集落を抜けると、前方に見えてきたのが
「橘本土橋」です。
加茂川
という川に架かっているこの橋。
土橋といっても今は木の橋になっています。
すぐ横に県道の立派な橋が架かっているにもかかわらず、
そうして残されてあるのは
名所図会にもあるように
この橋のところが、
昔は重要な船着場だったからだそうです。
熊野に詣でての帰り道
藤白峠を避けてここから船に乗り
和歌浦に出ていく人もいた
と平安末期の旅行記にも書かれてあるそうです。
地図を見てみると、
この加茂川の河口の下津港には
今も「船出の地」というところが残っています。
多分そこからさらに海に船出をして
各地に帰っていったのでしょう。
いつかそこも見に行かなくては
と思っています。
せっせと街道を歩いて、
熊野に詣でる旅も帰路は船旅が
容認されていたようだと資料にありました。
その橋のたもとにあるのが、
大きな石の「三界万霊碑」で、
船からこれを見上げながら
海へと下って行ったのでしょう。
さて熊野古道の往路は
この橋を渡って左折していきます。
しばらく橘本の古い街並みが続きます。
この先にある拝ノ峠と、
ここまで歩いてきた藤白峠の間の地として、
このあたりは、船着場だけでなく
旅籠や伝馬、駕籠屋の並ぶ
交通の要衝であったそうです。
そんな街並みの先に
所坂王子の碑がある
橘本神社があります。
この神社の主神は「田道間守命」です。
え~、このブログの熱心な読者の方なら、
この名前に訊き覚えがあるでしょ。
そう、あのカニカニツアーで行った
木津温泉の売布神社の件で出てきた神様です。
その地では長い間遠い国に行き、
帰ってきたときに不老長寿の薬として、
お酒を見つけて帰ってきた神様と言われていました。
しかし、ここでは不老長寿の霊菓である
橘の木を見つけてきた
ということで、ミカンとお菓子の神様
となっているのが面白いですね。
信仰は時空を超え、
人の心が伝えていくものだから、
各地でその姿は微妙に変化していくのでしょう。
最近これだけ各地を転々と歩いていると、
いろんなところで人の思いや
行動の点と点が徐々につながっていくのが、
まるで幼虫が一齢から二齢、
二齢から三齢へと成長しつつ
成虫に近づいていくような
感じをよく受けています。
これからの道中、
どんな脱皮を見るんでしょうかねえ。
さて、その田道間守命のおわす橘本神社の境内に、
喪中のdoironは鳥居の横をすり抜けて入っていきます。
そこが、「所坂王子」です。
この王子名についている「ところ」というのは
植物名を表しているそうです。
ヤマノイモ科のツル性の植物で、こんな花。
昔、このあたりの坂に
たくさんあったから、
この王子名だとのことです。
そういえば、
ここまでの道のりでも
見かけたような気がします。
境内にはお菓子の神社らしく、
奉納の石板には、日本の名だたるお菓子メーカーが
名を連ねていました。
さあ、予定ではここから拝ノ峠を目指して
登って行くのですが、
本日最大の災難である
カメラ忘れ事件のせいで、
携帯のバッテリーがやばくなってきていました。
それもそのはず、
ここまでで140枚ほど携帯で撮影しています。
もし山中で携帯が使えなくなると、
画像を残せないばかりか、
さらなる災難時の緊急連絡も
ままならなくなりますので、
ここは余力を残して
帰路に着くことにしました。
先ほどの橘本土橋に戻れば、
JRの加茂郷駅に向かうコミュニティバスがあったはずです。
行ってみると、最寄りの加茂郷駅まで
一日3便あるバスのうち1便が
30分後に来ることがわかりましたので、
それに乗ることにしました。
時間があったので、楽しみにしていた
昼食(コンビニおにぎり)とビール
(も、も、もちろんノンアルコールでしょう、多分)を
橋のところで少しくらいならいけるだろう
と摂取しながら待っていると、
ほぼ時間通りに海南市コミュニティバスがやってきました。
バスとは名ばかりのワンボックスカーでしたけど・・・。
この運ちゃんが、まことに地元密着運ちゃんで、
途中で乗ってきた乗客と
「〇〇さん、今日は電車に乗り継ぐの?
もう時間アカンよ」などと超親しげです。
加茂郷の駅に着いて、
「このへんにコインPはあるかな」
て聞いたら、
「そんなんないよ。その辺にとめといたらええねん」
と駅前の小さなロータリーを指さして言ってくれました。
う~ん、しかしねえ~、それはねえ~
次回もやっぱり海南に車をとめて
電車でここまで来ようと
優等生doironは心に固く誓いつつ、
このシリーズ終わりです。
次回は加茂郷~宮原となる予定です。