ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

山の辺の秋 2

2014年09月10日 21時20分16秒 | ウォーキング

築100年以上の木造建築の幼稚園から
さらに近鉄の線路沿いに東に向かうと、
さすがに山の辺の道のみならず、
伊勢街道や忍坂街道などが集まる地域だけのことはあって、
虫籠窓やうだつの上がる古い家並みが豪勢に
そしてさりげなく続いている。

このあたりはうだつのオンパレードだ。



おお~、今どきこんな大きな煙突の目立つ銭湯も珍しい。



その名も力湯。
え~と、男湯の暖簾をくぐると
脱衣箱の鍵が木製で、
風呂に入ると正面に富士山の絵があって、
浴槽はタイル貼りで、
底にケロリンと書いた黄色の洗面器が置いてあるような銭湯ですね。
今回とは逆コースで
天理から歩いてきた人には
おススメの銭湯かもしれません。

お、橋が見えてきました。

「粟原川(おおはらがわ)」にかかる「跡見橋(あとみばし)」。





この橋のたもとには、庚申さんがある。



庚申さんはいろんな信仰が複雑に絡み合っているので、
なぜここに庚申さんを設けたのかは、
うかがい知ることはできないが、
単にこの川で災難があったからなのかもしれない。
小さな川だけど、深く流れは鋭い。



この橋の手前を右折し、
人ひとりがようやく通れそうな細い道に入っていくと、
「茶臼山古墳」があると資料に書かれてある。

行ってみましょう。おお~確かに細い。



子供の頃に鬼ごっこで駆け抜けた
路地裏の道のような細さだ。
チャリンコさえ危うい。

道の脇にはヌスビトハギ




オトギリソウ、



横の畑にはニラの花が咲いているのが、



秋の訪れを告げている。

秋発見!

ちなみに「ニラ」は古事記や万葉集にも登場する植物で、
この地域にこそふさわしい植物ともいえる。

そんな道の先に見えてきた
こんもりした山がその古墳。



そこから夏の終わりを告げる
ツクツクボウシの大合唱が聞こえてきた。

由緒書によると、



古墳時代前期の前方後円墳だそうだが、
被葬者については書かれていなかったところを見ると、
きっと判明していないのだろう。

近鉄大阪線の線路の向こうには、



大神神社の御神体となる三輪山を背景に、
古式ゆかしき小学校が見えてきました。



城島小学校です。24時間テレビは盛り上がったかな?

正門前を右折ししばらく歩くと、
線路際に近畿自然歩道の道標が建っているのでここを左折。



その交差点には立派な地蔵と道標も立っていた。



道標は解読できなかったなあ。





いよいよ三輪山が迫ってきているところから、
もう少しで山の辺の道に入っていくことがわかる。



「欽明天皇磯城嶋金剣宮址」があった
と伝承されている桜井市下水道局を過ぎると、



S水君が喜びそうなこんなお店を横に見て







大きな川に突き当たる。
この川が「大和川」。
かつてdoironがM市まで仕事に行ってる時に
電車なら一日4回は渡っていた川だけに
とっても親近感がわく川だ。

左折してその川沿いにしばらくいくと
「馬井手橋」に出たところで
山の辺の道と合流となる。

川沿いの道には萩の花や



桔梗が咲いていて、



またまた秋発見!

ん?川の向こう岸に数頭の馬が・・・。



これにもいわれがあって、
遣隋使などが海を越え難波津から
大和川をさかのぼってこの地に来た時に、
権勢を誇示するようにかざり馬を並べたのを再現しています。



そうかあ、こんなところまで大和川の水運が届いていたんやねえ。

この馬井手橋から山の辺の道だ。



ここまで約4キロの道のりだった。

橋を渡ると、そこに「仏教伝来の地」
と刻まれた大きな石が建っている。



そう、これが桜井駅前にあった、
「仏教公伝の地」のいわれの元なんやね。



欽明天皇13年というから
西暦で言う540年位に
この地に仏教伝来のために訪れた
百済の使者が上陸し、
先の桜井市上下水道局のところにあった
宮に向かったとのこと。

先ごろの父の葬儀でさんざん唱えた
「南無阿弥陀仏」がやってきた地ということなんですねえ。

連綿と続く仏教の始点と末端を垣間見たわけだ。

ここでしばらくお茶を飲んで休憩。
タイマー撮影をしてみた。



川面に揺れる黄色いコスモスが、



こそこそ笑うような気持ちのいい秋の堤防でありました。

続く