ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

山の辺の秋 2

2014年09月10日 21時20分16秒 | ウォーキング

築100年以上の木造建築の幼稚園から
さらに近鉄の線路沿いに東に向かうと、
さすがに山の辺の道のみならず、
伊勢街道や忍坂街道などが集まる地域だけのことはあって、
虫籠窓やうだつの上がる古い家並みが豪勢に
そしてさりげなく続いている。

このあたりはうだつのオンパレードだ。



おお~、今どきこんな大きな煙突の目立つ銭湯も珍しい。



その名も力湯。
え~と、男湯の暖簾をくぐると
脱衣箱の鍵が木製で、
風呂に入ると正面に富士山の絵があって、
浴槽はタイル貼りで、
底にケロリンと書いた黄色の洗面器が置いてあるような銭湯ですね。
今回とは逆コースで
天理から歩いてきた人には
おススメの銭湯かもしれません。

お、橋が見えてきました。

「粟原川(おおはらがわ)」にかかる「跡見橋(あとみばし)」。





この橋のたもとには、庚申さんがある。



庚申さんはいろんな信仰が複雑に絡み合っているので、
なぜここに庚申さんを設けたのかは、
うかがい知ることはできないが、
単にこの川で災難があったからなのかもしれない。
小さな川だけど、深く流れは鋭い。



この橋の手前を右折し、
人ひとりがようやく通れそうな細い道に入っていくと、
「茶臼山古墳」があると資料に書かれてある。

行ってみましょう。おお~確かに細い。



子供の頃に鬼ごっこで駆け抜けた
路地裏の道のような細さだ。
チャリンコさえ危うい。

道の脇にはヌスビトハギ




オトギリソウ、



横の畑にはニラの花が咲いているのが、



秋の訪れを告げている。

秋発見!

ちなみに「ニラ」は古事記や万葉集にも登場する植物で、
この地域にこそふさわしい植物ともいえる。

そんな道の先に見えてきた
こんもりした山がその古墳。



そこから夏の終わりを告げる
ツクツクボウシの大合唱が聞こえてきた。

由緒書によると、



古墳時代前期の前方後円墳だそうだが、
被葬者については書かれていなかったところを見ると、
きっと判明していないのだろう。

近鉄大阪線の線路の向こうには、



大神神社の御神体となる三輪山を背景に、
古式ゆかしき小学校が見えてきました。



城島小学校です。24時間テレビは盛り上がったかな?

正門前を右折ししばらく歩くと、
線路際に近畿自然歩道の道標が建っているのでここを左折。



その交差点には立派な地蔵と道標も立っていた。



道標は解読できなかったなあ。





いよいよ三輪山が迫ってきているところから、
もう少しで山の辺の道に入っていくことがわかる。



「欽明天皇磯城嶋金剣宮址」があった
と伝承されている桜井市下水道局を過ぎると、



S水君が喜びそうなこんなお店を横に見て







大きな川に突き当たる。
この川が「大和川」。
かつてdoironがM市まで仕事に行ってる時に
電車なら一日4回は渡っていた川だけに
とっても親近感がわく川だ。

左折してその川沿いにしばらくいくと
「馬井手橋」に出たところで
山の辺の道と合流となる。

川沿いの道には萩の花や



桔梗が咲いていて、



またまた秋発見!

ん?川の向こう岸に数頭の馬が・・・。



これにもいわれがあって、
遣隋使などが海を越え難波津から
大和川をさかのぼってこの地に来た時に、
権勢を誇示するようにかざり馬を並べたのを再現しています。



そうかあ、こんなところまで大和川の水運が届いていたんやねえ。

この馬井手橋から山の辺の道だ。



ここまで約4キロの道のりだった。

橋を渡ると、そこに「仏教伝来の地」
と刻まれた大きな石が建っている。



そう、これが桜井駅前にあった、
「仏教公伝の地」のいわれの元なんやね。



欽明天皇13年というから
西暦で言う540年位に
この地に仏教伝来のために訪れた
百済の使者が上陸し、
先の桜井市上下水道局のところにあった
宮に向かったとのこと。

先ごろの父の葬儀でさんざん唱えた
「南無阿弥陀仏」がやってきた地ということなんですねえ。

連綿と続く仏教の始点と末端を垣間見たわけだ。

ここでしばらくお茶を飲んで休憩。
タイマー撮影をしてみた。



川面に揺れる黄色いコスモスが、



こそこそ笑うような気持ちのいい秋の堤防でありました。

続く


山の辺の秋 1

2014年09月09日 21時57分58秒 | ウォーキング

車を転がして奈良県は桜井の駅に向かった。



ここからまだ歩いていなかった、
山の辺の道の三輪山から南の部分を歩きつつ、
秋を探しに行ってみようと思い立ったからだ。

運転しながら見上げた空は蒼く深く、
雲も夏の入道雲などはすっかりなりを潜め、
細かな千切れ雲が整列する高い空。

もうそれだけで十分秋を見つけたかもと思いつつ、
春に歩いた奈良三山を高架道路ですり抜けて、
たたなづく大和の連山を目指したのであった。

桜井駅前は思ったよりも賑わっており、
大阪で言うと・・・和泉府中の駅くらいかな。
こんな感じ。



そんな駅前のコインパーキングに車を入れ、
携帯のGPSをセットして、
さあ久しぶりの歩行開始だ。

駅の北口が山の辺の道の方面となるが、



今回は南口の方から、桜井の街を味わいながら
遠回りして山の辺の道に合流するように歩きはじめた。



でも一応北口もチェックしておこう。

駅前のロータリーに出て目につくのが、
茶色の細長いオブジェ。



そこには「芸能創生の地」と書かれてある。

あれあれ?
今春大阪市内を歩いた時にも
そんなことが書いてあったような・・・。

調べてみたら、桜井市には「土舞台」といって、
聖徳太子が若者に伎楽舞を習わせたところの碑があるとか。



そのことは日本書記にも書かれてあるそうだ。

ああ、それで「創生の地」なんやね。
そういえば聖徳太子さんはこの辺のお人でした。
で、よく見ると、そのオブジェの他の面には

「仏教公伝の地」と「相撲発祥の地」

とも書かれてある。



前者はこのあとの歩行の途中で出てくるので後述しよう。
後者は、山の辺の道を少し東にそれたところにある神社で
「當麻蹴速(たいまのけはや)」と
「野見宿禰(のみのすくね)」による相撲の
我が国初の天覧試合が行われたところがあることから
そういわれているのだそうだ。



そこは今「相撲神社」と言われている。

そうかあ、だったら我が国で初めて
全米オープンで決勝を戦った錦織クンの地元には、
テニス神社ができるかもねえ。
あ、カタカナはおかしいかなと思ったら
ネットでこんなの見つけました。



では「庭球神社」やね。

あと、オブジェのもう一面には
「万葉集発煬の地」と書いてあるそうだが、
それは見落としたなあ。

でもまあ、この地域はそう書かれてあってもしかるべしでしょう。

道の向こうには
「古代の道本舗」




「まほろばの里卑弥呼」



といったそんなお店が並んでいたりして、
山の辺感満載の桜井駅北口なのであった。

再び駅の通路を通り抜け



南口から一旦南に歩き始めた。



ほどなく「本町通商店街」の入り口を発見。

この商店街を通り抜けるのが今回のコースである。

アーケード入り口の看板には
「伊勢街道」とも書かれてあり、



また「忍坂街道」「多武峯街道」
「磐余の道」「大和長寿道」などという案内もある。



昔から交通の要衝だったわけですね。

そういえば、街道を歩くときには
商店街を抜けることが多いのは、
人が集まるから商店街として
発達していくのかもしれないな。

しばらく行くと店先の電柱の横に
何気なく立っている石を発見。

道標かと思いきや、旧桜井町の道路元標でした。



これで、大阪市、岸和田市、奈良市、名古屋市についで
5つ目の道路元標ゲットです。

商店街の中には、総じて古く珍しい店が並び、
こんな格子のきれいなお家や、



由緒ありそうな薬屋さんなども点在している。



アーケードの途切れたところで左折し、
狭い道を入っていくと、
線路の手前にあるのが「育成幼稚園」という施設がある。

築100年以上経つ木造の建物の中で
子供たちの元気な声が響いていた。

あまり、この周りでウロウロしながら
写真を撮っていても、
不審者ぽいので、
正門で一発だけ撮影しておいた。



山の辺の道にはまだ入っていないが、
歴史ある桜井市の古い家並みはまだ続く。


2014夏の御坊

2014年09月08日 21時38分48秒 | 生活

かなり家の方も落ち着いてきたので
和歌山県は御坊にある実家の点検に行ってきた。

それは義親が介護になってから、
近所に引っ越してこさせたので
空き家になっている家の状態と、
その隣にある空き地の雑草の様子を見に行くためである。

今年の大雨で各地で水害が起こっている。
実家の前にもメダカが泳ぐ小川が流れていて、
そこが以前に何度かあふれたことがあったので、
今回もその影響がないかというのが心配だった。

夏は行楽客で阪和道が混むから
行くのを避けていたというところもあるのだが、
先日海に遊びに行ったときには
さほど渋滞もなかったこともあって、
そろそろよかろうと判断して行くことにしたのだ。

世間の夏休みもおおむね終わったしね。

点検もあるがもちろん楽しみにしていることもある。

ひとつは、その家の前の小川でのメダカ捕りだ。
すくってきたメダカは家で大切に飼っているし、
近所の友達にもあげて
今はご近所はちょっとしたメダカブーム。
それぞれ生まれた子供を交換したりして、
大切に増やしてくれているようだ。

楽しみのもう一つは、空き地に植わっている植物の収穫。

柿の木が2本あるがそれはまださすがに早かった。
葡萄、イチジクは捕り頃かもしれない。
高速道路をビューンと飛ばして、
約1時間半ほどで到着。

ざっと見ると、周辺の稲穂も無事に育っているようだから、
さほどひどい水害はなかったようだ。

家の方も、前回きたときのように
川があふれたような痕跡も残っていなかったので
ほっとひと安心。

家の中にはヤモリが一匹干からびていただけで、
他に特に異常はみられなかった。

ただ、空き地の雑草がひどく、
立ち入りも憚れるほどであった。

また近所のお兄さんに
草刈りを頼まなければなるまいて。

収穫の方はというと、
今年はどうやら柿は不作のようである。
緑の実が数個ついているだけだった。

まあ、何も手間をかけていないのだから、
当然かもしれない。

それに柿の木に巻きついているヤブカラシも
かなり生育しているから、
そのせいもあるのだろう。
さすがに「藪枯らし」と呼ばれているだけのことはあると、
悔しいがちょっと感心した。

とりあえず、そのヤブカラシは根元のツルを
チョキンと切っておいた。

今年の夏が天候不順で、
今野菜の値段が高騰しているように
ブドウもイマイチだし、イチジクは熟した順に
虫にやられているようだ。

唯一、今年の豊作を喜んだのが

「むかご」

こんな感じでフェンスにいくつもツルが巻きつき、



中には全然使っていない
家庭用ボイラーの中にまでツルが入り込んでいたりした。

それは当然除去したうえで、
ツルからこぼれ落ちないように
注意しながらむかごを収穫した。

これ。



違う違う、それはむかごじゃなく、ムカデ
本当はこれ



さあて、これらはどうしましょうか。
むかご飯にするか、



甘辛く炊いてつまみにするか、
そこはやはりミセスの気分にお任せしよう。

こんな収穫があると田舎もなかなか
捨てたもんじゃないと思ってしまうもんだ。

あ、残念ながらメダカは
川の水が多すぎて収穫できなかったよ~

そんな実家の家と空き地を
ずいぶん前から売りに出してもいる。
しかし、なかなか買い手が現れない。
田園地帯の一角で、虫の音なんかも素晴らしい所なんですがねえ。

それはやっぱりあの東北の災害以来のことで
海に近い土地はどうしても敬遠されがちなんだそうだ。

ま、売れなくてもそれはそれで、
別荘替わりに使えばいいかなと最近は思っている。

「僕のアトリエ兼書斎にしてもいいなあ」
と言ってみたが、
ミセスの返事はなかったなあ。

追伸

今日は仲秋の名月。



よく晴れてきれいでしたねえ


ゼロではないけれど

2014年09月07日 21時24分03秒 | 生活

先月、ジム友達と今年3回目となる海に行った。

今年の夏は、海といい、北海道のことといい、
介護のこととかでいろんなことが続く合間に、
うまいこと時間が取れたものだ。

今、おもえば父と神様の配慮だったのかもしれません。

その海に行った際に一緒に行った
お孫さん達の親御さんからお礼に、
とビール等をいただいた。

それがこれ。



たまに、市場で見かけるビールです。
普段飲んでいるビールとはちょっと違った麦芽を用いている
というビールだそうで、味わい方は、
ちょっとぬるめの13℃くらいで、
グラスに注ぎ、ちびちびと飲むのがいいようです。

食事の時というよりは、
食後にTVを観たり、
読書をしているのんびりとしている時がいいかもしれません。

それにしてもネーミングが面白くて、
これなんかは



「前略好みなんて聞いてないぜSORRY」だって。

そもそも会社名も「ヤッホーブルーインク」などと、
独創性あふれる名前だしね。

この会社のビールには他にも
「インドの青鬼」やら「水曜日のネコやらがあって、
コンビニにあったら
友達のところへお酒を持って遊びに行ったり、
大きな仕事が片付いたりしたような特別な日には
ついつい買ってしまいそうです。

気に入ったのは「軽井沢高原ビール」。





軽井沢は息子が働いている近くのリゾート地です。
そのうち、頻繁に行くことになるでしょう。

これを飲みながら、
「家が落ち着いて、秋になったらまずチャリンコを積んで
軽井沢に行ってみようかな」なんて考えてます。

こういう贈り物は、おいしいのとあわせて
しっとりと楽しい時間を過ごせていいものですねえ。

おい楽しい贈り物をありがとうございました。


ええやんのゼロ

2014年09月06日 21時41分44秒 | 生活

昨夜はさすがに夢も平常に戻った。
こうして日常は少しずつ
あるところは新しく
またある部分は以前のように
リズムを刻み始めるんだよね。
色々と気疲れはしたものの
すでにジム通いは始めているし
体調もすこぶるよろしいようです。
ただ、ここんとこのお通夜、告別式続きで、
普通のビールを飲む機会が多かったから、
少し痛風が心配なのだが、それもこらえてはいる。
今日はその辺にまつわる話を少し。

以前、症状が出始めてから、
普段飲むビールは発泡酒の極ZEROにしている。
糖質ゼロに加えてプリン体もゼロだし、
味も悪くないので晩酌時には
もっぱら愛飲している。

おかげで、尿酸値も下がり
あれから痛風はなりを潜めているような状況だ。

doironはこのありがたい現象を「極ゼロ効果」
と呼んで過去にブログにも書いた。
そう、以前から糖質ゼロはいろいろあったけど、
プリン体ゼロはこれしかなかったのだ。

ところが最近、ようやくと言っていいだろう、
各大手メーカーから、
糖質ゼロかつプリン体ゼロの発泡酒が
一斉にリリースされた。

よしよし、ええやん、いい傾向である。

早速買いそろえてみたのがこれ。



パッケージのデザインは、
2社が極ゼロに似せて紺色を基調としている。
この色が曲者で、
よく極ゼロと間違えて、
金麦を買ってきたりしたんだよね。

そしてキリンのみが淡麗の兄弟分としての位置づけを持たせ、
他の3社とは見た目の異なるデザインを用いている。

この辺はキリンのプライドなんでしょうかねえ。

で、アルコール度数はどうかというと、
度数の高いのがキリンとアサヒで5.5%、
ついでサントリーの5%、
愛飲しているサッポロが4%と最も低い。

売り文句は、キリンが「プラチナダブル」、
サントリーが「おいしいZERO」、
アサヒが「スーパーゼロ」と
それぞれのメーカー色を出している。

サッポロはもちろん「世界初」である。

そしてカロリーはというとどれも
100ミリリットル当たりのそれが書かれてあるのだが、
アルコール度数にほぼ比例している。

ここで面白かったのがアルコール度数が同じでも、
キリンは31kcal、アサヒは34kcalと異なっていることだ。

これは飲んでみるとわかるように、
アサヒの方がコクがある分
若干高くなっているように思われる。

サントリーは28kcal、
最後にサッポロがこの手の発泡酒の中では
最も低カロリーの26kcalであった。

結局4社を飲み比べてみたが、
味といい、低カロリーであることといい、
doironはやはり飲みなれたサッポロがいいかなあって感じです。

いずれにしても、こうしてゼロゼロが
普及するのは大賛成だ。

おしまい。


親父はきっとまだそばにいる

2014年09月05日 21時50分25秒 | 生活

親父の後始末も順調に進んでいる。

施設に荷物の引き上げにも行き、
市役所、年金事務所の手続きも済ませてきた。

親父がいなくても時間はこれまでと変わりなく、
淡々と過ぎていく。

そんな中でただひとつ、
こんなことがあるんだと驚いていることがある。

告別式の翌日から4日連続で親父の夢を見たのだ。

最初は家族で北海道旅行をしている夢。



これには理由がある。
親父が最後にスーちゃんと旅行に行ったのが北海道であった。
まだ二人とも普通に生活をしている時だった。
そんなことを思い出していたので
きっと夢に見たんだろう。
doironもつい最近行ってきたところだしね。

二日目は、シチュエーションは定かではないが、
親父が話をしている夢を見た。
話の内容も全く覚えていないが、
もし宝のありかを教えてくれていたりしたんなら、
残念なことである。

そうして二日連続で夢に出てきたことは驚くばかりで、
友達に話すと、
「49日まではそばにいてるからね」と言われた。
そういうものなんだろうか。

そしてさすがに今日はもう見ないだろう
と思っていた3日目。

これまた驚くべき夢を見た。

doironと息子が湖のそばにいるのだが、
その湖の湖面すれすれを龍が、
蛇のように体をくねらせながら飛んでいくのだ。
そしてその頭に親父が乗っていたのである。



「坊や~良い子だ寝んねしな」
というBGMはなかったが、
まるで「まんが日本昔話」のような光景であった。



それを暗示というなら、
とらえようでいかようにも解釈できそうな光景である。

3日連続でしかも龍まで登場して来られた日にゃ、
友達の言葉もいよいよ信憑性を帯びてくるというものだ。

そして昨晩。首Dさんとエイで酒を酌み交わし、
ほろ酔い加減で眠りについた夜に、
またまた親父が夢に現れた。

何かの写真展の会場のようなところで、
親父が長椅子に座っていた。

声をかけようとするが、
横から次々に知り合いが現れて、
親父のところに到達しないまま夢は終わった。

友達付き合いを何より大事にしていた親父。
人にいやなことは一切言わなかった。
きっと、おれのことはいいから、
お前も友達付き合いを大事にしろ
と言ってるのかもしれない。

こんなことってあるんやねえ。
自分でも驚きです。

doiron家の大切な出来事として、
語り継いでいかねばと思っています。

さて、今夜は5日目。
果たして夢に親父は現れるだろうか。


葬儀の心得 3

2014年09月04日 21時45分09秒 | 最近の出来事

告別式の日は、時折細かい雨が降っていた。

9月に入って、急に涼しくなり、
喪服の人にも優しい気候となったのは、
親父らしい配慮だったのかもしれない。

開式の2時間前に町会の人達が来てくれた。

焼香順位帳の最後の調整をしながら、
時間はどんどん過ぎてゆき
あまり寝ていないので、
ふわふわした感じだったからか
あっという間に告別式は始まった。

三人のお坊さんが読経を始める。

襲い来る眠気と戦いながらの小一時間となった。

焼香順位表に基づき、焼香が始まる。
弔電の詠みあげ、一般焼香と続き、
式は夢のように進んでいく。

そしていよいよ出棺である。

最後に参列の皆さんで、
棺の中に花をいっぱい入れていただき、
合掌後、doironは位牌を持って、
ミセスは遺影を持って棺を誘導する。

このあと火葬場に向かうのだが、
この時に一番気にしていたのが、
手配していたバスに全員が乗れるかどうかである。

足りなければ乗用車を出していただくように、
親戚にはお願いをしておいた。

霊柩車の中でやきもきしながらみていたら
なんとか乗用車2台を出すことで
これもクリアできたようである。

まったく故人を悼むというより
段取りを気にしなければいけないので喪主は大変だ。

火葬場では、炉のスイッチをdoironが押した。

ボタンをガコンと押すのかと思いきや、
何とも手ごたえのないスイッチでした。

ボタンがいくつか並んでいて、
一斉に押すことで誰のボタンが
着火ボタンなのかわからないようになっているのか
と思ってたんやけどなあとミセスに言ったら、
「それは死刑の時でしょ」と言われた。

そりゃ失敬。

再びホールに戻ってこんどは精進上げという会食が始まる。
この時もあらかじめ声をかけていたのだが、
急きょ参加とかあった場合に、
用意した料理が足りなくなることが
最も困るのである。

お通夜の状況をみつつ用意をした料理は、
4食分残っただけでここもギリギリセーフであった。

会食が始まる前に皆さんに挨拶をした。

「本日は亡き父のためにご参列いただきありがとうございました。
皆様のおかげをもちまして葬儀の方は滞りなく終了しました。
故人も喜んでいると思います。
父は享年93歳という大往生でした。
その年齢を考えると、あの世の方が知り合いが多いと思います。
きっと今頃は盛大な歓迎会が催されようとしていると思います。
本日は母も高齢のため出席できませんでしたが、
残った我々家族力を合わせて一生懸命にやってまいりますので、
どうか今後もご指導いただきますようよろしくお願いします。
ささやかではございますが、精進上げを用意しておりますので、
骨上げまでの間ごゆっくり歓談いただきますようお願い申し上げます。
本日は本当にありがとうございました。」

ペコリ

当然、拍手はありません。
そのあと、親父の遺影の前に置かれたコップに
お酒をついであげるときに、
「親父は糖尿やから少な目に入れとくわ」といったら大爆笑でした。

いつも受け狙いの不謹慎なdoironです。

食事後骨上げに行きました。
生前はペースメーカーやボルトなどを装着していたので、
骨の間に残っていたそれらが、
親父の壮絶な戦いの跡を物語っておりました。

喉仏は、割れていましたが、
パーツは全て残っていたので
組み合わせて骨壺へ入れることができました。

その他の骨も、2年前まで歩きまわっていただけに
すべて立派でした。

こうして、親父は小さな骨壺に納まりました。
しばらくはそれを眺めながら
満中陰まで拝み続けます。

戦争を経験し、母親と二人の子を養い、
晩年は高齢と戦ってきた親父の人生は
ここにこうして幕を下ろしました。

もう、苦労をすることも、
何と戦うこともしなくて済みます。
どうか安らかに極楽へ行ってください。

親父、ありがとうございました。

合掌


葬儀の心得 2

2014年09月03日 21時38分50秒 | 最近の出来事

家からの出棺の前には納棺式がある。

棺の底にまずお茶の葉を敷き詰める。
お茶の香りに包まれて旅立ちをしてもらうためなんだそうだ。

そして死出の旅立ちの衣裳を整えた後に納棺となる。
この時、棺の中には
故人に持って行ってほしいものを入れることができる。
ただし、火葬の際に燃えにくいようなものであるとか
溶けて炉をいためるものなどは入れることができない。

プラスチック類はダメと言われた。

ここで、あらかじめ考えてあったものを入れてあげた。

先ずは半紙に包んだお米を少し。
食べることが大好きだったしね。

それから親父は読書が好きで
持っている本には付箋がいっぱい貼られてあるので、
その付箋をひとつ。

いつも一緒に寝ていたグーの毛をひとつかみ等々、
生前手元にあったものを中心に
一緒に納棺した。

最後に業者さんが持ってきた
わらじと杖と三途の川の渡し賃である
六文銭を紙に印刷したものを入れた。

あの世に消費税はない模様。

そして棺の蓋をし、家から出棺となる。

ここで思い出したのが、
先日古い写真を整理している時、
近所の長老から聞いた話によると、
doironの祖父の出棺時に衝撃的な事件があったそうだ。

当時は寝台車などはよほどでないと使わずに、
みんなで棺を大八車に乗せて
火葬場へ運んでいったそうだ。
祖父もそうだった。

衝撃事件が起こったのは出棺して
家から出てすぐの時だった。

家の前には川が流れていたのだが、
大八車の操作を誤って、
その川に棺ごとドボンとはまってしまったそうだ。

その話を聞いた長老も、
当時は子どもであって、
そのことを目撃して以来トラウマとなり、
川で魚取りなどの水遊びが
できなくなってしまったと言ってた。

まさしく衝撃の事件であった。

そのことを思い出したので、
親子二代でそんなことがあってはならない。
もしあれば自分の時も棺が壊れるなどの
呪われた事件に巻き込まれるのではと思うと、
出棺時は棺を支えながら
非常に緊張してしまったわい。

なんとか無事に寝台車に棺が収まった時にはホッとしたな。

家から車で5分くらいのところにある
葬祭ホールに着くと、もう祭壇が出来上がっていた。



会葬の受付や香典の集計、
供花の受付など葬儀の細かい段取りは
全て町会がやってくれるのでお任せしてある。

この辺のところはとても助かるもので、
doiron自身が普段町会側でやっていたお世話が、
喪主をどれだけ助けているか
ということを実感したな。

喪主がやらねばならないのは、
告別式での焼香順位の作成だ。

来てくれる親戚の人をあらかじめ調整しておき、
血の濃い順番に並べていかねばならない。

普段そんなに濃い親戚付き合いがないので、
よくわからないところは
知ってそうな親戚に尋ねながらの作成となる。
街道の歴史には興味を示すのに
自分自身に宿る歴史には
とんと疎いdoironなのでした。

血の濃い順番とはいえ、微妙なところもある。
そのあたりにも気を遣うし、
そもそもどこまでの親戚を詠みあげるかというところも難問だった。

そうしてなんとか出来上がったメモを、
町会の人が焼香順位表に記入してくれることになる。

あらかじめ清書してしまうと、
急きょ参列となった時に書きなおせないので、
ギリギリまで待っておいてもらわないといけない
ということもある。

それが整うともうあとは町会と業者任せでことは進んでいく。

お通夜を終え、参列者、親戚共に引き上げた後は、
一人で朝まで親父と過ごすことにした。

ホールの控室には宿泊の準備も整っている。

親父はお酒が好きだったけれど、
晩年は糖尿病で医者にとめられていたので
一緒に飲みに行く機会はほとんどなかった。

なので、その日ばかりは最後の語らいだ。

棺の前でビールを飲み交わした。

この時点で丸三日間、
ほとんど眠っていなかったので、
思わず萩のときのことを思い出したな。

最後の宴を終え、控室で数時間泥のように眠った。

そしていよいよ告別式の日を迎えたのである。

続く。


葬儀の心得 1

2014年09月02日 22時05分29秒 | 最近の出来事

え~、葬儀というのは突然に訪れるものです。
あらかじめ予約もできないし
前もって準備しておくというのも
なんとなく気がひけるものです。

しかし、急にやってくるその時を
慌てず騒がず迎えるためには
すこしでも
心づもりをしておくことが
有効であると思います。

そこで、今回の親父の一件を
書き留めておくことで
自分の記録としてとどめておきたいし、
読者の皆さんの将来どこかでの少しでも参考になればと思いますので
葬儀にいたる顛末を書いておきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
退院したての頃は、施設で母親と
楽しそうに食事をしていた親父。

それがもう退院二日後には発熱し、
点滴で栄養分を摂取せざるを得ない結果になった。
せめてひと月は大丈夫かなと思っていたけど
想定外に早い発熱だったなあ。

しかしその熱も4日目には下がりはじめ、
5日目には肺の炎症も一見治ったようになり、
親父は不死身だと思わせる場面もあった。

結局その日は医者の許しを得て、
持参していったチョコレート味のコンデンスミルクを



甘い甘いと嬉しそうに食べさせてあげることができた。

そして食後は母親と手もつないでランデブー。
その時の写真が
親父の最後のワンショットとなった。
重い決断だったけど
退院させてよかったなあと、ミセスと
喜んで帰ってきたその日の夜の
午前0時過ぎだった。

枕元の電話が鳴った。

こんな時間に鳴る電話はロクなことがない。
心して電話を取ると、
どうも具合が悪そうだとのこと。

状況を聞くと、
息をしていないように見えるらしい。
それは大変と
とるものも取りあえず慌てて駆けつけると、
親父はベッドの上で眠るように亡くなっていた。

つい15分前までは、
訊きとりにくいながらも、
会話をしていたそうだが、
次に行ったときには
そんな感じだったということだ。

これまでの病状をすべて勘案すれば、
もともと病気のあった心臓が
肺炎によりますます弱まり
静かに静かに役割を終えて
停止したということだろう。

医者の診断書では、死因は「肺炎」。

8月30日午前1時19分に
死亡が確認された。

そしてそこから、
見送りの儀式は始まったのである。

先ずは施設の人による、
清拭が行われた。
きれいにしていただき、
浴衣まで着せていただいて、
最後はベッドで静かに
寝ているような姿になっていた。

その間に、
村で御馴染みの葬祭会社に電話をすると
3時半に寝台車に迎えに来てくれるという。

それまでの間、無言の親父のベッドに
独りで付き添った。

ミセスに家を片付けておいてもらって、
4か月ぶりに親父はその寝台車で家に帰った。
ここ最近の入院期間は二回で合計3か月。
5月に入所し施設で母親と過ごしたのは
ひと月あまりであるものの、
それは幸せな期間であったに違いない。

手元にある亡くなる数時間前に撮影した、
スーちゃんと楽しそうにしている写真をみながら
そんなことを考えた。

あのまま病院を転々としながら
寝たきりで着地することを思えば、
幸せだっただろうと思う。
いや、思いたい。

家で親父を寝かせてから、
枕元で業者さんと葬儀の打ち合わせをした。

日にちと時間を決め、
祭壇を選び、弔問客の数を予想しながら、
葬儀の規模を決めていく作業となる。

ちなみに我が家は「浄土宗」です。

あ、なので神棚には白い半紙を垂らしておくとよいそうだ。

夜明けすぎに、町会長とお寺さんに電話をし、
日時の最終決定をし、
ついで親戚にも連絡を回した。

やがてぞろぞろと伝言ゲームで訃報を聞いた
村の人々が続々と我が家に弔問に訪れてきた。

生前時の様子から亡くなるまでの、
親父の最後の着陸の様子を
弔問客ひとりひとりに丁寧に説明をさせていただいたが、
ひっきりなしなのでこのあたりで
かなりグロッキーになってきたが、
そんなことも言ってられない。

そして、こちらの祭壇の準備が整った頃、
駆けつけてきたお寺さんによる
枕経(まくらきょう)の読経が始まった。

近所の親戚も何名か混ざって
それを一緒に唱えさせていただいた。

早朝に村中に響く、
鐘と木魚の音。

もうこれで村中に知れ渡っただろう。

亡くなったのは土曜日になってすぐの頃。
本来ならその日にお通夜で、
翌日告別式でも可能なのだが、
日曜日が友引にあたるため、
告別式を月曜日に伸ばすことにした。
そうすれば、一日でも長く
親父は家に居られるし、
こちらの準備も落ち着いてできるてなもんだ。

時間はどんどん過ぎていき
そうこうしているうちに、
村の大師講の人達約20人による
「御詠歌」も始まった。

ありがたいことである。

みんな帰り際に、
親父に親身になって声をかけていただいた。

夕方近くになって葬祭センターに
頼んでおいた遺影が出来上がった。
その写真は先日、
写真整理をしたときに出てきたもので、
3年前とそんな古くない写真であるにもかかわらず、
棺の中の親父は痩せて変わり果てているのが
とても不憫だったな。

そして、翌日午後4時に
葬儀のために
親父は我が家から出棺し、
葬儀会場へと向かったのでありました。

続く


告別式なう

2014年09月01日 10時50分32秒 | 生活
間もなく告別式が始まります。
今日も参列のみなさんありがとうございます。この世よりあの世の方が知り合いの多い親父です。告別式のあとは向こうの盛大な歓迎会が待っていると思いますが今日はまだみなさんに最後の挨拶をがんばってもらいましょう。詳細は後日。