アインシュタイン・モーツアルト&牧野富太郎のこの世でのミッションについて
万太郎のいる長屋へ「寺子屋の親友」である広瀬雄一郎が訪ねてくる。訪米していた彼は、札幌農学校の教授に迎えられことになっていたが、その途中で東京の万太郎の所へ立ち寄ったものである。
(雄一郎の話) アメリカは、何もかもが雄大だった。ミシシッピ川の治水工事にかかわり、中でも忘れられんのは、そこに架かる巨大な橋を見たこと、緻密で幾何学模様は美しいと同時に強い。オレが学ぶ土木工学が何なのかが分かった。人間が建てる建造物で、巨大な自然の力と人の暮らしを調和させることが出来るがじゃあ。
その人間の素晴らしさと同時に、アメリカ南部を訪れた際、南北戦争のあとが残っていたが、それが彼にとっては衝撃的(恐ろしいとの表現)だったという。
(雄一郎の話の続き) 例えば、差別。南北戦争によって奴隷制度はなくなったが、一層差別がひどくなっている。黒人、我々アジア人、アイルランドから移った人々。自分は英語ができ、仕事が始まったら技師の能力で判断してもらえるが・・・。
(そばを食べながらの雄一郎の話) 万太郎は、昔から、いっぺん(いちずなさま)じゃき。草花に優劣をつけることはなかった。生まれた国、人種、どこでどう生きるか、それぞれにおもしろうて優劣もない。万太郎、この先もずっと変わりなよ。
モデルとなった牧野博士は、この時代珍しく誰彼に優劣をつけることなく、人を実に平等に扱ったという。ついこの前まで、やれ武士だの、やれ町民だのといっていた時代から、明治になってすぐに人は平等だと言っても、人の心はすぐには変わるものではない。その中で、彼に接した誰もが彼の特徴的な言動として言うのは、彼には「平等」に扱ってもらったというので、本当にそうだったのだろう。
有名なアインシュタインやモーツアルトは、この世に生まれるときにこの世の技術や文化の振興に寄与する者として、一定の使命を帯びてくるものがあるというが、牧野博士も、日本における遅れていた植物学の発展のため、ミッションを果たすべく生まれてきたのだ。彼の場合は、そのミッションは植物学の振興ということだけと思っていたが、こういったドラマを改めて見て、さらに、彼は、日本人の心の中にこういった「平等」の概念を植え付けることも、彼の使命であったのではないかと思うのである。彼の平等概念は、おぼっちゃま気質から来たものと思っていたが、学問の世界において小学校も出ていない彼が差別されるのは想像に難くないところ、それをも跳ね返す力を有していたのは、彼自身の本質的な平等概念から来たものであろう。
人は神に似せて作られたという。神は全知全能にして、しかも「善」である(※注※)。それゆえに人間は、本来は、人種、民族、性別、宗教、社会階級などの違いに関係なく、平等であるのが本来の姿なのである。この世に生まれたときに、その本来の姿を忘れて、この世の「文化」に染まる中で「平等」の概念を忘れてしまっている。しかし、人は、忘れてしまっているとはいえ、この世に何回も何回も生まれて、その本来の姿「平等」に近づいていくのだろうと思う。すぐに近づけないのは、基本的には神自身は「人の人生」を罰することはしないからだという。人自身が気が付かない限り、すぐには、この世は変化しないのだ。それゆえ、それでも、少しづつ、いい方向に進んでいることを期待しなければならないのだ。
本質的に考えたいのは、肌の色に重きをおく「人種」というのは、肉体の違いであって、人の誕生は、その肉体の中に魂が入ってくることによる。あの世では魂そのものであり、肉体そのものは脱ぎ捨てなくてはならず、肌の色うんぬんというのは、この世の考え方であることが分かるのである。
(※注※)「神との対話」ではなかなかその解釈が難しいが、神そのものも「悪」をも含んでいるものだいうような矛盾した表現になっているところ、それを含めて最終的には「善」ということなのだと思う。