リタイアした今ではこの「三屋清左衛門残日録」は身につまされる=「運と云うのも分かる気」
時代劇「三屋清左衛門残日録」シリーズ(主演北大路欣也)*1は、昔、仕事の現役時代に見ており、その時はいわゆる「チャンバラ映画」として見ていたので、もう一つ生ぬるく感じられていた。しかし、リタイアした今になってみると、原作者が意図的であろうが、今の「会社組織」に例えられるところがあって、非常に興味深い。東北の小藩で前藩主の用人を務めた三屋は、今は隠居の身である。現役時代は、難しい藩の経営のかじをうまく取っていたことから、現藩主からも覚えがめでたく藩からも頼りにされ、それゆえに三屋を疎ましく思う朝田家老を中心とした藩を2分する派閥争いに知らず知らずのうちに巻き込まれていく。(2013年年末に再放送された。)
三屋は思う。『わしは幸せ者。やさしい嫁がいて、孫も抱かせてくれた。当たり前のように、長年「お勤め」させていただいたお陰。』
三屋とは唯一の親友の町奉行佐伯(伊東四朗)のことば。『おれたちもあのように「しくじり」をし禄を減らされたかもしれん。それがなかったのは、単なる「運」がよかっただけかもしれない。』
私は、これらの言葉がリタイアした今になって、実に胸に来るものがある。退職する先輩が「みんなのおかげで大過なく過ごさせていただいた」と言うのを、若いころは、半ば使い古されたつまらない言葉のように感じていた私であるが、今はそれこそが大事なのだと認識している。大過なくすごせたのは、本当に「運」というのがあるのかもしれない。
完結編では、旧友の没落した金井奥乃助との再会。彼は別の派閥に属していたのである。自らの不遇を嘆く彼はある日、三屋を釣りに誘い、何を思ったか不意に三屋を突き落としかけたが、三屋が身をかわしたので金井自らが落ちしまう。逆に三屋に助けられた金井は、2人で焚火に当たり近くで食べ物を見繕ってくるという三屋に「自分の境遇に比べ、やろうと思ってしたのではなく魔が差したのだ。この礼は言いたくない」といい、このまま立ち去ってくれというのである。
自分も若気の至りで「白を黒」と言えという上司に「正義」からかそんなことは言えないという自分がいた。そのためだけだとは考えたくもないが、昇進のルートから外されたように思う。まさか、金井のように、突き落とそうとは考えないが、今でもその上司に遭ったとしても、挨拶もしたくない。金井の気持ちがよく分かるのである。
三屋清左衛門残日録シリーズは、派閥争いの朝田家老の悔しがる姿も面白いが、この藩で生きる人の生きざまを見られるのも、まさに会社組織に仕える者の悲哀を感じさせられて、実には興味深い。
なお、三屋清左衛門の息子の心優しい妻を演じるのは「優香」さんで、笑顔がすてきで、実にぴったりの役柄。
*1 原作は藤沢周平氏による小説