋などは1465(寛正6)年創業と言いますから、室町時代。
550年以上も続いています。
7世紀から鎌倉時代にかけて遣唐使や留学僧らがもたらした素麺に
至るまでの技法を寺院が採り入れて、宮中や公家とともにこれを
普及させたという都ならではの歴史があり、京都はわが国における
麺文化発祥の地でもあるのです。

蕎麦で言えば京都の場合、菓子職に始まり、寺院から蕎麦切りの
依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。
上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの
技量によって菓子屋の評価が左右されたようです。


〈総本家 河道屋〉姉小路通麩屋町東入ル

京土産の「そばぼうろ」の元祖はここだと言われていますが、
京都には主に3軒のお店が有名で、ちょっとまぎらわしい。
総本家 河道屋は「蕎麦ほうる」
本家 尾張屋はというと「蕎麦ぼうる」
丸太町かわみち屋は「蕎麦ぼうろ」と言います。
それぞれ特徴はあるのでしょうが、はっきり言って類似品?(^_^ゞ

室町時代、外国の宣教師が布教のために配った「ボーロ」が
始まりと言われ、明治の末に「総本家 河道屋」が和製クッキーとも
いえる「ぼうろ」にそば粉を加え、梅鉢紋型に焼いたものを
売り出したのが、現在の蕎麦ぼうろとして普及しました。


煉瓦の煙突が・・・今でもここで焼いているのかな?
看板には蕎麦ほうるのデザインがあしらわれている。
そう言えば、梅型と丸いのも・・・あれって中を抜いたものかな。



〈新古美術 山定〉姉小路通御幸町西入ル


〈なが田〉姉小路御幸町北西角  〈IONビル〉姉小路御幸町北東角

「山定」と2戸1で並んでいるのが「なが田」さん、隣りの古美術商
とはガラリと違い、お持ち帰り専門の総菜・サンドイッチ屋さんです。
御幸町通を隔てて向かいは、レコード店「PROTOTYPE」や
アジア料理店「BUNNY b」が入っているビル。


さて今回の姉小路界隈はこれでお終い。
御幸町通を南下して三条通を西にコインパーキングまで戻りました。
途中、京都文化博物館なんかに寄ったりしながらね・・・(^_^ゞ

烏丸通まで来たところで

〈みずほ銀行 京都中央支店(旧第一銀行京都支店)〉烏丸三条南西角

京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)と同じく、辰野金吾の
設計によるものです。1906(明治39)年に建てられたものは、1999年に
取り壊し、2003年にファサード保存もされず、古い建築資材を再利用
することもなく、同じ場所に新たにレプリカ再建したものです。





〈文椿(ふみつばき)ビルヂング〉三条両替町北東角

1920(大正9)年に建てられた木造の洋館を、商業施設として2004年に
リノベーションされた建物です。大正浪漫の香りが・・・?
ファッションやアート、焼肉店なども入っています。
私らが以前行ったカフェはもう無いようですが・・・(^_^ゞ
そうそう、柴犬柄生活雑貨『和んこ堂』と言うのがあるようですよ♪



文椿ビルヂングとは両替町を挟んで向かいに・・・
280年近く続く帯問屋、誉田屋源兵衛の建物があります。
「三条誉四屋」の看板が目につきますが、1階は韓国カフェ。
韓国伝統茶や、韓定食、韓国風の薬膳料理を頂くことができ、
また、韓国の渋柿染めのファブリックや、韓国の家具や小物も
置かれているようです。
オーナーは誉田屋源兵衛十代目山口源兵衛さんと
沈娟卿(シム・ヨンギョン)さんご夫妻。


〈素夢子 古茶屋(そむしこちゃや)〉三条両替町北西角



2016.1/10、姉小路かいわいにて。

姉小路でランチ

2016-01-27 23:59:37 | ランチ/カフェ
この界隈も町家カフェが何軒かあります。
ちょっとユニーク?なお店が目に止まったので、入ってみました。



『フクミミ Fukumimi』
 姉小路通衣棚(ころものたな)西入ル
京町家 HAWAIIAN CAFE なんや、めちゃくちゃやな。(^_^ゞ
表に顔抜きパネル、どこの国旗かなと思ったら、ハワイの州旗。
だいたいハワイ州旗って、イギリス領でもないのにユニオンジャック
付いてるし・・・それにしても上下逆さまちゃうの?



よっぽどハワイが好きなんやね、以前に行ったことのある
町家カフェ『cafe bibliotic Hello!』とカブってる気もするけど。






私は表に書いてあった「土日祝日限定ランチ」ローストビーフ丼
わさびクリーム風味・生ハムのミニサラダ,スープ付
・・・なんか、ややこしそうなのを注文。






家内は「アサイーボウル」を。アサイーが食べたかったらしい。



ここ、パンケーキのお店でもあるので、テーブルの蜂蜜入れ、
スティックのミツバチが可愛い♪


ななめ向かいには、これまた京町家をリノベーションしたお店


〈Dai's DELI&SANDWICHES〉
おしゃれなサンドイッチや惣菜、焼き菓子も置いてます。


〈ANNEE〉姉小路通衣棚東入ル
パンが店先に並ぶベーカリーショップ&カフェです。「パン アネ」
OUVERT(OPEN)の札が出てましたが、入り難いですよね・・・



左〈コルノ・ロッソ〉姉小路通両替町西入ル イタリアンのお店 
右〈レジェード〉姉小路通烏丸西入ル 洋食屋さん。


烏丸通を越えて、東に向かって歩いているとこんなところが。


〈京都万華鏡ミュージアム姉小路館〉姉小路通東洞院東入ル
洛風中学校の一角に併設されている感じ。

以前から一度入ってみたかったんです。TVでも紹介してたし♪



万華鏡を専門に収集・展示しているミュージアムです。
『京都万華鏡ミュージアム』
入ってみたものの、カレイドスコープってそんなに興味ないなと、
有料の展示室には入らず、喫茶室でコーヒーと・・・(^_^ゞ





〈松之助〉姉小路通高倉上ル
人気店のようで、行列ができていました。
平野顕子さんがプロデュースするアップルパイとスイーツのお店です。
ピィさんが以前、買いに行かれてましたね♪



〈いづづ家〉堺町通姉小路下ル
京町家をリノベーションした、焼肉・鉄板焼きのお店。
創業65年の肉屋さんがやっている。

それより横の路地(ろおじ)が気になるな・・・


〈火裏蓮花(かりれんげ)〉
まさに路地裏、隠れ家みたいな・・・チラッと見ただけだけど
雰囲気も良さそう。ランチはここにすれば良かったな。



〈Comme Chez Michel(コム シェ ミッシェル〉姉小路通柳馬場北東角
本場のビストロフレンチのお店だとか、ランチコースは2,100~5,800円。



〈ドッグカフェ NEST〉富小路通姉小路上ル
ワンちゃんも京町家でまったり?愛犬家におすすめかな・・・
あっ!HPのお知らせを読んだら、1月11日をもちましてカフェ業務を
終了させていただく運びとなりました・・・だって。
ペットホテル、一時預かりのリニューアルオープンを2月中旬に
予定しているとのこと。



20161/10、フクミミにて。

うろうろかいわい、姉小路。その弐ッ!

2016-01-25 16:15:23 | 京都徘徊記
姉小路(あねやこうじ)界隈の続きどす。(^_^ゞ
今回は烏丸通から1本東、姉小路通車屋町から富小路くらいまで
老舗の看板、店構えなど見ながらぶらぶらと・・・


〈亀末廣(かめすえひろ)〉姉小路車屋町 北東角
1804(文化元)年創業の和菓子の老舗。支店や百貨店、ネットでの
販売はせず、本店のみで「一対一の商い」にこだわっている
京都でもひときわ存在感のある老舗です。

京行燈(きょうあんどん)、お店に合わせて亀甲柄になってますね。


日曜祝日は定休日なので、暖簾(のれん)は出ていませんでしたが、
ガラスに彫られた意匠、扇に亀の絵、亀丸に「すゑひろ」の文字。
暖簾が出ていたら長暖簾に「寿恵飛呂」の変体仮名文字と亀形の丸、
水引暖簾(軒に提げる短いのれん)に扇に亀の絵が書かれています。



看板は檜の一枚板に山本意山の書によるもの。額には干菓子の型板が
はめられていますね。

京都では和菓子屋といっても「おまんやさん」と「もちやさん」に
明確に分けられます。おまんやさんは普通餅や赤飯を扱いません。
それは、茶道や朝廷の儀式に用いられた菓子を作ることの許された
江戸時代の上菓子屋仲間に由来し、菓子匠、御菓子司と称されます。

京都の子が「おまん、こぉてぇ」(=饅頭買って)と言っても
NGワードではありません、ドキッとしないように。(^_^ゞ

ところで、和菓子店には亀屋○○とか鶴屋○○が多いのですが、
その訳は、江戸時代以前の上菓子屋仲間の中に、五亀二鶴といった
本家筋にあたる五軒の亀屋さんと二軒の鶴屋さんがあり、そこから
暖簾分けされたところが亀屋鶴屋を名乗ったからなんです。

ちなみに京都にある亀屋、創業100年以上の老舗だけでも
亀屋陸奥(1421年創業)をはじめ、亀屋伊織 亀屋清永 亀屋伊織
亀屋清永 亀屋重久 亀屋良長 亀末廣 亀屋良永 てな具合。

この亀末廣が暖簾分けした店も亀廣永、亀廣宗、亀廣保、亀廣脇、
亀屋廣房、亀屋末富(現:末富)と亀だらけ・・・
名古屋亀末廣も暖簾分けされたお店、ここからも暖簾分けしている
のでまだまだ増殖中?
話は逸れますが、「とらや」って東京では老舗中の老舗、
創業・室町時代で490年の伝統を誇っていますが、もともと京都の
お舗。皇室御用達だったので明治になり、天皇について行くため
東京に移ったもの。こういうケースは他業種でも多々みられます。



〈春芳堂(しゅんぽうどう)〉姉小路通車屋町東入ル

亀末廣の東隣り、創業は幕末1856(安政3)年の表具店です。
ケヤキの一枚板に竹内栖鳳(たけうち せいほう)が53歳の時の
書であり、春芳堂は栖鳳お抱えの店だったそうです。


〈善田好日庵〉姉小路通東洞院(ひがしのとういん)西入ル
春芳堂の並びです。新古茶道具・美術品を扱う善田昌運堂の庵。



〈八百三(やをさん)〉姉小路通東洞院西入ル

看板の「柚味噌」は商品名。嵯峨水尾産の上質な柚子を使った
柚味噌を専門に製造・販売されている「八百三」さん。
1708(宝永5)年創業で、看板文字は北大路魯山人の書です。
看板の文字は模刻で、店内に魯山人が自ら彫刻した木板があります。



「うっとこは、これだけどす」と、さらりと。これしか売ってない。
百年以上一子相伝、秘伝の製法を踏襲されている柚味噌はまさに逸品、
もちろん元祖だとか。恐れ入ります。




間之町(あいのまち)を通り過ぎ、高倉通を上がって御池通に
出てみました。


〈御所八幡宮〉御池通高倉 南東角

足利尊氏ゆかりの神社らしい、尊氏と言えば京都室町で
室町幕府を開いた初代征夷大将軍ですね。


高倉通を挟んで西隣りは〈ホテル ギンモンド〉



〈細野福蔵商店〉高倉通御池下ル

これまた立派な店舗、法衣・仏具を扱うお店です。
格子窓に駒寄せ、暖簾が出ていなかったのは残念ですが、平日なら
「衣」と一文字大きく書かれている暖簾は印象的です。


アンティークショップのようですね。
〈リビングギャラリー 姉小路高倉〉姉小路通高倉 北東角

〈堺町画廊〉姉小路通堺町上ル
貸し画廊のようです。シンプルな京町家風情が現代的にも思えます。





〈和久傳(わくでん)〉姉小路通堺町上ル

1階では「おもたせ」を販売、2階はお茶と甘味をいただける
「茶菓席」。建物奥には、料亭「室町和久傳」になっています。




〈光泉洞 寿み(こうせんどう すみ)〉姉小路通堺町東入ル
「京町家お昼処」となっています。詳しくは『HP』へ。
畳小窓には季節の花を・・・食事処とは気がつきませんでした。

〈京の宿 石原〉姉小路通柳馬場(やなぎのばんば)上ル
故 黒澤明監督が定宿にされていたとか。そのせいか、日本の映画人、
俳優がよく利用されるようです。



〈谷口邸〉姉小路通柳馬場東入ル
「姉小路界隈を考える会」の事務局長をされている谷口氏のお宅です。


〈三嶌邸〉柳馬場通姉小路下ル

京風すき焼き、お肉の「三嶋亭」の社長さんのお宅だそうで。
散策に行った1月10日は、京都ではまだ松の内(1月15日まで)
こんなお飾りをされるのですね。


〈あとりえ ぴっころ〉姉小路通富小路(とみのこうじ)上ル


〈井山邸〉姉小路通富小路 北東角

この門と蔵は蛤御門の変の大火事にも焼け残った由緒あるもの
だそうです。もっと驚くべきことは、1620年頃からのこのお宅から
江戸時代の「町式目」が見つかったのだとか。
町式目とは江戸時代に町の人びとが取り決めた住むための自主ルールの
ことで、これを原典として「姉小路界隈を考える会」が新しく
「姉小路界隈町式目 平成版」を作られたのだとか。


あちこちでこの立札を見ました。

国交省が「街なみ環境整備事業」というのを行なっており、姉小路も
2003年からその事業に参画しているようです。期限が10年間という
ことなので、もう補助とかは終了してしまったのかな?

姉小路界隈を考える会・谷口さんのお話を読むと・・・
全体の工事費の3分の2が助成、3分の1が自己負担となるそうです。
しかしながら助成対象は外側から見える部分だけとなっているので、
例えば道路に面している屋根ならば助成は出るけれど、裏側の屋根は
ダメということです。でも実際の工事で、片側の屋根だけ直すという
ことはしませんよね。また屋根の下地とか戸の裏側なども助成の対象
にはなっていないということから、実際には工事費の半分か、
それ以上の自己負担となるとのこと。大変ですね・・・



〈吉川〉富小路通御池下ル

「姉小路から富小路通を上がって御池に出る手前、西側やし」
京都の方ならこれで地図無しで行けます。
他所の方はちんぷんかんぷんかな・・・(^_^ゞ



吉川は1950年創業の料理旅館、小堀遠州作庭といわれるお庭を持つ
大豪商の邸宅であった数寄屋造りのこの館で、天ぷらを中心にした
懐石料理でおもてなし。
敷居が高くてとうてい近寄れない感じですが、お昼は予約無しで
3,000円と4,000円のコースがいただけます。11:00~13:45(L.O.)
但し、30名に達したら営業終了です。

ちなみに2002年、ポール・マッカートニーが来日した折り、京都で
宿泊した宿でもあります。たいそうお気に入りだったようで、宿泊
日程を伸ばしたとか。後にポールの勧めで故ジョージ・ハリスンの
未亡人もここに泊まられたとか。他にもキャメロン・ディアス、
レオナルド・ディカプリオ、ハリーポッターのダニエル・ラドクリフ
なども・・・あちゃらの芸能人には好評のようですね♪



〈なかむら〉吉川のお向かい、東側です。

「一子相伝 なかむら」、京料理のお舗です。ミシュラン3ツ星。



創業190年、現在六代目。戦後は近くにある老舗旅館「柊屋」、
「俵屋」などに仕出しをしていたとか。
グジ、鯖、鱧、白味噌の雑煮など京料理の真髄が味わえるかもね。

この界隈、御池通を下がってすぐのところには富小路を挟んで
吉川、なかむら。麩屋町通(ふやちょうどおり)を挟んで
柊屋、俵屋が向かい合っています。そこんとこはまた後日・・・



2016.1/10、姉小路通 車屋町~富小路にて。

うろうろかいわい、姉小路。その壱

2016-01-22 23:04:58 | 京都徘徊記
京都散策、観光スポットは他国観光客さんにまかせて、点じゃなく
線で京都をなぞってみようかなと・・・新企画?(^_^ゞ

三条通はちょこちょこやってきたので、今回は一筋北の通り
姉小路通(あねやこうじどおり)東は木屋町通から西は
佐井通(春日通)まであるのですが、
今回は堀川通から寺町くらいまでの界隈を散策しました。

京都の通りを散策するための基礎知識、『通り名おぼえ唄』
上のリンク先で音声が出なければ、こちら『京美人三人娘が唄う』
ま、MP3なんで美人かどうかはわかりませんが。(^_^ゞ
京都の街は碁盤の目なので、東西の通り名と南北の通り名を覚えれば
交差点名から東入ル・西入ル・上ル(北進)・下ル(南進)の
表現でほぼ位置が確定できます。



〈京料理 二傳〉



1757年創業の京料理店、二傳(にでん)さん、夏は鱧料理やね♪
姉小路通油小路(あぶらのこうじ)西入ルにあるこの店舗は、
大正2年(1913年)に、5代目が開店して、現在8代目。



〈ゲストハウス ひつじ庵〉
姉小路通小川東入ル、築80年以上の京町家を改装、2013年に
オープンしたゲストハウス。1泊3,000円以下のプランもあります。
最近こう言う宿泊施設が激増してますね。




お馴染み仁丹の商標付地名標識、上京区とありますが、昔の話で
今は中京区になっています。
牛乳箱も懐かしいかな、株式会社 仙人堂って・・・(^_^ゞ



〈西本酒店〉
立派ですな、うだつも上がってるし。明治35年(1902年)創業の
酒屋さん。暖簾も看板も上がってなかったけれど、今はネット販売?

町家というか商家の造りですね。卯建、一文字瓦、格子、
虫籠窓(むしこまど)、ばったり床几(しょうぎ)も置かれていた
ようですね。軒にはちゃんと鍾馗さんも置かれています。



鍾馗は中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では邪気除け、
疱瘡(ほうそう)除けのお守りとして、絵や人形を飾ります。
関東では五月人形、掛け軸の地域もあるのかな、近畿や中部地方
では屋根に瓦の鍾馗像を置く風習があります。
特に京都の町家には多く、シンボル的な存在。それにはこんな謂れが
「昔、京都の三条に薬屋が新しく店を構えて大きくて立派な鬼瓦を
葺きました。するとお向かいの奥さんが原因不明の病に倒れて
しまいます。
病を治そうと原因を探ると、薬屋の立派な鬼瓦により跳ね返った悪い
ものが向いの家に入ってしまうからだということがわかりました。
そこで鬼より強い鍾馗(しょうき)さんを伏見の瓦屋に作らせ、
魔除け・厄除けに据えたところ病が完治したというのです。
それ以降、京都では鬼瓦の対面に鍾馗さんを据えるようになった
ようです。『京瓦.com』より引用
ただ、ご近所同士にらみ合いにならないように正面を向いていない
鍾馗さんも多く、他にも微笑み返しとしての「お多福」を対面に据える
場合もあるようです。京都人らしさが出てますね♪



〈丸久小山園 西洞院店〉
西洞院通(にしのとういんどおり)姉小路上ル。南行き一方通行の
路なので、西洞院通御池下ルの方が正しいかな。



丸久小山園(まるきゅうこやまえん)は、元禄年間に宇治で創業した
宇治茶の老舗です。この建物は築100年以上の町家を改装したもので、
坪庭を見ながらまったりと楽しめる茶房もあるようです。



〈におい袋 ゆりの〉
小山園の向かいにあります。



〈Kyomachiya Ryokan Ma(旅館 間)〉
ここも築100年の町家を改造した京町家旅館、姉小路通西洞院東南角。
簾(すだれ)も京町家の風情ですね。



〈丸昭〉呉服商かな、姉小路通釜座(かまんざ)北西角。



道に向かって平入りに建つ京町家は、建物の大小があるとはいえ、
連続した庇の上は盗賊にとって格好の足場になっていた。
そんな盗賊除けに生まれたのが「忍び返し」。扇状に開いたものから、
格子状に並ぶものまで形状は様々。ちなみに手がかり、足がかりを
取らせないように緩く取り付けられているのだとか。
散策で注目したいもののひとつです。



〈高松神明社〉姉小路通釜座東入ル
白くペイントされた鳥居が目を引きました。智将真田信繁(幸村)の
念持仏であったことから「幸村の知恵の地蔵尊」と呼ばれている
紀州九度山の真田庵から移ってきた神明地蔵尊があります。



〈新町1888〉姉小路通新町下ル
市の「歴史的意匠建造物」に指定されている、赤い壁と窓に大きく
あしらわれたステンドグラスが印象的な建物。
玄関脇にはかつて昭和期に全国に普及した「郵便差出箱一号丸型」が
据えられ、レトロな雰囲気を醸し出しています



京都ホテルオークラが町家ラウンジとして2014年7月にオープンさせ
昨年11月から、ホテル館外店舗「新町1888」を完全予約制の貸し切り
スタイルとして営業しています。



京都の街路の景観に欠かせないものに、このアーチ状の設え、
「犬矢来(いぬやらい)」がありますね。
昔は土の路でしたから泥水や土埃から壁を守る必要があったわけで、
そこで考え出されたのが、竹で作った防護柵。
京都周辺では質の良い竹材が豊富でしたし、湾曲させることで
盗賊の足がかりにもならないなど、多くの難題を解決しました。
金属製のものもありますがこの風情、京都の街に似合ってますね。



〈RAAK〉姉小路通室町南東角。



京都で約400年。十四代続く老舗織物商「永楽屋 細辻伊兵衛商店」の
新ブランド「RAAK」本店です。
何軒か下がったところに永楽屋の本社ビルがあり、そこの1Fにも
伊兵衛 Iheeというショップがあります。


室町を過ぎれば両替町、その先は烏丸通(からすまどおり)。
♪からすま りょうがえ むろ ころも しん かま にし おがわ
あぶら さめがい ほりかわのみ~ず♪
通り名おぼえ唄と逆に堀川から烏丸までやって来ました。

烏丸通を渡ると・・・

〈新風館〉烏丸通姉小路南東角。



原形となる鉄筋コンクリート造の洋館は1926年に竣工し、1931年に
増築された京都中央電話局。建設当初は電話交換施設として使用され、
のちに電電公社の京都電電ビル西館となった。
京都市登録有形文化財第1号に登録されていますが、今は約30店舗が
入っている複合商業施設。
それも今年3月で閉館、ホテルなどの複合施設に建替えられる計画。
外観はどこまで残されるものやら・・・


姉小路通から見た新風館。



〈平楽寺書店〉姉小路通東洞院(ひがしのとういん)下ル。
仏教書出版社の老舗、建物は1927年(昭和2)年竣工のもの。

さて、次回はどこまで行けるかな・・・


2016.1/10、姉小路通 堀川~烏丸にて。

おそおしたなぁ、京都の初雪。

2016-01-20 15:15:08 | 今日のボソッ
昨日、ヒラヒラ初雪が見られ、今朝は積雪どした。4センチほど。

昨冬は12月18日にうっすら積雪、元日には61年ぶりの20センチ超えを
記録しました。
今冬は記録的な暖冬、なかなか降らないなと思っていたら・・・
昨日やっと初雪を観測、1951年観測開始以来、最も遅い記録を更新。
京都市の初雪の平年日は12月15日。これまで最も遅かったのは、
80年と99年の1月7日なので、12日も更新です。


〈9:06 a.m.〉

昨日は初雪と言っても微々たるもの、降った時間も一瞬でした。
それが今朝は4センチほど積もって・・・


〈11:01 a.m.〉

去年はお正月3が日、よく雪が降って観測史上3位タイの22センチ。
1位は1954年1月26日に41センチの記録が残っているとか。
私の1歳の誕生日です・・・憶えてませんが。(^_^ゞ


〈11:01 a.m.〉八朔のシャーベット?











〈上3枚、9:06 a.m.〉



〈10:32 a.m.〉まだ降り続いていました。

そう言えば一昨年も初積雪は1月19日だったかな。

京都市内の冬は底冷えして寒いのですが、雪が積もることは
あまり無い。特に御所より南は降ることも少ないように思います。
金閣寺は北にあるので、今日も雪の金閣が見られたみたいですね♪

正午を過ぎ、お日様も照り出しすっかり雪は消えましたが
こんな年に限って3月半ばに雪が積もったりするのよねぃ・・・


2016.1/20.9:06 a.m. ガレージにて。

蟬丸神社、三社完結。

2016-01-18 12:01:52 | しゃじ
さて、最後は12月にも訪ねた「関蟬丸神社 下社」です。
旧称:関清水大明神蝉丸宮。主祭神は豊玉姫命、創祀は弘仁13(822)年。

三社の中ではここが一番大きいかも。それでも一般からすると
小さい方です。しかも荒れ方、傷み方が酷いです・・・

国道161号線沿いで、参道には京阪電車の踏切があります。

「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の標石が並んでいます。

石灯籠には「関清水大明神」「蝉丸宮」と彫られている。



狛犬さんは、踏切り番?

境内の中を電車が走り抜けてる感じ・・・

これが「関清水神社」



〈神楽殿〉

社記によると
琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住む
ようになり、没後に上・下両社へ合祀された。
その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、歌舞音曲の神として
信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の
信仰が厚くなった。江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、
免許を受ける人々が全国的規模で増加した。
とあります。

ここで前回の続き、蝉丸さんの謎。
琵琶法師たちが職業集団としてまとまっていく過程で、始祖と仰いだのは
蝉丸ではなく、仁明天皇の第四皇子である“人康(さねやす)親王”で
あった。と小松和彦氏(日本の文化人類学者・民俗学者)は『能のなかの
異界・逢坂山』で述べられています。

人康親王は28歳の時に病で盲目となり山科に隠遁し、盲人たちを集めて
音曲を楽しみとした・・・何かダブりますよね。
親王亡きあと、その霊を祀りその社を四宮と呼んだ・・・事実、山科の
地名として残っています。
「平家物語」では山科の四宮河原に醍醐天皇の第四皇子蝉丸が居たと
語られる。ところが山科四宮の地名の由来は仁明天皇の第四皇子である
人康親王なので、どうもこの二人が混同されているように思えます。
それにしても54代仁明天皇と60代醍醐天皇の同じ第四皇子、似たような
境遇の人物が居たものですね・・・ここらが疑問。
「今昔物語」での蝉丸の方が信憑性がある気がします。

ま、蝉丸人物像の考察、推測はここらにしておいて、蝉丸が諸国の
芸能民たちに歌舞音曲の神として信仰されたのは事実のようですから。







三社とも管理状態は良いとは言えませんね、特に下社は傷みが激しい。


〈本殿内の狛犬〉
三社を通して狛犬が目につきました、一体何対あっただろうか・・・
この下社の本殿内にあった狛犬は彩色がなされた立派なもの。

向かって左は口を閉じた吽像で角がある狛犬。右には口を開けた
阿像、角無しの獅子になっています。
これは典型的な日本独自の「狛犬」。阿吽形式の狛犬・獅子像です。

神社では必ずと言ってもいいほどよく見る狛犬、二つとして同じものは
無いはずなので、探索ネタにすると面白いだろうな。時代や地域に
よってかなりディープだと思われますが・・・










ほとんど人の姿を見ることは無かったですが、お詣りされる方も
居られるようですね。(^_^ゞ






三社の中で唯一の重要文化財じゃないかな?「時雨灯籠」。
鎌倉時代の特色をもった貴重な石灯籠のようです。


〈お地蔵さん〉


句碑がいくつもあったので・・・


これやこのゆくもかへるも別れつゝ しるもしらぬも逢坂の関 蝉丸
逢坂の関のしみづに影見へて いまやひくらし望月の駒 貫之


逢坂の 流れはし 初桜 椿
木の間もる 月あをし 杉十五丈 子規


蝉丸の 学びの宮ぞ 春の風
近松も 小町もめでし 山桜 淳


裏山に小町塚があるというので、行ってみました。


〈小町塚〉
六歌仙のひとり、絶世の美女 小野小町の塚としては・・・w
小町塚と右から横書きにされた下には
花濃以呂は宇つりにけりないたづらに わず身世にふるながめせしまに
と彫られているようですが、ほとんど読めず。(^_^ゞ

小町の墓は全国各地にあり、wikiでも8、9ヵ所あげられていますが
ここは記されていません。
晩年にこの辺りに住んでいたという伝承があり、この近くにある
月心寺内には、小野小町百歳像が置かれているそうです。


〈小町塚から見た境内〉


こんな小さな荒れた神社ですが、掘り起こせばいわく因縁?話題が
出てくるものですね。
まだまだ尽くせませんが、これにて完結とします。(^_^ゞ


2016.1/6、関蝉丸神社 下社にて。

謎の琵琶法師、蝉丸。

2016-01-16 00:04:40 | しゃじ
蝉丸神社・分社から、国道1号線沿いにたらたら下って来ると
上社(旧称:関大明神蝉丸宮)の参道、石段のところに着きます。
分社、上社、下社とも旧東海道に面していたようですが、今はこの
上社のみ国道1号線(東海道)に面しています。

上社の主祭神は猿田彦命、下社は豊玉姫命。合わせて関大明神として
関の守護、旅の安全を守る道祖神の役目だったのでしょう。
平安末期になり、上下両社それぞれに相殿神として蝉丸霊を合祀。



さて、蝉丸さんですが・・・調べ出すとどうも実体がつかめず。(^_^ゞ
ミステリー小説を読むようで(こんなん大好き♪)



百人一首のこの句は後撰和歌集のもので、この他にも

秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世の中(新古今和歌集)
世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ(同)
逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて(続古今和歌集)

の3種を含め、4首の和歌を残しているから、蝉丸という名の歌人は
10世紀の半ばまでには実在した人物だといえるでようです。

プロフィールはと言えば、これが生没年不明。詳しいことはさっぱり
分かっていません。







この神社も無人、人の気配がしませんでしたが
まだ松の内だったので、鳥居には注連縄など正月飾りをされていた。
それにしても鉄パイプの鳥居?
以前はもっと太い木の鳥居だったようですが・・・


〈神楽殿・舞殿〉






どうやら地域の方が守ってられるのかな。




蝉丸のプロフィールのように扱われているのが、
能の演目、謡曲「蝉丸」。筋書きをかいつまべば・・・
延喜の帝の第四皇子として生まれた蝉丸、幼少の頃から盲目であった。
天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう命ずる。 捨てられた蝉丸は、
琵琶を抱き、杖を持ち、逢坂山の関に住む。
蝉丸の姉、第三皇女逆髪(さかがみ)は、髪が逆立つ奇病。
弟蝉丸を訪ね、やがて琵琶の音に導かれて再会を果たすことになる。
ふたりは障害をもった身を慰め合うが、悲しい別れの結末となる。
世阿弥の作ともいわれているが、ここに描かれている
醍醐天皇(延喜帝)の第四皇子・盲目・琵琶の演者というのが
キーワードになりそうです。

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「蝉丸」では、蝉丸は女人の怨念で
盲目となるが、最後に開眼する・・・と、なっているようです。



〈本殿〉




関蝉丸神社の由緒書きには・・・
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。
和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が
見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人で
あった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、
当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を
乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく
秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
・・・と書かれています。

平家物語には「四宮河原になりぬれば、こゝは昔延喜第四の皇子蝉丸の
関の嵐に心を澄まし、琵琶をひき給ひしに・・・」
謡曲と同じく醍醐天皇の第四皇子、琵琶。四宮が新たなキーワードかな。

一方で、今昔物語では
「会坂ノ関に一人の盲 庵を造て住けり。名をば蝉丸とぞ云ける。
此れは敦実と申ける式部卿の宮の雑色にてなん有ける・・・」
この後、蟬丸は琵琶を弾くとも記されている。
逢坂の関、盲目、琵琶のキーワードは共通するのだが、
式部卿敦実(宇多天皇の御子)に仕える雑色(ぞうしき)だったと
されている。
※雑色とは当時の職位のひとつ蔵人(天皇の秘書的役割)の見習い。
昇殿も許されない身分、皇子とは随分違いがありますね・・・

尾崎雅嘉(江戸末期の国学者)の論では「蝉丸の姓氏詳らかならず。
古説に仁明天皇の時の道人なり。常に髪を剃らず世の人翁と号し、
或は仙人といひ、また延喜帝の第四の皇子などといへるは、いづれも
拠り所なき説共にて時代も違へり。また蝉丸の像を盲人の様に描く事、
笑ふに堪へたり。」と述べています。「百人一首一夕話」

ここまで言われると、盲人ですらなくなる。(^_^ゞ

蝉丸のことは、また次回にもう少し。ってことにして・・・
関蝉丸神社 上社をあとにします。


〈本殿より神楽殿を見る〉
この上社、山の斜面にあるので、本殿と神楽殿、鳥居なども
平面にありません。それぞれ石段で繋がれた踊り場の様です。

下は国道1号線、昔の東海道。右に行けば逢坂の関、越えれば京都へ。
登坂車線が設けられていますね。



ここにも常夜灯が立っていました。下の石台は車石が再利用されて
います。これもレプリカかな?
大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、以前安土で見ましたが。


また余談ですが、百人一首には逢坂山を歌った和歌もありました。
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」
作者は三条右大臣(藤原定方)

子供にも教えられる意味は、その名(逢うという意味)を持っている
逢坂山に生えているサネカズラよ。サネカズラの蔓を手繰るように、
人に知られずに、来る方法はないものかなぁ・・・と、なりますかね。

も少しディープにこの句を楽しみましょう♪
「名にし負はば」=その名に背かなければ。
「逢坂山」は、逢う(密会の場所)の掛詞。
「さねかづら」は、マツブサ科サネカズラ属の常緑つる性樹木。
雌雄異株で、別名:美男葛(ビナンカズラ)。漢字表記は実葛・真葛、
核葛とも・・・。掛詞として「小寝」=一緒に寝る(大人の男女がね)
「人に知られで」は、人に知られずに。「よし」は、方法、手だて。
「もがな」はは願望の終助詞になります。さて、「来る」は?
「繰る」の掛詞なんです。素直に葛のイメージで、たぐり寄せるって
意味でも良いですが、ちち繰る=男女がひそかに会って情を通じる。
密通する。って意味も出てくる?
掛詞を駆使して色っぽい部分をオブラートに包み、品良く表現して
いますが、ムラムラした情熱も感じられますね。(^_^ゞ


これは真葛の実に似ていましたが、違うようですね。

2016.1/6、関蝉丸神社(上社)にて。

しるもしらぬも あふさかの関

2016-01-14 11:41:41 | 洛外うろうろ
「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」
この和歌は後撰和歌集に収録された蝉丸作のもの、百人一首かるたで
馴染み深いですね。※後撰和歌集では「分かれつつ」となっている。

ひと月前、関蝉丸神社下社にちょこっと立ち寄り(12/5)中途半端
だったので、も少し知りたくなって再訪です(1/6)。
今回は分社、上社、下社と三社の蝉丸神社を巡ってみました。


まずは和歌にも出てくる「逢坂の関(おうさかのせき)」



逢坂の関は、近江と山城との境にもうけられた関。二つの坂が
出逢うことからこの名になったようです。別名:相坂関、合坂関。



常夜灯、これはレプリカですね。原碑は確か安土城考古博物館に保存。



国道1号線、逢坂山の峠に関址として小さな公園が作られています。
ちょっと関所を連想させるようにね。(^_^ゞ
ただ、実際に関所があったのはこの場所じゃ無かったようです。



ここには以前、滋賀県警の逢坂山検問所があり、トラック丸ごと
重量を計れる装置を置いて、過積載の違反車両などの検問を
していました。まさに関所って感じでしたけど・・・



今は・・・公衆トイレ。(^_^ゞ


さて、蝉丸神社ですが徒歩圏内で3カ所に分かれています。
京阪電車 京津線「大谷駅」から直ぐのところ、この逢坂の関址より
手前の、山の中に分社があります。



「村社」とあるのは、明治期に府県社、郷社、村社、無格社などと
分けられた社格の名残り。現在その分類は廃止されています。



関蝉丸神社、もともとは上下社をもって一社とする。とありますから、
この社は後に建てられたものでしょうね。

石段を上がる前にこちらもチラッと見ておきましょう。
〈車石〉

〈水準点・古くからのもののようですね〉

車石とは、江戸時代に東海道の大津札ノ辻から京都の三条大橋までの
約12キロの間、坂道で物資を輸送する牛車が通りやすいように
道路に敷いた切石。牛車専用道として人道と分けられていたようです。
物資輸送の大動脈であった街道、逢坂山峠と東山・日ノ岡峠が難所、
雨でぬかるむと大変なことに。
そこで京都の脇坂義堂(心学者)が私財を投じて車の轍をつけた
切り石を敷き詰めたそうです。今もあちこちで保存されているのを
見ることができます・・・ブログのテーマになりそう♪




登って直ぐ、右手直角に曲がると・・・



ここにも神楽殿があり、その奥に本殿が見えます。
神楽殿があるのは三社共通でした。蝉丸さんが歌舞音曲の神として
中世の芸能に携わる人々に崇敬されていたからですかね。



門には鍵がかかっており、入れませんでした。



社と言うより祠みたいな・・・






狛犬さんは、なかなか立派でイイ感じです。


神社には駐車場がありませんが、ここでは・・・



鰻料理のかねよさんがお店の駐車場を使わせてくれるようです。
※30分以内とのただし書きもありますが。



『かねよ』は以前、京男さんとご一緒したことがあります。
うろうろできるくらいの庭園がある、面白いお店ですよ。

余談ですが、百人一首にはもう一首この逢坂の関を歌った和歌があります。
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
(清少納言・後拾遺集)こちらは坊主めくりではお姫さんですね♪
「夜中に、鶏の鳴き真似をしても、逢坂の関は許しはしません」って
ことかな。清少納言と藤原行成のやりとりの一首と言われています。
「鶏の泣き真似」とは、函谷関の故事※を引用したもので、逢坂の関は
そんなに簡単に騙されて開くことは無い。と言ったものでしょうね。
要は、私はお固いのよ、そんなに簡単に開かない落とせないわよ
って・・・違うかな?(^_^ゞ
※函谷関(かんこくかん)の故事とは、中国の史記にある
孟嘗君(もうしょうくん)の話。一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の
関所が部下の鶏の鳴き真似によって開き、無事に逃げたというもの。



2016.1/6、蝉丸神社(分社)にて。

ランチ忘我録

2016-01-12 22:08:17 | ランチ/カフェ
忘我録的なものなので、オススメってわけではありません。
サラッと流して下さい。(^_^ゞ

ブログも長くやっていると、いつの間にか「ランチ/カフェ」の
カテゴリー記事が今回で225回目。基本的にリピートしたお店の
記事はアップしないようにしていますし、カテゴリー以外でも
挿入したりしているので、結構な数になったもんだと・・・(^_^ゞ
職住一体なので外食する機会はあまり無いのにね。



今回は年明け早々(1/4日)に半日ドック健康診断に行った際、
渡してもらった昼食券で、山科駅前の
『ホテルブライトンシティ京都山科』のランチメニューです。



ランチバイキングがそこそこ良いとの評判は聞いていました。
オプションで追加料金を払えばバイキングにもできたのですが・・・
前日から絶飲食で、胃カメラ呑んだ後でしたから。(^_^ゞ
普通のセットメニューに。
私はハンバーグセット、家内はレディープレートだったかな?



ま、料理はそれなりに。ただホテルのレストランにしては狭苦しくて
団体さんが居たせいでしょうか騒がしく落ち着きませんでした。
食事の無料券って嬉しくもあり、そうでもないような・・・



あ、向かいに中華の「」が。餃子でも買って帰ろうかな。(^_^ゞ


これは暮れにショッピングセンターに行った時の
『がんこ』のランチメニュー。



ステーキ定食:880円。赤出し付をお蕎麦に替えて+200円也。



家内は、ひな天丼定食・お蕎麦付:780円。

意外とコスパが良かった、ビンボー舌なのかステーキのお肉が
とても美味しく感じられたので、忘我録入りです。(^_^ゞ



2015.1/4、ホテルブライトンシティ京都山科にて。

土木遺産隧道三昧、その3

2016-01-10 18:53:59 | レトロ建築
中途半端で小刻みな記事が続きましたが、いよいよ土木遺産ランクAの
『逢坂山隧道東口』(鉄道記念物)です。

京都から国道1号線、逢坂山を越えて大津へ降りて行くと
左R161(敦賀・高島)、右R1(四日市・草津)の標識が見え、
その分岐点、R161側にあります。






旧逢坂山トンネルは、明治13(1880)年完成。大正10(1921)年、新逢坂山
トンネルができ、現在の路線になるまで使われていたものです。
現存する最古の鉄道トンネルで、日本人技術者だけで初めて造った
トンネルでもあります。全長664.8mのレンガ積トンネル、当時はノミや
ツルハシでの手掘りで約1年8ヶ月で竣工したと書かれていますね。




ポータル(坑口)は重厚な石積み、内部はレンガ積みです。
のちに複線化され、この右側に上り線用のトンネルが開通し、
こちらは下り線として使われました。
ここから入り、抜ければ京都だったのですね・・・

鉄道記念物としても貴重ですが、現在世界一とも言われている日本の
トンネル掘削技術、その最初の一歩はここからってことなんだね。



ん! 霜?塩を噴いてる?何だろうなこの結晶は・・・



使われていたのは40年間ほどですが、蒸気機関車の吐く煙、煤の跡かな
黒く残っていますね。特に京都~大津間には逢坂山峠越えの急勾配、
山科~大谷間5キロに及ぶ25パーミル(蒸気機関車の登坂能力のほぼ
限界とされている)を走るため、勾配区間用として輸入された
Cタンク1800型という車両が使われていたそうです。




つくづく明治のマンパワーは凄いですね、ちょんまげの時代から
わずか数十年で近代国家に。
このトンネルが開通した時の歓びが目に浮かぶようです。
きっと輝かしい未来が見えたのでしょうね・・・♪



「楽成頼功」と書かれた扁額があります。時の太政大臣・三条実美の
揮毫によるもので、人々の功に頼って落成したって意味でしょうが、
「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であるとして「楽成」の字を
あてたと言われています。楽に成し遂げた訳ではありません。(^_^ゞ




右はのちに複線化に伴い掘られた、上り線の隧道出口です。
扉が付けられ中には入れませんが、そもそもこの旧逢坂山隧道、
東口はこうして残りましたが、西口は名神高速道路の工事のため
埋められてしまっています。

わずかに内部の煉瓦が見えます。

石積みのポータル、過度な装飾が無い分、質実剛健とした重厚感が。
翼壁も城郭の石垣を連想させますね。

輝かしい将来の礎となったはずのこの隧道ですが・・・
太平洋戦争末期には、三菱の軍需工場がトンネル内に引っ越し、
京都の女学校の生徒たちが勤労動員されていたといいます。
格好の防空壕兼軍需工場に利用され、戦後は家を失った人々が
住み着いていた時期もあるそうです。

現在は「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」
として、トンネル入り口から約350メートル進んだ中央部に、岩盤の
ひずみを測る伸縮計や地下水位計が置かれているのだそうです。


夏草やつわものどもが夢のあと・・・冬ですが (^_^ゞ
苔生したこの遺構が見て来た歴史は、いかばかりのものだったのか


2016.1/6、旧逢坂山隧道東口にて。

土木遺産隧道三昧、その2

2016-01-09 22:20:17 | レトロ建築
近代土木遺産と言っても、ここは現役バリバリ『蝉丸跨線橋』。
大正10(1921)年に竣工したもので、土木遺産ランクB。

何か古城か要塞のような煉瓦建造物で、見応えがあります。



この年、同時に東山トンネル・新逢坂山トンネルが竣工して
東海道線は新路線(現在のルート)となります。

これは、上を京阪電車京津線が走る跨線橋(こせんきょう)として
造られたもので、下を今もJR東海道線が走っています。
京阪電車が少し斜めに交差するからでしょうか、入り口がずらされて
いますね。この100メートルほど先に新逢坂山トンネルがありますが
その入り口はずれずに並んでいます。デザインもほぼ同じなんですが
コチラの方がカッコいい♪(^_^ゞ

ちなみにこの跨線橋の工事が遅れたため、京津線はこの区間約100mを
徒歩区間として京都側、大津側を別運行することで開業したようです。



1970年に京都-草津間の複々線化が完成、今の姿になりました。
向こうに見えるのが新しく出来たトンネルです。



それにしても重厚で素晴らしい煉瓦建造物。
汚れ放題なのが残念ですが・・・
ケルヒャーで洗ったら綺麗になるかな?(^_^ゞ



ここまで来て、新逢坂山トンネルの東口を見なかったのは片手落ち?
短時間しかいなかったから、上を走る京阪電車もトンネルを抜ける
JR電車も撮れなかったし。

またしてもリベンジですかね・・・
旧逢坂山隧道の東口は見て来たのですが。(^_^ゞ



2015.12/5、蝉丸跨線橋にて。

土木遺産隧道三昧、その1

2016-01-08 23:02:35 | レトロ建築
京都と滋賀県の境、逢坂山周辺の明治期・近代土木遺産の隧道を
探索してみました。(3部レポになります)

まずは異次元への入り口を連想させそうな「ねじりまんぽ」。

「ねじりまんぽ」とは、斜拱渠(しゃきょうきょ)の俗称。
鉄道と川や道路が斜めに交差する場合、トンネルのアーチ部分の煉瓦が
斜めに積まれるため、ねじれたような不思議な空間になります。
コンクリート構造物が発達する大正時代以降の構造物には見られず
主に明治期に造られたものです。

伊達や酔狂で斜めに積んだ訳ではありません。(^_^ゞ
上を走る鉄道に対して斜めに掘られたトンネル、強度を確保するため
線路・レールに対して直角になるよう煉瓦を積み上げると、
トンネル内では渦巻き状に積んだようになります。

詳しくは『駅員3』さんのブログの記事をご覧ください。
その法則なども分かりやすく解説されています。




場所は京都方面からだと国道1号線で逢坂山を越え、国道161号線との
分岐点を161号線に入って直ぐのところ(京阪の踏切を渡って右)です。
この上は国道1号線になっています。
この部分を通過するとまた1号線に合流します。



知らなかったらまず見逃してしまいそうです。

ねじりまんぽと言えば、南禅寺・蹴上げの琵琶湖疎水インクライン下の
通路が有名ですね(国史跡・土木遺産ランクA)
あそこの場合、上にインクラインのレールが敷かれているのですが、
ここの上は国道1号線。鉄道ではなく、何故?って疑問が生じます。

実はここの国道1号線、以前は東海道線だったのです。
明治13年(1880年)京都駅~稲荷~山科(勧修寺)~大津間が開通。
大正10年(1923年)東山トンネルができ、現在のルートになるまで
東海道線の路線でした。廃線になった部分の多くは道路に転用された
ようです。ここの道路の形状も明らかに築堤の名残りがあります。



明治13年にはすでに出来ていたと思われる斜拱渠、もう使われてない
のかと思ったら、今でも水路として健在でした。
入って行けないのが残念ですが(入るマニアも居るようですが)
地図で確認しましたが、向こう側から入るのも無理なようです。



現在は音羽台1号橋となっていますが、鉄道開業当時は東川橋梁と
呼ばれていたようです。
インクライン下のねじりまんぽと比べてもかなり急な角度のように
思えるのですが・・・某サイトで中に入り調査されたデータによると

起拱角が約30°という日本有数のレンガ傾斜角。
国道1号線の真ん中あたりでコンクリート製暗渠と結合されるだが
暗渠全体で50mほどあり、ねじりまんぼ自体の24mも国内で
トップクラスの長さになるのかもしれない。とのことです。

写真が上手く撮れなかったのが残念。
やはり長靴持参でリベンジかな・・・(^_^ゞ


2015.12/5、大津・ねじりまんぽにて。

逢坂山の蝉丸さん。

2016-01-07 12:23:06 | 洛外うろうろ
去年の積み残し記事です。(^_^ゞ『関蝉丸神社』

12/5日、他の目的で逢阪山を越えて浜大津方面に向かいました。
逢阪山は昔から山城の国、京の都と近江の国・東国を結ぶ
交通の要所。現在でも国道1号線、名神高速道路、JR東海道線、
京阪電鉄などがこの峠を越えています。
東海道と東山道(後の中山道)がここを通るため、関所が設けられ
不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)と並び逢阪の関は三国之関と
呼ばれるほど重要な関所だったようです。



季節感が・・・(^_^ゞ



京都からだと国道1号線から161号線に入って直ぐのところにあります。
京都から浜大津に行く時に、よく前は通っていたのですが
寄ってみるのは初めてでした。



京阪電車・京津線(けいしんせん)の線路、踏切の直ぐ向こうに
鳥居が建っています。踏切を渡れば参道です。


〈関の清水〉
井戸の様なものがありましたが、枯れていました。



狭くて寂れた感じの境内ですが、ちゃんと神楽殿があります。
これほど小さい神社にしては珍しいかもです。



それもそのはず、蝉丸さんは歌舞音曲・芸能の祖神として
崇められいた実在の人物。
謡曲「蝉丸」、世阿弥作の能の演目として有名ですね、
近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも「蝉丸」があるそうです。
私的には何と言っても百人一首のかるたで馴染みがある。
坊主めくりでね。
僧坊を被っているのでほっとしたら、坊主扱いなんで・・・(^_^ゞ

ここでは関の守護神、関明神と合祀され「関蝉丸神社」となったとか。


〈貴船神社〉
ありゃ?森進一、大原麗子さんが奉納された提灯がまだ・・・
そう言えば夫婦でしたよね。


〈本殿〉
かなり荒廃していますが、歴史は感じられる?

たまたま立ち寄っただけで、何も知らなかったのですが
後で調べると、ここは「下社」で、近くに「上社」と「村社」が
あったみたい。
気になったので昨日、三社とも回ってみました。



関蝉丸神社、いずれまたレポすることになるので、今回は
この下社と電車を・・・(^_^ゞ







鳥居と踏切、そこを走る電車の光景が面白くて・・・



凍結防止策でしょうか、線路に水が撒かれています。
ご指摘があり調べてみたら、
車輪とレールが接触する音(キシリ音)を低減する為でした。






2015.12/5、関蝉丸神社(下社)にて。

初参り、いつものように。

2016-01-03 19:05:50 | しゃじ
山科毘沙門堂とその塔頭・山科聖天。
もう40年以上、正月と言えばここにお参りに行ってます。



今年は昨日、2日に。昨年は雪景色でしたが、今年は良いお天気で♪



午後になったので、いつもの甘酒のふるまいは終わっていました。











最近では家内と二人だけになりましたが、子供たちや孫連れで
お参りした想い出も・・・




毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつ。その塔頭寺院として
護法山 双林院(通称:山科聖天)があります。

ご本尊は歓喜天(聖天)。
頭が象で、首から下は人間の姿。二体が向かい合って抱擁されている
ことから「男女合体神」「陰陽和合」を表わす。
ここのご本尊も秘仏です。そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から
奉納された聖天像を七十数体合祀しているとか。



凝った紋ですね、八つ輪宝・三宅輪宝の一種かな。



正面には不動堂があり、堂内で大護摩が焚ける特別な構造をした
建築物で、比叡山の千日回峰行者であった第二十四代住職が
明治十六年に比叡山無動寺より勧請された不動明王を安置する。



「違い大根」の紋は、大和生駒山宝山寺(生駒聖天)でも見られますね。
今年は「紋」の勉強でもしてみようかな。(^_^ゞ



(左・毘沙門堂)16菊紋の真ん中に何かついている。
天台宗の紋なら菊紋に三諦星がつくのだが・・・。門跡寺院だから
菊紋を許されているのでしょうが、何がついているのか気になる。
ちなみに皇室が菊紋を使うようになったきっかけは、天台宗の開祖・
最澄が桓武天皇に菊の花を献上したためとも言われている。
(右・双林院)「宝袋紋」は「違い大根」と共に聖天さんに
よく使われている紋。四つ割菱は信玄の「武田菱」かな。

これって現地で説明してもらわないと分からないね。(^_^ゞ



2016.1/2、毘沙門堂にて。


明けましておめでとうございます

2016-01-01 11:03:45 | その他
2016年 平成28年 新しい年が 幕を開けました。

今年一年、皆様にとって佳い年になりますよう

何よりも健康で元気に過ごされることを祈念いたします。


旧年中はお付き合い賜わり ありがとうございました。

当ブログも今年で11年目に突入します♪
思ってもみませんでしたが、これだけ続けられたのも
皆さまのお蔭、感謝!です。


ここ京都市、昨年は雪が積もる元日でしたが、
今年は穏やかな晴天で迎えるお正月となりました。


2016.1/1、京都東山・将軍塚より(11:55a.m.)


金言・名言をひとつ

この世を動かす力は希望である。

やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、

農夫は畑に種をまかない。

〈M.ルター〉


もうひとつ・・・

いくつになってもわからないものが 人生というものである。

わからない人生を、わかったようなつもりで歩むほど

危険なことはない。

〈松下幸之助〉




今年もまた

小さな歓びを重ね、大きな幸せを感じられるよう

前向きに、正しいと信じる行いを続け

感謝の心を高めていこうと考えています。


本年も どうぞよろしく お願い申し上げます。