私たちは常にといって良いほど欲求不満に晒され続けている。あれが欲しい、これが欲しいと次から次へと出て来る。それら欲しいものが全て手に入れることができるなんてことはあり得ないことだ。大金持ちならば、買えるものはすべて満たすことが出来るかも知れない。しかし、世の中には金ではどうしようもないものもある。だから、生きている限り欲求不満と上手に折り合いを付けていくしかないのだ。
こんな分かったようなことを宣う私も、同様だ。あれが食べたい、これが食べたい、良いカメラが欲しい、もっと良い車が欲しい、数え上げたら限がない。まるで欲求不満の塊のような存在だ。このように欲求不満に悩まされ、何とかそれを晴らしたいと思い続け、いつの間にか古希を過ぎてしまった。もっと安らかな生活というものはないのだろうかとふと思う。
しかし、欲求不満を持つということは悪いことばかりではない。欲しいと思うから人は努力するし、どうしても何かを欲しいと思うから、目先の欲求を我慢する。努力と欲求不満は対になっていると考えた方が良さそうだ。
私たちには常に物凄くたくさんの情報が送られてくる。そして、その多くが人を欲求不満に借りたてて、購買意欲を掻き立てるものだ。例えば、車の情報、今までの車の形を少し変えたり、馬力を少しアップしたり、機能を少し運転しやすく変えたりといった具合に、車を持っている人が買い替えたくなるような情報を常に流し続けている。だから、人が欲求不満に陥るのは至極当然の話なのだ。
まあ、これらの欲を仏教では煩悩というらしい。その煩悩に支配され、大事なものを見失いことを戒めている。自分にとって何が大事なのか、何が欠かすことができないのかを見極めていくこと、これが情報が氾濫する中に生きていくためには、とても大事なことになっているのだと思う。