竹内街道とグルリンパコースの分岐のところには、
こんな古い家があります。
屋根にもこれは煙ヌキでしょうか。
かやぶき大和棟民家というそうです。
ん?その時には気付かなかったけど、
あとで写真を良く見たら屋根の真ん中に
何かがあるではないですか。
拡大してみましょう。
どうやら松の飾りのようです。
これまで鍾馗さんやカラス天狗はありましたが、
これは初めて見ましたね。
写真は撮っておくもんですな。
飛鳥川に架かる
「餅屋橋」という橋柱には、
他の面に「右 推古天皇御陵十町 科長神社七町
小野妹子墓八町 倉山田石川〇呂 5町」
と
「左 孝徳天皇御陵一町 鹿谷寺旧蹟十五町 中将姫旧蹟二十町」
と刻まれてありました。
細かく刻んでくれるのは親切でありがたいのですが、
字が細かいと月日が経つと
判読が困難になります。
これも風化によってほどなく読めなくなるでしょう。
道標は長尾街道の藤井寺にあった
「右 いせ」みたいにズバッと書いてあるのがいいですねえ。
ところで、飛鳥川とはどこかで聞いた名前ですね。
ブログを遡ってみたら
大和三山歩行の時に
香久山の近くを流れていたのも飛鳥川でした。
しかし二上山や葛城山を越えて
川が流れてくるはずもありません。
したがってこの太子の飛鳥川は
その奈良の飛鳥川とはつながっていません。
あしからず。
その餅屋橋を過ぎるとすぐに
国道166号に出ます。
それを左折してしばらく車に注意しながら歩き、
この道の駅の看板のところで右折となります。
急に車も減ってのどかな道を歩いていきますと、
こんな後屋池という池に架かる
珍しい橋を渡ります。
池の向こうに河内平野と
PLの塔が臨めます。
きっと8月1日は人でいっぱいになるでしょうねえ。
池の横に建つ家も多分に見晴らしを意識しているようです。
さて次の目的地は「小野妹子」の墓です。
小野妹子は飛鳥時代の外交・政治家です。
「妹子」という名前から
女性と勘違いされることも多いのですが、
遣隋使として歴史に登場する
れっきとした男性です。
彼もきっと、あの海柘榴市から、
隋へと旅立って行ったのでしょう。
その墓へは案内がなくて分岐点はややこしいです。
地図と地形をじっくり見比べて
エイヤと入っていった道が正解でした。
道の途中の観音堂の脇に
こんな道標がありました。
科長神社の脇から、
(あ、科長神社は「しながじんじゃ」と読みます。
「磯長」の別字ですね。
長い階段を上り詰めると
そこに小野妹子氏の墓があります。
小高い丘の上で、近つ飛鳥を見下ろしているようです。
みどりがやけに濃いなあと思っていたら
道理でこの辺りは
大阪緑の百選地区でした。
そういえばスタート時の叡福寺もそうでした。
小野妹子の生没年は不詳ながら、
「日出處天子至書日沒處天子・・・」の書状をもって
隋に渡り向こうの皇帝を激怒させたという逸話のあるのが、
聖徳太子の在位期間中ですから、
ここには当時ともに政治に携わった一群が
集まっているわけですね。
頂上の広場の手前に
この墓地の大きな修築竣成記念碑がありました。
大正11年3月とありますから、
亡くなった親父が生まれたのと全く同じ時期です。
建てたのは、小野妹子の後裔である
あの華道の家元池坊専啓という人だそうです。
よって、小野妹子は時に華道の祖と言われます。
元のグルリンパコースに戻り、
次は推古天皇の陵墓を目指します。
道端には、今年初めてのヒガンバナも咲いていました。
もう少しすれば、多分のここから見渡せる田園風景は
この花で紅く染まるんでしょうねえ。
向こうの丘陵の森の中に、
後で訪れる「近つ飛鳥博物館」があります。
お、さすがに推古天皇陵は、
二上山、葛城山から伸びる山すそを背景にして、
きれいにすっきりと整備されています。
遠望がきくとともに虫の音だけが聞こえる
静かな環境の中にたたずんで、
今回訪れた中ではもっとも広々と
気持ちのいいところでした。
在位期間の短い当時の時代にあって、
日本初の女帝として30年以上君臨し、
皇子である聖徳太子と共に
もっとも政治らしい政治を行った天皇であると言えるでしょう。
続く。