元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

ロコソラーレのチームワーク<楽しい雰囲気のコミュニケーション>

2022-02-28 09:39:30 | 職場・組織等
  自分の強み・弱みを補い合うチームワークこそ最高

 北京の冬季オリンピックにおいて、女子カーリングのココ・ソラーレが、前回の銅メダルに続き、今回銀メダルを獲得しました。カーリングは、氷上のチェスというぐらい知的なゲームであるという。それも個人戦ではなく、1チーム4人で戦うのであるからチームワークが必要なのは言うまでもない。リード・セカンド・サード・スキップと呼ばれる4人の投げ手の連携によって、最後の投げ手による円内(ハウス)のストーンの配置状況によって点数を獲得するスポーツである。それゆえ、リードから最後のスキップまでの投げ手が、最後の場面をどうするか頭に描いていなければならず、相手の出方によって状況が変化し、当方の前者の投げようによっては次がフォローしなければならない場面もあるし、投げ手だけでなくスウィーピングの技術も大きく影響するようだ。要するに、リード・セカンド・サード・スキップまでの流れいかんによって勝敗が決まるので、最後まで手を抜くこともできない一貫したチームワークの勝負でもある。

 ロコ・ソラーレは、常に大きい声をかけコミュニケーションを図り、常に楽しい雰囲気を醸し出していた。誰かがミスをしたときでも、次の投げ手がフォローしながらも、責めるようなこともなく、むしろ励まし合うような様子が見られた。

 斎藤一人はいう、「お互いが自分の強みを出し合い、相手の弱いところを補ってあげれば、みんな弱みがなくなってしまう。互いの強みを出し合った時、その力は足し算ではなく、掛け算になる。」
 「人の欠点を責めはじめると、自分の弱いところを隠そうとする。・・自分があの人の役に立てる部分はここなんだという捉え方をしていけばいい」
 
 みたいなスポーツが嫌いになった者としては、ロコ・ソラーレの雰囲気はこういうスポーツもあるんだということで、スポーツの考え方を変えさせられた。私たちの世代に育ったスポーツは、良きにつけ悪きにつけても根性論があったように思う。しかし、夏のスケートボードの「真夏の大冒険」にしてもしかり、冬の女子スノーボード・ビッグエアの4位に入った岩淵選手のパフォーマンスにしてもしかりであるが、国うんぬんではなく競技者が互いの素晴らしい技をたたえあうようであった。ここには競技そのものを楽しんでいるようでもあり、何か新しいスポーツの感覚があるように思う。

 根性ではなく、楽しいスポーツ。チームプレーにあっては、楽しい感じの雰囲気でスポーツが育っていることは、非常にうれしい。本来、スポーツの原点ってそんなものであるのではないかと思う。外からロコ・ソラーレの彼女たちのプレーを見ていて、朗らかでほほえましく、そして(スポーツマンに対しては失礼かもしれないが)癒されるような気になったのは私だけだろうか。

 しかし、好きだからやるというロコ・ソラーレの彼女たちの言葉のように、好きだから(=楽しいと同義か?)からこそ努力するのであり、一時期どん底にあったともいうが、そこには人一倍の努力の結果であること忘れてはならない。

 職場のチームワークにおいても、単に競い合って業務を推進してくだけではなく、それも必要なときはあるのは認めるが、楽しくコミュニケーションを取りながら、そして互いに補い合うような関係、ここにヒントがあるように思う。

<注> 長者番付日本一で有名な実業家 「斎藤一人のしあわせセラピー」kkロングセラーズ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恥をかくことは人生にとって必要<恥により覚えたことは忘れない>

2022-02-19 15:17:36 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 誰しもかく恥だから悩まずその原因を突き止め今後に生かすだけ

  をかいたときは、どうしていますか。そのときは、その恥かしさに、よく言う「穴があったら入りたい」というのが現実でしょう。かくいう私も幾度となくこの現実に向き合わざるを得ませんでした。しかし、これは生きてく上で、誰しもが通る道でしょう。なんぼ予習をしていても、また一生懸命努力をしても、期限が迫って余裕がなかったり、思わぬ・予期しないことなどはあり、これに対応しようがない場合はよくあり得ることです。

 漢字の勉強をしなかった私は、間違った漢字をみんなの前で書いてしまい笑われてしまいました。プレゼンテーションをしているときには、相手が何を考えているのかを推測できず、相手にとっては簡単な質問に答えられなかったため、そんなことも答えられないのというような目で見られたのを思えています。これらは、どんなに仕事のステージが上がっても、同じように恥をかく瞬間はあるように思います。

 このときにやってはならないのは、これをくよくよ悩むことです。どこがいけなかったのか、その原因を突き止め、単に今後注意すればいいだけのことです。人生の「恥」をかく場面には、いくら努力しても、期限がありそれまでに十分に検討できないことだってあります。人生の大きな長期的な中で解決していくことしかありえないこともあるということです。

 さて、長者番付日本一になった実務家の斎藤一人さんは、「恥をかきながら覚えたことは、一生忘れません」「人生には、必要のないことは一つとして起こらない。・・・今回の恥はあなたにとって必要だったと思えばいいだけ。」<※注※>といいます。

 人生において、恥をかくことはあなたの成長にとって、必要なことだということです。社会人一年生のときは、学生時代までに経験したことは、まだまだ人生の駆け出しです。いくつも恥をかくことは必要です。リタイアー寸前の皆様にとっても、まだまだ恥をかくこと必要はあるように思えます。社会からリタイアーした自分が言うから間違いありません。

 ただ、人生後期になると恥をかくことを恐れ、できるだけその場面に近づかないようにするように思えます。人生後期になった私が言うから間違いないように思えます。これではいけないのですが・・・。本当は、自分が「わかっていない」ことに気がついているはずなんですが、もうこの頃になると、恥をかくことを極端に恐れて「行動しないことをよし」としてしまいます。ダメですね。

<※注※> 斎藤一人 しあわせセラピー KKロングセラーズ
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生で選択に迫られたらどちらを選ぶ<楽しい方を選ぶのはなぜ>

2022-02-12 13:10:47 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 成功するには、どちらを選んでも同じだけの苦労をして器量を磨かなければならない!!

 人生の選択の場面で、あなたは右・左どちらを選びますか。たぶん、学校を卒業して仕事に着く場合によく出会う場面だと思います。私の場合は、この初めの職業選択には一つしか合格しなかったのでその道しかありませんでした。しかし、60歳定年の時、どうするか正直迷いました。資格試験に受かりそちらの道を選ぶのか、あるいは職場の方で再就職先を見つけてくれる可能性が残されていたからです。

 実業家斎藤一人さんは、「どっちの道が正しいか」で決めることではなく、「どちらがたのしいか」で決めるんだといいます。この言葉を信じて、楽しいと思えた資格を生かす道を選びました。ただ、単に「楽しい」と感じた道を選んだのです。楽しいならそれでいいと思ったからです。

 しかし、この時は、この言葉の意味をあまり考えずに決めてしまいました。人生は、先が見通せるものではなく、結局のところ、えいやっつで決めるものであると考えたからですが・・・。

 後から分かったことですが、別の本(※注※)で、斎藤さんは、その意味を明確に示しています。『どっちの道を選んでも、うまくいくものはうまくいく。うまくいかないものはいかない。成功するには、どちらを選んでも同じだけの苦労をして、器量を磨いていくもんなんです。だったら、楽しい道を選んだ方がいいでしょ。』というのです。納得!納得!

 そこで、私の場合は、どうだったのか。60歳から70歳まで 10年間、あまり成功したとはいえないけれど、少なくとも楽しく過ごさしていただきました。せっかく取った資格を活かしながら、第2の人生を過ごすことができました。感謝!感謝! しかし、よく考えてみると、斎藤氏の言うように、確かに「楽しい方」と思える方を選択したのだけれども、それまでに考えに考えを重ねて熟考の上で決めたように思う。確かに、最後は、自分が責任を満たないといけないのだから、だれでもない自分が最後に決めることであるように思う。しかし、ここでの楽しい方の選択は、一つの選択の方法であるが、いろいろ考えた末での最後の「一押し」になったのも事実である。

 ただ「楽しい」というのは、単に「楽だ」という意味ではないというのは感じました。

(※注※)最新版 ツキを呼ぶセラピー KKロングセラーズ 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢者になって勉強する意味<知識欲・死ぬ時期は不明・頭は使わないと錆びる>

2022-02-03 10:32:11 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 この世を十分に生き切ってこそ来世がある<勉強もその一部であり十分な活動を続ける意味あり>

 大阪万博までに英語をマスターしようとNHKのラジオ講座を聴きはじめた筆者。ところが、なかなか遅々として上達しないありさま。大体、この年になって、勉強することに疑問を感じる始末。この年、後期高齢者に近づいた年になって、勉強する意味を問う。死ぬ間際になって、勉強することに意味はあるのか。

 最近亡くなった石原慎太郎氏は、死ぬ寸前までパソコンに向かって文字を打ち続けていたと石原良純氏が語っていた。文学者としての姿勢は最後までなくならなかったという。知の巨人といわれた立花隆氏も、死ぬまでその知識欲はあり続けたようだ。こういった人々は、確かに「文才欲」というか「知識欲」というものを、生涯死ぬまで持っているもので、それに基づく原動力にははかり知れないものがあるとは思う。

 我々一般人はどうか。知識欲的なものは我々にもあると思う。天才的な人々に比べ、それが少ないか多いかだけであると思うのである。ただ、これは、我々一般人の場合には、いわゆる「惰性」に基づいて行っていると取られることは多いと思う。

 また、今後何歳まで生きられるのかということもある。何かをしていてもその結果が見えるまでは一定に期間を要する。その間に亡くなっては何の意味はないとも思う。しかし、これはいつ死ぬかはだれも分からない。神のみぞ知るである。勉強の途中で死ぬかどうかは、分からないのである。これは、後期高齢者に限らず、若者にもいえることである。若者にはその確率が低いだけである。そうであれば、後期高齢者であろうとも、頑張るしかないと思う。

 そして、高齢者が勉強する一番の理由ともなるのであるが、「頭は使わないと錆びる」ということ。従来は人間の脳細胞は一日10万個死滅するといわれていました。しかし、最近の研究結果によると、脳細胞は死滅するばかりではなく、増加するところもあり、特に海馬に関しては、年齢にかかわらず増えつづけているといわれています。海馬というのは、最初に短期の記憶をしている器官で、ここで長期に記憶しなければならないものを「えり分ける」働くをするところであるとされます。そうであれば、この重要な海馬をうまく働かすために、年をとっても、頭を働かさなければならないのだと分かります。このため、巷には、高齢者用の頭の働きをよくする様々な本が出ていることがその証左となるといえるでしょう。

 以上、後期高齢者になってからも、勉強する意味を考えてきました。もともと知識欲をもっていること、何歳になってもその人がいつ死ぬかは神のみぞ知るということ、頭は使わなければ錆びることを考えてきました。

 亡くなってからも魂と言うのは、次の世にも生き残るということ考えた場合はどうでしょう。(そんなの全く信じないという方は、これから先は、読まなくてもかまいません。しかし、「仮に」の話に付き合えるのであれば、付き合っていただきませんか。)ある高齢の坊さんが、一生懸命勉強しているのを見て、それを見ていた人が「どうせ死んでいくのに、意味はありません。」といったそうです。「いや、次の世で引き続いて勉強すればもっと上手になれる。」といったという。

 モーツアルトは生まれてすぐに作曲をしたといわれている。考えるに体に結び付いた記憶というのは、次の世にも持っていけるのではないかと思う。しかし、我々一般人には、魂が生き残ると考えても、前世の記憶は一般的にはないというのが普通です。※注1 それは前世の記憶があると現世で生きていくのに、なまじっか障害になるからということのようです。生まれてくるときに、前世では真面目に輪をかけた程、誠実に生きたので、次はハチャメチャに生きたいとか希望して現世に来るというのもありです。もちろん、それとは違って、次の世でもまったく同じ性格で誠実に生きることだってあり得ます。

 その人の「前世・現世・来世」を考えた時には、いまの世を最後まで生き切ってから、今の世を完全に生き切った「土台」の上に、次の世をどうするかを考えなければならないようです。とすれば、これが途中で命が尽きるかもしれないといって、勉強を投げ出すのではなく、最後まで生き切って、来世をどうするかを考えるべきであって、そうでないと神様に大目玉を食う可能性があるということです。※注2 この世を最後まで生き切るために、勉強を投げ出してはならないのです。
 
 ※注1 ただし、現世を離れると来世に生まれるまで(これを中間世というようです。)は、今まで生きたすべての記憶を取り戻すといわれています。
 ※注2 これは、高齢のみをもって勉強をあきらめる場合であって、例えば経済的とか時間的余裕がない場合等の他の理由が主であるを指すのではありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする