10年くらい前に、植村花菜が「トイレの神様」という歌を歌って大ヒットし、NHKの紅白歌合戦にも出場したことがあった。
私は、トイレに神様と聞いて、何の違和感も感じないままに聞き入った。日本では昔から山には「山ノ神」が、川には「川の神」が宿っていると言われてきた。ありとあらゆるものに神が宿っていると言われてきた。それを本当に信じているか信じていないかは別として、そういう考え方もあるのだと誰もが受け止め、これに目くじら立てて反論する人などあまりいない。日本の根底には、いわゆる多神教が根付いていたようだ。そこに、仏教が入ってきたり、次に、儒教が入ってきたり、キリスト教が入ってきたりした。一つの宗教にどっぷりと染まって、熱心に信心している人は別として、一般の人は、多くの宗教が存在していることに差して抵抗感を持たずに生活している。それが日本、日本人の一つの特徴ということができるのではないか。この感覚は、ヨーロッパやイスラムの国民にはなかなか理解できないことだろうと思う。江戸時代、キリスト教禁止令が出て、幕府は厳しい弾圧に掛かったが、一般の人の中では、差して大きな問題とはならず、宗教間の争いにも発展しなかったように思う。
中東では、今日も、ユダヤ教とイスラム教の激しい戦いが繰り返されている。一神教の世界では、他の神様は存在してはならない。その存在を認めることは、自分の信じている宗教を否定することに繋がるということなのだろう。小さい頃から、事ある毎に、神がしつけの中に登場し、絶対服従を強いられてきたわけだし、そう信じて当然のこととして従ってきたわけだから、そう簡単に、そこから抜け出すということはできないのだろう。こう考えてみると、宗教の違いが戦争をも引き起こすのも、納得できなくもない。
一つの宗教に染まりきっていない日本だからこそ、色々な宗教に対しても寛容でいられるし、違和感も特に抱くこともない。その結果として、正月には神社に参拝し、お盆には菩提寺にお参りに行き、そして、クリスマスには、(賛美歌は歌わないかも知れないが)ケーキを食べる。それこそ何でもありの世界、節操がないと言えば、節操のない話なのだ。しかし、これが日本というものなのだろう。
一つの宗教に染まっていないから、食文化が入り込んできたり、色々な考え方が入り込んできたりし、抵抗なく受け入れて、生活の中に取り込んでいけるのだろう。仏教に染まってしまったら、肉は食べられないし、イスラム教に染まってしまったら、豚は食べられないから、、その食文化は取り入れられないことになる。日本は、おおよそ何でもありの世界なのだ。食いしん坊にとっては日本はまさに天国だ。同じことは、衣類についても、生活習慣についても、他の様々なことについても、同様のことが言えるだろう。外国人にとって、日本人はいい加減な、理解しがたい民族と思われているのかも知れない。