こう見えてもライターの端くれですから、
日常生活の中で使う言葉にも
時々思わず反応してしまいます。
錦織クンの記者会見で使う言葉は
いつも「ら」抜き言葉だなあ、とか
政治家が使う言葉は断定的ではなく
いつも含みを残しているなあとかね。
自分で使う言葉でも時に語源はなんだろう
と考えてしまうことがよくあります。
例えば、昨日もエイで使った
「おあいそ」
は何故勘定の時に使うのかって考えてしまいました。
「愛想」を辞書で調べてみると
「客に心からサービスしようとする、
応対の仕方や顔つき」とあります。
ということは、勘定をすることで
店の人に「いい顔つきをしてくださいよ」
と要求しているてことになりますね。
じゃ「愛想ない」、
つまり大阪弁の「あいそない」は
相手がいい顔をしてくれないことから転じて
「つまらない」ていう意味になるってわけですね。
いずれも人と人の関係からくる言葉なんですね。
あ、「つまらない」って言葉もそう。
これは多分戦や将棋なんかの
勝敗の状況からきているに違いありません。
以前、某寺院に写経をしに行ったときに、
僧が語っていたことを今でも覚えています。
物事がつまらない時、
人は下を向いてしまいます。
だから「面倒」なのであり、
楽しいとパッと顔が輝きます。
だから「面白い」のだと言ってました。
今でもなるほどねーと思う講話でありました。
ところで、泉州地方は岸和田の
旧市の祭りは済んだとはいえ、
大半が来月の体育の日あたりが祭りになります。
街角に提灯が灯り、
夜になるとあちこちから
太鼓などの鳴物の練習の音が聞こえてくる今日この頃。
祭りムードは日に日に盛り上がってきています。
しかしねえ、今年は喪中なんです。
これまでの習わしで、
喪中の人はだんじりに触れないというのが、
暗黙の了解なんです。
第一、だんじりに乗って鳥居をくぐるわけにもいかないしね。
穢れているというわけではないのですが、
けがを呼ぶ、事故を呼ぶと
ある部分忌み嫌われている
ということからでしょう。
もともと、だんじりに乗るときは、
少しでもけがなどしないように
刃をあてて髭を剃るのも控えるくらいですからね。
だんじりそのものが、
五穀豊穣の儀式でありますから、
儀式にはだんじりをはなれた日常生活においても
儀式を伴うものなんですね。
それほど、人々にとって
大切なのが祭なんです。
毎年、だんじりに乗って「行っけ~」
などと叫んでいるdoironにとっては
だんじりに触れないとなると、
今年の祭りはほんまに
「おもろない」し「あいそなし」ですわ。