DonkeyMの部屋

Donkeyはロバ。格好良くなく、足も遅い。「のろま」とか「馬鹿」といった意味。日々の感動、怒り、愚痴等を記事にしたい。

恍惚の人に近づいているのかも?

2016-02-02 22:46:18 | 雑感

 テニスにやってくる仲間の仲に、アラフォーの女性が二人、この二人気が合うらしく、いつも一緒に行動している。まるでペアーのような存在なのだ。どうも住んでいるところが近所らしい。相手の細かいところまで良く知っているようだ。それをみて、ふと、自分にこのような友達と言える人がいるのだろうかと考えてみたが、どうもいないような気がしてきて、心持寂しい気がしてきた。

 テニスや卓球、ドイツ語サークルなど、一定の時間を一緒に過ごす仲間はいる。しかし、それはそのときだけのことであって、それ以上でも、それ以下でもない。日常場面の一場面に登場してくる人に過ぎない。

 少年時代や青年時代を振り替えてみると、いつも誰かとくっついて一緒に行動したように思う。用事があってもなくても、一緒にいた。そして、それが不思議なことと思ったこともなく、自然にやっていたことだ。ところが、お互いに仕事をするようになり、住むところが離れてしまう。結婚し、家族と過ごす時間が増えるに従って、自然と合う回数も減って、用事もなくつるんでいるということはあまりなくなってしまった。特に、私の場合は、転勤族で、2,3年に一度の割合で転勤を繰り返してきた。知り合いがいて、会えば話をする程度の人は結構たくさんいるが、用事がなくても訪ねて行ったり、訪ねてこられたりといったことはほとんどない。そして、どんどんと互いの記憶の中から消えていく。「ああ、そう言えば、そういう人がいたなぁ」程度に思い出すくらいのものだ。

 家族も、子どもがいるうちは、まとまって行動したりしていたが、子どもが成長し、親のかかわりのないところで動く時間が増えるに従い、家族で過ごす時間も減ってくる。まして、子どもが結婚してしまい、遠方に住むようになると、余程の用事がないと会うこともなくなる。当然、つながりがどうしても疎になってくる。これは仕方のないことだと分かっているのだが、歳をとるに従って、何となく寂しさを感じることが多くなってきたように思う。

 都会?のマンション暮らし、隣の人と顔を合わせれば挨拶はするが、互いに、部屋を訪ねるようなことはない。便利と言えば、便利。近所付き合いというわずらわしさからは無縁の世界なのだ。個と個、コンビニやスーパーの店員と話をするのとあまり変わらない。相手のことはほとんどといって良いくらい何も知らない。「雨、嫌ですね!」、「寒いですね!」程度で、話は終わってしまい、後が続かない。

 こんな生活をしていると、「何とこの世はつまらないことか?」と思えてくる。誰かに「何やっても良いんだから、もっと面白いこと探せば!」と言われるだろうなぁ・・・・

コメント
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