旧来の友達で
俳句にこっている者がいる。
手帳とペンを持って旅に出たり
なんでもない日常の中に
キラッと光るものをさがしたり、
それはそれで深いものがあるという。
頻繁に新聞の俳句欄に
投稿し、採用されては
それを喜んで報告してくれたりする。
始めた頃は
本当に毎週というほど
新聞に掲載されていた。
そんな喜びを糧に
どんどん創作を重ねていったが
ある時、ピタッと採用されなくなった。
あせって頑張って
いい句を作ろうとすればするほど
駄作しかできなくなって
ようやく、これならと思って
投稿するものの
全然掲載されなくなったという。
何故だろう?
と、その友達は考えたという。
こんなに、きちんと
奥行きのある
良い句なのに採用されないのには
理由があるのだろうと。
考えても考えてもわからなかった。
昔の手帳を開いて
その時のことを思い出したりしながら
その理由を探したという。
そうして、ある時
はたと気がついた。
昔はおもむくままに
言葉を綴っていたのに
いつのまにか
言葉を選びすぎてたという。
そのとき感じたことを
おもむくままに言葉にしていた
昔に比べて
今は、自分の感情をみつめすぎて
それを言葉にしようとばかり
かんがえていたという。
そうではなくて感情があれば
言葉は自然に出てくるものである。
感情の表現ばかりに
気をとられているうちは
本当の感情ではない。
そしてそれは本当の
言葉としては表れないのだという。
素直に、どんなことにでも
自分の気持ちのありのままに
抱く感情が本物だったら
言葉は自然に生まれてくるんだという。
人前に文章を曝すのなら
言葉を飾りすぎてはいけない。
まずはおもむくままに
感じることだとその友はいう。
言葉をみてもらうのではなく
それを書いた自分を見てもらうというのが
根底にないといけないのだとも。
その友人の作品は
そう思い始めた頃から
またたびたび
新聞に掲載されるようになった。
言葉と感性が
切っても切れない関係になって初めて
すぐれた句が生まれるのだと
最近はそう自分にいいきかせているらしい。
ブログもそうでありたい。