元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

配置転換(転勤)命令の権利濫用法理の「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」とは?!

2017-01-28 12:13:26 | 社会保険労務士
 「病気の家族の介護・看護を必要」から「子の養育が困難等」への移行か!!??(裁判例による変遷)

 転勤について、<*1>使用者の転勤命令権として認められるためには、契約のよる制約と権利濫用による制約をクリアーすれば、有効なものとされる。一番目契約の制限であるが、転勤命令権が労働協約や従業規則の定め等によって労働契約上根拠づけられていることが必要である。2番目権利濫用法理であるが、転勤については、1、命令の業務上の必要性がない 2、不当な動機・目的 3、労働者に通常甘受すべき程度を著しく超える不利益 がある場合が権利濫用とされ(東和ペイント事件)、2の「不当な動機・目的」がある場合には、言うまでもないが、3の「業務上の必要性」については、転勤自体通常どこでも行われていることを反映してか、労働者の適性配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化などの企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、その必要性があるとすべきであるとされている。言い換えると「余人をもっっては容易に替え難し」といった高度の必要性ではなく、一般にいわれている適性配置等や例えば「風通しを良くする」など通常の必要性があればOKであるとされている。

 さて、問題は3の「労働者に通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」であるが、従来は、単身赴任というような単なる家庭の事情だけでは著しい不利益とはならないとされ、病気の家族を介護・看護できなくなるといった事情が加わらなければ認めないといったことがある。例えば、東亜ペイント事件では、神戸の営業所に勤務していた労働者に名古屋営業所の転勤を命じたところこれを拒否したので、懲戒解雇したものであるが、労働者の転勤の拒否は、72歳の母親と保育士の妻と2歳の子供を抱えていたので、名古屋への転勤は単身赴任を余儀なくされるとの理由からであった。これについて、最高裁判決は、通常甘受すべき程度のものと判断した。(最判昭61.7.14) 一方、北海道コカコーラボトリング事件では、帯広から札幌工場への転勤で、躁うつ病疑い及び精神発達障害の長女・次女や体調不良の両親がおり、一家で札幌に転勤は困難であり、この労働者が単身赴任すれば妻に過重な負担がかかり、この労働者以外にも異動対象候補者がいたことから、当転勤命令は通常甘受すべき程度を超える不利益を負わせるものと判断した。(札幌地決平成9.7.23)

 また、ケンウッド事件でも、共働きで、夫と3歳の子の送迎を分担していた妻に対し、目黒区から八王子事務所への異動命令が出たが、従わなかったので、最終的にこの労働者を懲戒解雇したものである。その拒絶理由として、今まで妻の勤務先までの通勤時間は約50分、夫の通勤時間は約40分であったところ、妻の異動先への通勤時間は約1時間45分となり、子の保育園への送迎に支障が生じるというものであった。この判決では、この「通勤時間」の労働者の負う不利益は必ずしも小さくはないとしたが「通常甘受すべき程度を著しく超える」とまではいえないとした。(最3小判平成12年1月28日)

 ところが育児介護休業法が平成13年に改正され、「その就業場所の変更によりその子の養育又は家族の介護を行うことが困難となるときは、その状況に配慮しなければならない」(育介法26条)といった条文が追加された。条文に注意してほしいのは、「努めなければならない」という単なる努力義務ではなく、「配慮しなければならない」とされている点である。この条文追加後の対応として明治図書出版事件では、この「配慮」について、配置変更をしないといった配置の「結果」そのものや労働者の介護の負担を軽減するための積極的な措置を講ずることを事業者に求めるものではないとしながらも、育児の負担がどの程度のものなのか、この回避策はどのようなものがあるかを、真摯に対応することを求めているものであり、すでに出た配置命令を労働者に押し付けるような態度を一貫して取るような場合は、その配置命令が権利の濫用として無効となるとした。(東京地判平成14.12.27)すなわち、子の養育について、配慮しないからといって直ちに違法となるものではないが、配置命令の権利濫用の判断に影響を与えるものと解されている。
 また、ネフレ日本事件は、介護の場合であるが、先ほどの育児介護休業法26条を援用して、介護を必要とする家族を抱える労働者への姫路工場から霞が浦工場への転勤について、「通常甘受すべき程度を超える不利益」を与えるもので、無効であるとしたものである。(大阪高判平成18.4.14)、
 また日本レストランシステム事件では、大阪から東京への転勤命令で、勤務地限定の合意(関西地区)が成立していたと判断し、仮にそうではないとしても、配置転換につき十分な説明がなされていない(手続き上の不備)として、配置転換命令の濫用であるとしている。(大阪高判平成17.1.25)これは、労働契約法4条の規定の「労働契約の内容につき労働者の理解を深める努力を求めた」ものにも関連するものといえる。
 
 さらに、「労働契約は、労働者・使用者双方が、仕事と生活の調和にも配慮しつつ労働契約を締結・変更すべきとする」労働契約法3条3項も、その文言の抽象性から法的拘束力は持ちえないと解すべきであるが、育児介護の責任に限定しないすべての労働者のワークライフバランスへの配慮を規定している。「本件配置命令は、住宅の移転を伴う配置転換を命じるものであるところ、このような配置転換命令は、使用者が配慮すべき仕事と家庭の調和に対する影響が一般的大きなものであるから、その存否の認定判断は慎重にされるべきものである」(仲田コーティング事件・京都地判平成23年9月5日)と述べています。

 ここで、考えるべきは「通常甘受すべき程度」とはどれほどかであるが、企業においては、長期労働契約において解雇が制限されているという事情の下で、転勤をはじめとする配置転換が容易に求められてきたという経緯があることに注意しなければならない。企業は適性配置等の比較的容易な必要性があれば辞令一つで動かせたのは、解雇が困難であるということと裏表の関係にあったということである。そして、この背景には、夫が働き妻が家庭を守る(その反対もある)という昔ながらの家庭を標準としたものであった「通常の家族」というものが、労働者の労働の再生機能として働いていたからである。しかしながら、今は、夫婦共働きを含む家族の価値観の多様化のなかで、こういった家族像は変わってきているのではないだろうか。企業において、解雇制限がある中で配置転換についても従来よりも強い制限が課せられるとすれば、厳しいものがある。企業に責任を負わせるだけではなく、政府が進めている多様な働き方や長期労働時間の制限の動きは、この配置転換の考え方と併せて、この労働者の「労働の回復機能」を有する「家庭」という役割像の見直しから考える必要があるのではなかろうか。であるとするならば、配置転換についても、家庭の役割の位置づけを再度確認した上で、国の法律面や財政・税制面での支援援助が必要と思われる。そういった中で、現実の社会のありかたや社会意識の変化に伴って、司法の「通常甘受すべき程度」の考え方も変わっていくものと思われる。

 なお、水町著労働法では、コラムの記事で、単身赴任は通常甘受すべきものであるとするこれまでの日本の法状況は、欧米先進国に比べてノーマルでないとする。例えば、フランスでは、労働の場所は労働者個人の同意なく変更できない労働契約の要素であるとしている。
 
 参考 労働法第6版 水町勇一郎著 有斐閣 
    最新重要判例200労働法第4版 大内伸哉著  
    労働法実務講義第3版 大内伸哉著 日本法令 弘文堂 
    労働法 林弘子著 法律文化社
    労働法解体新書 角田邦茂・山田省三著 法律文化社
  

 <*1>同一企業内で職種や勤務場所を変更することを「配置転換」といい、そのうち、転居を伴うものを転勤と呼んでいる。すなわち、転勤は大きくは配置転換の中の一つであり、ひっくるめて配置転換権としてもいいところであるが、転勤は家庭の事情等から不都合を生じる場合が多いので、ここでは転勤命令権としている。
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今社労士試験に頑張っている方に伝えたいのは、法律の内容・定義等を理解して初めて正確な書類作成が可能

2017-01-22 17:27:17 | 社会保険労務士
 正確に内容を理解することは、試験の合格のみならず社会・労働保険等の書類作成に必ず役立のでは!!社労士会も他資格者等の参入で切磋琢磨に

宮崎県社労士会の「新入会員・開業準備研修」に参加してきました。というのは、厳密に言えばうそになりますが、実は、新入会員等研修が今年度は台風のため2日にわたって行われるところが、1日分抜けてしまい、「フォロー研修」の中でこの内容の研修が行われたというわけです。しかしながら、私の場合は、開業社労士からスタートはしたのですが、県社労士会事務局にすぐに入りまして、ちょっとの間そこに在籍してから、そのままの流れで現在まで来ております。今では、年金をもらう社労士(悪く言えば、いわゆる「年金社労士」と呼ばれているようですが)というわけで、開業しての社会保険事務・労働保険事務等はほとんどやっていませんでしたので、この機会にというわけで、この部分の勉強ということで、今回参加させてもらいました。

 社会保険事務・労働保険事務については、ハローワークや年金事務所等に提出する書類の実際の作成の方法ですが、例えば、雇用保険の離職届をとっても、「賃金日額」を正確に理解して、イレギュラーなデーターを含む部分をどう記入するのか、またどの範囲までを記入すればいいのかという多様な例に初めて対応できるというか、なんでそういう書き方になっているのかが分かるというようなことに気付かされました。今社会保険労務士を目指して、試験勉強にがんばっている方に申し上げたいのは、今のうちに、ちゃんと正確な法律の内容・定義等を理解しておけば、将来、必ず書類作成について役に立つということです。上から目線になりましたが、私は法律等の内容を忘れてしまっている部分が多く、もう一度勉強しなければと思う場面がしばしばでしたが・・・。会社にいて総務で社会保険・労働保険に携わっている方は、この点「鬼に金棒」だと思いましたが、一方で「鶏と卵」の例のごとく、その時点で必要に迫られて、勉強すればいいのかもしれませんが・・・。

 さらに、「いそ弁」ならぬ「いそ社労士」をされていた方は別として、、実際の実務の場面になると、書類の書き方についてやはり悩み・苦しんでおられ、本を見たり関係機関に問い合わせるなどして解決されているのだなあというのが実感でした。

 もう一点は、特定社労士の関係で個別紛争解決のあっせん事例等についての説明があったのですが、社労士として活躍しているだけでなく、弁護士としても活動をしている方が講師として説明されました。最近では、県の社労士会も、こういった弁護士さんや司法書士、税理士や精神保健福祉士等の他資格者、また年金事務所で長年勤めたベテランの方や労働界の重鎮の参入があり、多種多様で多才な方々がおり、切磋琢磨にはこと欠かないようです。
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休憩時間は労働8時間超にあって、1時間かっきりではなく、1時間超与えても違法ではない!!

2017-01-14 18:18:33 | 社会保険労務士
 客の来ない手待時間について、長めの休憩時間となっても思い切って休憩時間とする余地もあるのではないか

 休憩は、労働時間が6時間を超える場合においては少なくとも45分、8時間を超える場合においては少なくとも1時間の休憩時間を与えなければならないとされている。そして、(1)途中付与の原則(労働時間の途中に与えるべし)(2)一斉付与の原則(事業場の労働者に一斉に与えるべし)(3)自由利用の原則(休憩時間は自由に利用させるべし)が「休憩付与の3原則」として、同じ労働基準法34条の中で規定されている。

 それゆえ、労働時間が6時間超の場合は最低で45分、8時間超の場合が最低で1時間の休憩を与えなければならないのであるが、45分あるいは1時間を超える休憩時間を与えることについては、違法でもなんでもない。
 よく就業規則には、「休憩時間は〇時から1時間とする」というような規定があるので、1時間を超える休憩を与えることはあまり考えてはないようであるがそうでもない。

 ところで、休憩時間は労働者が権利として労働から離れることを保障されている時間をいうのであって、使用者が労働者を管理している限り、単に作業に従事しない手待時間は、労働時間の中に入るのであって、休憩時間ではないとされているところである。労働時間と休憩時間の区別は、あからさまに賃金の点からいうと、労働時間は賃金の支払いの対象となる時間であるが、休憩時間は賃金の支払いの対象とはならない。

 そこで、昼と夕方の混雑する飲食店とかは、その間の客の来ない時間は、例えば2時から4時までの2時間の間は、手待時間として労働時間として計算するのではなく、思い切って休憩時間としてもいいはずである。休憩1時間をだいぶ超えることになるが、実際、この2時間を休憩時間として与えているところも多い。この場合は、就業規則には「休憩時間は午後2時から午後4時までとする。」と記載することになる。

 また、小売業においては、客が来ない限りは、手待時間であり、この客があまり来ない時間帯、例えばこれも2時から4時までを休憩時間とするのもいい。小売業においては、(2)の一斉休憩の原則の例外となっており<*注>、労働者ごと別々に休憩時間を与えることが可能であるので、その客があまり来ない2時から4時までの時間帯の店番を少人数で行い、その少人数の者については、普通に正午から1時間の休憩を取らせればいい。つまり、2班にわかれ、正午からの1時間の休憩時間と2時からの2時間の休憩時間に分かれるように設定するのである。正午からの休憩と2時からの休憩は、不公平になるのであったら、翌週は交代するとかを考えればよい。これは例えばの話であり、業態・店によって、様々な状況が考えられるので、ここは時間帯はそれに合わせて、対応したらいい。

 要は、休憩時間を1時間しか与えられないのではなく、それより長めの休憩時間も検討の余地もあるということである。そのことにより、労働者にもよるが、中食時間+午後のジョギングの時間ORジムに通う時間とかに活用できる。使用者側にしたら、労働時間という手待時間ではなく、確実な休憩時間であって賃金の対象とはならない。労働者・使用者どちらにとっても、メリットはある。ただし、労働者の中には、長めの(=だらだらの)休憩時間よりも早く帰りたいという者もいると思われ、そこは労使双方の話し合いということになろう。

 ただ、この長めの休憩時間であるが、休憩時間は拘束時間とはいえないのであるが、いかんせん休憩を含む全体の労働時間は長くなるので、あまりにも休憩時間が長くなると、民法の公序良俗の問題となるのではとなる。これについては、石嵜信憲弁護士は、一律にいうことは出来ないが、3時間程度であれば公序良俗には違反しないのではないかとしている。<就業規則の法律実務(第4版)P364、石嵜信憲著 中央経済社>
 
 <*注>一斉付与の原則は、接客業や商業などのおいては、原則の例外的な業種として認められているところであり、さらにはこれが認められていないものであっても、労使協定によって、労働者それぞれにバラバラ与えてもよいのであって、この一斉付与の原則の例外は法的には多い。
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休憩時間は何時からいつまでという「休憩時間の位置」は、就業規則に必ずしも特定しなければならないものではない。

2017-01-07 17:19:50 | 社会保険労務士
 就業規則において、「正午からの2時間の間に1時間の休憩時間を置く」というような幅のある規定も可能!!

 労働時間は、原則、一日8時間、一週間に40時間を超えてはならないとされているが(労働基準法32条)<*注1>、就業規則においての記載の方法としては、「始業及び就業の時刻」を記載することになっており(労働基準法89条)、これから労働しない「休憩時間」を除いた残りの時間が労働時間とされている。すなわち、就業規則上では、一日及び一週間の労働時間の制限は、始業時刻と終業時刻の指定によって決まってくるのであって、労働する時間の位置も自ずと決まっているというわけである。

 これに対して、休憩時間については、労働時間が6時間を超える場合においては少なくとも45分、8時間を超える場合にあっては少なくとも1時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならないとされているが(労働基準法34条)、一方、就業規則の記載については、「休憩時間」としか述べていないのであって(労働基準法89条)、どの時間帯に休憩するかという「休憩時間の位置」については、法律上は特段、就業規則に規定しなければならないものではない。ただし、今述べたように、休憩時間は労働時間の途中に与えなければならないところという規定はあるので、これを就業規則においては満足をしなければならないのは言うまでもない。

 一般的には、休憩時間は、昼休み時間に置くことが多く「休憩時間は、正午から午後1時までの1時間とする」というような就業規則が普通である。しかしながら、前の議論からいえば、就業規則においては、「一時間の休憩時間を労働時間の途中におく」とだけ記載すればよく、休憩時間の位置は規定しなくても、労働法規上の就業規則の「休憩時間」の記載は事足りることにはなる。

 しかし、それでは、労働者はいつ休んでいいのか、極端にいえば、今日は正午から、明日は午後3時からの休憩となると、労働者の体の調子もくずれることになるので、いつから○時間の休憩をするという就業規則を置くのが普通であろう。

 ここで、例えば、サービス業において、今日は客が多く、就業規則に決められた昼休みの休憩が取れなかったというようなケースもある。就業規則の休憩時間に働いているのだから、その時間は労働時間であり、少なくともその時間の賃金(一日8時間を超えることになれば割増賃金)を支払わなければならないが、それでも休憩時間を与えなかったという法的な義務違反は、残ってくるのである。

 そこで、石嵜信憲氏は、「就業規則の法律実務」(第4版P362・中央経済社)において、次のような就業規則を紹介している。
 
 第39条(休憩)
 1 休憩時間は、午前12時から午後2時の間の1時間とする。
 2 会社は、業務上の必要性がある場合、前項に定める休憩時間の位置を変更することがある。

 このように、1項では、休憩時間の位置について、全く特定しないのではなく、ある程度の幅をもたせておき、労働者の予見が可能な範囲内で決めていくというものである。これなら、昼間の客が多い場合にも、どうにか対応できるのではないか。さらに、不測の事態に備えて、2項で休憩時間の位置の変更権が可能な規定をおいている。

 <*注1>もちろん、最近問題になっているところであるが、36協定において、時間外労働をさせることはできる。
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組織の限界!!電通事件、安倍総理の真珠湾での不戦の誓い、とある悪質商法から考える。

2017-01-02 05:46:04 | 社会保険労務士
 だからこそ、組織の限界という罠にはまらずに、その組織から離れもっと大きな視点から!!組織に属する限りは難しいのだが・・・

 組織の属している個々人は、組織の忠誠を誓い組織の論理に忠実なのが組織の成果を上げることになる。逆にそのことが、「組織の限界」ともなる。端的に云うと「井の中の蛙」になる。その時代その時代の限界やその地域の限界すなわちグローバルな観点等からみるとどうなのかといった面から、どうしても限界が見えてくるのである。

 今問題になっている電通事件の長時間労働にしてもそうであろう。昔の「エコノミックアニマル」そのものがまだ生きていた会社を感じるのである。今の時代から云うと<*注1>そこから脱皮して、労働生産性から捉えなおさなければいけないということであろう。労働生産性このことは、欧米の経済の会社との比較から、最近よく言われ続けてきたことでもある。もっと世界的な視点からの捉え方をしていかないといけないということでもある。日本の従来の考え方にとどまっている限り、その会社の従来の考え方が変わらず、鬼鉄則が生き続け、そのまま放置されそして自殺者を出したのである。しかし、何らかの外からに力がない限り、組織の中にとどまっている限りは、組織のその文化を壊すことはなかなか困難であろう。今回は、組織は中から生まれ変わることなく、労働基準監督という法律の力を借りて、組織に外からの大ナタをふるったことになるのであるが・・・。そうではなく、組織は、組織自体の中に、外の環境が変わった場合に、組織を生まれ変わる原動力を自ら持っているのが、組織を持続することになり、そのことが会社を永遠に続けさせる力になるというのが正常な組織のありかたと思われる。

 安倍総理が真珠湾を訪問し、不戦の誓いを述べアメリカとの和解の力を強調した。この真珠湾攻撃の先頭に立ったのが、「山本五十六」である。彼のことば、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」<*注2>などは、社員教育でよく引用され、組織や人間関係(論)に精通した人物として知られる。けっして好戦的なではなかったといわれる、彼ほどの人間にしても、組織の中で育まれ組織に忠誠を誓う者であるからこそ、組織の文化、組織の論理という「組織の限界」は分からなかったということであろう。今、あの大きな経済力をもったアメリカに戦いを挑むことは無謀に近かったといわれるが、太平洋戦争の火ぶたを切ったのが彼だったのである。もっと大きな目を持ち、もっとグローバルな観点から見ていたらというのは、今の時点でいえることであろう。その点どう捉え、どう考えたかは、彼自身しか分からないが、これも日本海軍という組織の限界だったというしかない。ただ言えるのは、2回の大戦を経験して、どんな状況であろうと「戦争」というのは、それは悲惨な結果を招くだけ、それで勝敗を決してはいけないということであろう。

 筆者の人生を振り返り、学生時代に、その「変な」組織に入りはしなかったが話を何度か聞きに行ったことがある。今思えば、その組織は、私が消費生活センターに勤めていた頃、霊感商法なるものを生み出し、消費者をだまして金を巻き上げていたとされる団体と多分思われるのだが、そのころは、まだ、社会の敵の様相はなかったようも思える。宗教的な様相を帯びていたもの事実で、むしろそのような宗教的な側面からその組織に入っていたものが多かったようである。しかし、その組織に属し、その組織の価値観に縛られその組織の考え方しか行動できなくなり、外の世界が見えなくなる。そして、組織の個人が霊感商法なる反社会的行動に出ることにもなる。決して、個々人はもともと犯罪者ではなく悪人ではない。学生時代のその組織の人間は、むしろ純粋で社会の改善方向の変革を望んでいた人々であったように思える。彼らはその組織という閉ざされた空間の中でしか活きていなくて外の世界の価値観を受け入れなくなってしまっているのであろう。そうである限りは、純粋な彼らには、社会から見てどうなのかという発想は全くないのであろう。この組織の価値観にとらわれている限り、どこが反社会的行動なのかどうかも彼らには分からないと見えるのだが、彼らには「組織の限界」をいう私のこの論理も分からないと思われる。

 、私は、職場という40年近く所属した組織から離れ、まったくその組織から無関係である。その組織に属していた間は、いい意味であれ悪い意味であれ、組織に忠誠を誓い組織人として行動してきた。ときには、やはり外の世界の人からは社会批判されるようなことがあったかもしれない。しかし、こういった組織があって初めて、大きな力を生み出すものであるし、中小の企業を含めて会社組織が日本経済を引っ張ってきたことは疑いのない事実である。

 しかし、「組織の文化」そのものが時代の流れや世界的な視点等から取り残され、逆に「組織」の足を引っ張ることになるのである。ここで「組織の限界」があるという、大きな視点から物事を見ていく必要があるのだが・・・なかなか意識しても難しいのではなかろうか。

 <*注1> サービス残業という言葉が示すように、違法な長時間労働は、少なからず社会的に容認されていたという事実があるようにも感じるのは私だけであろうか。しかし、今回の取り締まりは、優良企業と思われた大会社において、不幸にも過労自殺という事実により、働き方改革も絡みそのような長時間労働を良しとしない政府の強い意志が現れているように思える。
 <*注2> 他にも 「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
           「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」など、名言あり 
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