ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

「雨水」に濃い歩行

2014年02月19日 21時28分58秒 | ウォーキング

以前、熊野街道沿いにある篠田王子の
北1キロくらいのところを歩いている時に、
東の山の方を望むと
こんもりとした古墳が見えた。

それは和泉黄金塚(こがねづか)古墳。

2008年に国に史跡に指定された古墳で、
出土した画文帯四神四獣鏡は
重要文化財に指定されている。

オリンピックに金はつきもの
と言うわけではないが、
なんとなく頭のどこかで最近のソチオリンピックと
関連付けられたようす、
豪華な名前を持つこの古墳のことを
最近よく思い出す。

そこで、まだ少し寒いけど、
今年の歩行の予行演習のつもりで、
家からテクテクと歩いて訪れてみることにした。

親父をデイに送り出してから出発。

家を出てまずは、この三月に開通が予定されている
道路に沿って北上した。

かつて、オジチャリで高石の自転車専用道を紹介したことがあるが、
そこにつながる道なので、
ここでも自転車道が整備されるようだ。
写真の青く塗られているのが自転車道になるのだろう。



今年のだんじりパレードのコースが
大きく変わるやろうな。
とりあえず開通したら
ぜひオジチャリで往復走破をしてみよう。
ユルランでもいいかな。

途中、助松団地を抜けて



泉北有料道路の高架下に出たところで右折。
阪和線を階段のある跨道橋でヨイショとまたぐと、





間もなく熊野街道と交差する。



交差点にはおなじみのあの道標があります。



しかしこの木製の道標も
作られて7年が経ち、
かなりくたびれてきている。
ここらでひとつ新調してもらえないかなあ。

信太山丘陵の北の端に沿って東に登って行くと、



左に曲がる小さな道がある。
あぜ道に毛が生えた程度の道だ。

その道もやがて田園地帯に続く
いよいよ細い道に入っていくと
この先行き止まりの看板とともに、
前方に樹のない土の塊が見えてくる。



それが「黄金塚古墳」だ。

古墳時代前期末に築造された前方後円墳で、
全長約94m、後円部直径約60mの
比較的立派な規模の古墳なのだ。

畑のあぜ道をよちよち歩いて近づいていくと、
どうやら周りにフェンスがしてあるようだ。



キワまで行って下から見上げると、
山頂と中腹あたりに石碑が建っていた。



発掘調査のため立ち入り禁止となっていたので、
写真はネットから拝借した。

中腹の石碑がこれ。


真ん中で見事に割れているのは
下からも確認できた。

そして頂上に置かれてある石碑がこれ。



後ろの景色とあわせて
なかなか立派なものである。
この頂上からは、
遠くに百舌鳥古墳群までも見渡せるというから
さぞかし絶景であろう。

ここから鏡が出土した時は、
卑弥呼が魏の国から銅鏡100枚を贈られた
といわれる「景初3年」の文字が
その鏡に刻まれていたので、
邪馬台国と関連があると騒がれたが、
古墳の築造時期から考えれば、
いくつも人の手を経て
ここにたどり着いた一枚であることが予想されるので、
今はその論争は下火になっているそうだ。

それにしてもこの古墳の周りを
ぐるっと半周してみたが、
案内板とかは一枚も見つけることができなかった。

なぜ半周かと言うと、
半分は宗教団体の敷地になっていて
近寄りがたい雰囲気だったのだ。

まわりには堀がめぐらせてあったように見えたが、



これも発掘調査の結果、
一般畑地との緩衝地帯のようなもので、
水を張ったりしていなかったことがわかったとのこと。

いずれにしても、
まだまだ整備の余地はありそうな古墳ではありました。

帰りはまた違った道を通ります。
古墳のわきにはこんな素敵な
ススキのトンネル道がありました。



その後、あちこちウロウロとして
葛葉稲荷にも寄りました。



そしてそこにはこんな新しい石碑が建てられてありました。



また、広い境内のあちこちに御社があり、
そのうちのひとつに、
なんと石切剱箭神社があるのを発見!



つい先日、東大阪の本殿に
二度目のお百度参りに行ったばかりだったので感激しました。

まだまだ寒い、「雨水」の一日、
こんなルートで10.4キロを歩き、



春の歩行の予行演習をばっちりこなしてきたdoironなのでした。