小学校の頃から、先生から問題が出され、答えを出すと必ず、〇かXが与えられてきた。先生が用意した解答以外はXなのだ。単純で、分かりやすいと言えば分かりやすい。教えられた方法に従って正確に答えられればそれでいい訳だ。そこでは記憶力と計算力が試されているだけで、問題解決のスキルは向上していないのだ。
個性を尊重する教育などと叫ばれて久しいが、実際は、昔よりもずっと画一的で、巾の狭い価値観に支配され、解答は常に1つしか用意されていない。外の答えは全て無視されてしまうそんなところが学校というものだ。
実生活の中では、答えはいくつも存在し、どれが正解なのかということも、なかなか答えが出ないままになってしまうことが何と多いことか。例えば、人付き合いなどというものにも、正解がない。それは人に正解も不正解もないのと同じなのだ。しかし、答えを出すと常に正解か不正解かと断定され、正解を出すことが良いことで、それ以外はダメなことと思いこんでしまっている人は、正解か不正解かの判定がなされないと、不安に陥ってしまい、どうして良いか分からなくなってしまうところがあるようだ。有名な大学に入り、名の通った会社に就職できれば、勝ち組と言われ、自らもそう信じ込もうとする。一方、思い描いた大学に入れず、正社員の職にも就けないとなると、自ら負け組みと称し、自らも卑下し、自己評価を必要以上に低くしてしまう。そんな二者択一的な価値観に陥ってしまった人は、いったん歯車が狂ってくると、後は脆いものだ。どんどん転げ落ち、自己修正できないまま、立ち直れなくなってしまう。
世の中、二者択一でなく、全く別の発想から導かれた他の答えもあってもいいのだ。このことが分かってくれば、自殺という選択肢に固執し、死を選ぶということもなくなっていくだろうと思うわけだ。まあ、毎年2万5000人もの人が自ら死を選択し、自らの命を絶っているという重大な事実、よくよく考えてみようではないか?