おさむのひとりごと2022-11
あっという間に晩秋を迎えんとする今日、いかがお過ごしですか。
今回のひとりごとは特大号でいつもにも増してながーーーい文章になります。最後までおつきあいいただけたらうれしいです。
2011年3月11日、忘れもしないあの東日本大震災。東北の甚大な被害に比すれば私たちの周辺は小さなものかもしれませんが、それでも屋根の瓦が崩れ、家屋が傾き、液状化現象で電柱が地中にめり込みました。その日から電話が鳴り続けました。コンビニの棚は空っぽ。ホームセンターの棚からブルーシートが消え、ガソリンスタンドに長蛇の列ができました。どなた様も体験されたあの日、不安に包まれたあの日、今尚思い出すだけで震える何かがあります。
以来私たちは毎日屋根に上り、崩れた屋根瓦と格闘しました。瓦業者はまったく連絡つかず。職人もいない、瓦もない。ブルーシートを掛けても翌日には風で飛ばされてしまう。そしてまた電話が鳴るという繰り返し。
地元の瓦業者ではいつ直せるかわからない。そこで勉強会で知り合った各地の仲間に声を掛けました。「助けてほしい」と。
すると、、、キセキが起きました。一番初めに乗り込んできてくれたのは奈良の瓦職人の皆さんでした。瓦を満載した10トントラックが事務所前に横付けされた時には歓喜の涙があふれました。
続いて京都の職人さんが、山梨の職人さんが、そして新潟の職人さんが駆けつけてくれました。カタロの2階でペラペラの布団に寝、毎食500円の弁当でがんばってくださいました。職人が多い時には旅館「㐂仙」さんにお世話になったのですが、「うちも協力するわ!」と特別価格で対応してくださいました。皆さんの思いが重なり合い、ほぼ通常の金額でバンバン崩れた瓦を直していきました。お盆までに200件を超える北澤工務店のお客様宅を直すことができたのは、冒頭の通り、キセキとしか言いようがありません。
やばい、、、書きながらまた涙があふれてくる。。。自分の人生史上最も仕事をやり切った時でした。
あれから11年。今年の8月4日。集中豪雨が新潟県村上市を襲いました。秀平が心配になって旅の時にお世話になった北越瓦工業の小田さんに連絡をすると、実にひどい状況だという。「おれ行って見て来るわ」と秀平。即日新潟へ。帰って来て内容を確認。ボランティア経験のない私も「恩返しをする時だ」と思い立ち、秀平と共にお盆休みの8/13.14.15で新潟に行くことにしました。
せっかくだからダメもとでSNSで一緒に行ってくれる方を募りました。すると豪ちゃんが来てくれるという。彼は大田区で大きな不動産会社を営む社長。人を見ていて思うのですが、できる男というのは決断が速い。あーじゃのこうじゃのごじゃごじゃ言わない。しかも彼はウクライナから避難してきた18歳のニキタ君を連れて来ると言うのだ。7/23家族をウクライナに残し、豪ちゃんの必死の交渉でやっと日本に避難することができたニキタ君。その彼は、こんな事を言ってくれました。「日本に恩返しがしたい」と。
縁と縁が重なり合って関わることになったお宅はシイタケ業を営む須貝さん。歴史のある古民家で2メートル近く浸水し、家財も何もかも泥だらけ。罹災して10日経つのに全くひどい状況でした。私らが駆け付けると、一言しゃべるだけで声を詰まらせ、本当につらかった体験をその姿だけで察するに余りあるものがありました。
先ずは方針を立てました。私らは建築の専門家だ。次に来る一般ボランティアの方の作業がしやすいようにするにはどうしたらいいか。秀平は広島でその経験があってテキパキと指示を出す。須貝さんの地元の仲間と共に泥だらけになってグングン作業を進める。これまで家族だけで途方に暮れていた須貝さんの目にまた涙があふれる。
休憩の時がとても印象的でした。泥だらけの惨状を前なのに、笑いと涙ばかり。笑っては泣き、泣いては笑い。。。たまたまTV局の取材があったのですが、「こんな現場初めてです…」って(笑)。
須貝家にはちょうど出産のために里帰りをしてきていた路子さんがいました。8月末の出産予定という。その部屋ももちろん水没。思い出のピアノも無残でした。よしッ!この部屋だけは使える状態にまで戻そう!安らかに出産を迎えられる部屋を作ろう!と秀平と意気投合。ホームセンターで資材をかき集め、DIYレベルの仕事ながら、一つの目標ができたことで現場の士気も高まりました。
怒涛の如く床の解体と床下の泥かきを進め、少しばかり先が見えてきました。そんな時ふとこのチームで何かできないかなあ、と考える私がいました。そうだ!あの路子さんの部屋のじゅうたんの下地合板にみんなで寄せ書きをしよう!んんん、、、ど真ん中に何か書きたいなあ。んん「愛」でもない「感謝」でもない「ありがとう」でもない、、、んんん。。。
3時の一服をしている時、ピカドンがきました。涙があふれて叫びました。そうだ!「祈」だ!!これしかない。そうだろ、ニキタ!お前の国は今戦争の真っ只中だ。家族友人の無事を、一日も早い平和を、祈る。その「祈」だ。関川村、新潟、北陸の家々の復興も祈りだ。そして何よりこのベニヤ板の上で新しい命が育まれ、この世に生まれ来る。これを祈りと言わずして何と言うのか!!!私は思うがままに泣きながら叫びました。
翌日北越瓦工業の小田さんが子供の習字セットを持ってきてくれました。でも、ぶっとくてでっかい字を書くにはどうしたらいいか、、、この筆では細すぎるなあ。んんん、、、そうだ!と軍手を3つ合わせて丸め、墨汁の中に突っ込んで、思い切って『祈』と書きました。「うぉりゃー!」とか言いながら(笑)。
そして関わった人みんなで寄せ書きをしました。ニキタはウクライナ語で祈りの言葉をじっと書き続け、家長の圭介さんは『多くの財産と想い出を失ったけれど、新たな仲間という大切な財産を頂いた』と記し、お母さんはこんな酷い目に遭ったの『感謝 私は幸せ! ありがとう』と記しました。この文字に豪ちゃん、でっかいカラダを震わせながら嗚咽。。。関川村での体験は、、、言葉に表すことのできないほどの体験となりました。
それから2週間してライン着信。『8/31 13:45無事に第一子の2,450gの元気な男の子が誕生しました・・・・』
・・・9月25日には3年ぶりとなる北澤工務店BBQ大会を開催しました。そこには須貝さんが育てた関川村のでっかいシイタケがアルミホイル焼きで皆さんに…。
人間って素晴らしい。太古より甚災害があり、戦禍があり、疫病があり、、、それでも人類は続いてきた。その根底には国境・人種を越えた人間としての根源的なつながりがあることを確信をもって感じることができました。人間万歳!!
長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。
あっという間に晩秋を迎えんとする今日、いかがお過ごしですか。
今回のひとりごとは特大号でいつもにも増してながーーーい文章になります。最後までおつきあいいただけたらうれしいです。
2011年3月11日、忘れもしないあの東日本大震災。東北の甚大な被害に比すれば私たちの周辺は小さなものかもしれませんが、それでも屋根の瓦が崩れ、家屋が傾き、液状化現象で電柱が地中にめり込みました。その日から電話が鳴り続けました。コンビニの棚は空っぽ。ホームセンターの棚からブルーシートが消え、ガソリンスタンドに長蛇の列ができました。どなた様も体験されたあの日、不安に包まれたあの日、今尚思い出すだけで震える何かがあります。
以来私たちは毎日屋根に上り、崩れた屋根瓦と格闘しました。瓦業者はまったく連絡つかず。職人もいない、瓦もない。ブルーシートを掛けても翌日には風で飛ばされてしまう。そしてまた電話が鳴るという繰り返し。
地元の瓦業者ではいつ直せるかわからない。そこで勉強会で知り合った各地の仲間に声を掛けました。「助けてほしい」と。
すると、、、キセキが起きました。一番初めに乗り込んできてくれたのは奈良の瓦職人の皆さんでした。瓦を満載した10トントラックが事務所前に横付けされた時には歓喜の涙があふれました。
続いて京都の職人さんが、山梨の職人さんが、そして新潟の職人さんが駆けつけてくれました。カタロの2階でペラペラの布団に寝、毎食500円の弁当でがんばってくださいました。職人が多い時には旅館「㐂仙」さんにお世話になったのですが、「うちも協力するわ!」と特別価格で対応してくださいました。皆さんの思いが重なり合い、ほぼ通常の金額でバンバン崩れた瓦を直していきました。お盆までに200件を超える北澤工務店のお客様宅を直すことができたのは、冒頭の通り、キセキとしか言いようがありません。
やばい、、、書きながらまた涙があふれてくる。。。自分の人生史上最も仕事をやり切った時でした。
あれから11年。今年の8月4日。集中豪雨が新潟県村上市を襲いました。秀平が心配になって旅の時にお世話になった北越瓦工業の小田さんに連絡をすると、実にひどい状況だという。「おれ行って見て来るわ」と秀平。即日新潟へ。帰って来て内容を確認。ボランティア経験のない私も「恩返しをする時だ」と思い立ち、秀平と共にお盆休みの8/13.14.15で新潟に行くことにしました。
せっかくだからダメもとでSNSで一緒に行ってくれる方を募りました。すると豪ちゃんが来てくれるという。彼は大田区で大きな不動産会社を営む社長。人を見ていて思うのですが、できる男というのは決断が速い。あーじゃのこうじゃのごじゃごじゃ言わない。しかも彼はウクライナから避難してきた18歳のニキタ君を連れて来ると言うのだ。7/23家族をウクライナに残し、豪ちゃんの必死の交渉でやっと日本に避難することができたニキタ君。その彼は、こんな事を言ってくれました。「日本に恩返しがしたい」と。
縁と縁が重なり合って関わることになったお宅はシイタケ業を営む須貝さん。歴史のある古民家で2メートル近く浸水し、家財も何もかも泥だらけ。罹災して10日経つのに全くひどい状況でした。私らが駆け付けると、一言しゃべるだけで声を詰まらせ、本当につらかった体験をその姿だけで察するに余りあるものがありました。
先ずは方針を立てました。私らは建築の専門家だ。次に来る一般ボランティアの方の作業がしやすいようにするにはどうしたらいいか。秀平は広島でその経験があってテキパキと指示を出す。須貝さんの地元の仲間と共に泥だらけになってグングン作業を進める。これまで家族だけで途方に暮れていた須貝さんの目にまた涙があふれる。
休憩の時がとても印象的でした。泥だらけの惨状を前なのに、笑いと涙ばかり。笑っては泣き、泣いては笑い。。。たまたまTV局の取材があったのですが、「こんな現場初めてです…」って(笑)。
須貝家にはちょうど出産のために里帰りをしてきていた路子さんがいました。8月末の出産予定という。その部屋ももちろん水没。思い出のピアノも無残でした。よしッ!この部屋だけは使える状態にまで戻そう!安らかに出産を迎えられる部屋を作ろう!と秀平と意気投合。ホームセンターで資材をかき集め、DIYレベルの仕事ながら、一つの目標ができたことで現場の士気も高まりました。
怒涛の如く床の解体と床下の泥かきを進め、少しばかり先が見えてきました。そんな時ふとこのチームで何かできないかなあ、と考える私がいました。そうだ!あの路子さんの部屋のじゅうたんの下地合板にみんなで寄せ書きをしよう!んんん、、、ど真ん中に何か書きたいなあ。んん「愛」でもない「感謝」でもない「ありがとう」でもない、、、んんん。。。
3時の一服をしている時、ピカドンがきました。涙があふれて叫びました。そうだ!「祈」だ!!これしかない。そうだろ、ニキタ!お前の国は今戦争の真っ只中だ。家族友人の無事を、一日も早い平和を、祈る。その「祈」だ。関川村、新潟、北陸の家々の復興も祈りだ。そして何よりこのベニヤ板の上で新しい命が育まれ、この世に生まれ来る。これを祈りと言わずして何と言うのか!!!私は思うがままに泣きながら叫びました。
翌日北越瓦工業の小田さんが子供の習字セットを持ってきてくれました。でも、ぶっとくてでっかい字を書くにはどうしたらいいか、、、この筆では細すぎるなあ。んんん、、、そうだ!と軍手を3つ合わせて丸め、墨汁の中に突っ込んで、思い切って『祈』と書きました。「うぉりゃー!」とか言いながら(笑)。
そして関わった人みんなで寄せ書きをしました。ニキタはウクライナ語で祈りの言葉をじっと書き続け、家長の圭介さんは『多くの財産と想い出を失ったけれど、新たな仲間という大切な財産を頂いた』と記し、お母さんはこんな酷い目に遭ったの『感謝 私は幸せ! ありがとう』と記しました。この文字に豪ちゃん、でっかいカラダを震わせながら嗚咽。。。関川村での体験は、、、言葉に表すことのできないほどの体験となりました。
それから2週間してライン着信。『8/31 13:45無事に第一子の2,450gの元気な男の子が誕生しました・・・・』
・・・9月25日には3年ぶりとなる北澤工務店BBQ大会を開催しました。そこには須貝さんが育てた関川村のでっかいシイタケがアルミホイル焼きで皆さんに…。
人間って素晴らしい。太古より甚災害があり、戦禍があり、疫病があり、、、それでも人類は続いてきた。その根底には国境・人種を越えた人間としての根源的なつながりがあることを確信をもって感じることができました。人間万歳!!
長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。