松本キミ子さんが今年の2月23日に逝去されました。新聞の訃報欄に掲載価値のある方だと思うのに、何処にもその形跡がありません。私の3人の師匠のなかで、竹内敏晴さんと冨田博之さんは新聞扱い、村田栄一さんは「無視」されました。元小中高教師は掲載の対象にないというのでしょうか。
私がその訃報を知ったのはご子息の松本一郎さんからの手紙でした。自然死とも思われる亡くなり方であったようです。キミ子さん、享年81歳でした。
「キミ子方式」との出会いは雑誌「ひと」を通してでした。仮説実験研究会の会員として雑誌にその実践が掲載されていました。子どもたちが描いた実にリアルな魚の絵が記憶に残っています。どのように指導したのかにとても興味が出ました。どうやら、3原色と黒で色を作り、輪郭線をとらず、1点から隣に隣に描いていくやり方のようでした。
その後、松本キミ子さんは矢継ぎ早に著作をものにします。キミ子さんはなかなかの文章家で、子どもたちが文字の中で動いて生きているようでした。
・『三原色の絵の具箱』(松本キミ子・堀江晴美、全3巻、ほるぷ出版、1982年)
・『絵のかけない子は私の教師』(松本キミ子・堀江晴美、仮説社、1982年)
・『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子、仮説社、1984年)…『男の家庭科先生』に紹介しました。
・『絵を描くっていうことは』(松本キミ子、仮説社、1989年)
1970年代の後半、教師7,8年目にして体調を崩し、入院生活を余儀なくされました。
退院してから思うところがあって「男の家庭科先生」に転身したのです。この時の顛末を福田緑との共著で『男の家庭科先生』(冬樹社)にまとめました。私の著書の中で唯一印税をもらい、完売した本になりました。
小学校の家庭科教師は5,6年生を教えますが、他の専科に比べて持ち時間が少ないので3年の図工も担当しました。それ以前は3年生以上の担任教師だったので、図工も家庭科も教えたことはありませんでした。
はてさて、3年生の図工をどう教えるのか、真剣に悩みました。その時に頼ったのは雑誌「ひと」掲載の実践記録でした。この時にキミ子方式との「再会」がありました。
1973年に雑誌「ひと」(太郎次郎社)が発刊されます。さまざまな民間教育研究団体の連合体のような運動で、代表が数学者の遠山啓さんでした。美術教育は新しい絵の会が参加していました。清瀬では美術教育を進める会が地道な活動を展開していました。2つの会からも学ぶことが多かったです。
時同じくして松本キミ子さんのキミ子方式なるものが仮説実験研究会などから紹介されたことは、前述の通りです。その考え方や方法論を大いに参考にさせていただきました。
時や場所は思い出せないのですが、夫婦共に、直接キミ子さんから指導を受けるチャンスがめぐってきました。確か「もやし」を描いたのではなかったかと思うのです。
その頃我々夫婦はミニコミ「啓」を発行していて、読んで欲しい人に勝手に送付していました。その一人に松本キミ子さんを選びました。そのお返しでしょうか、しばらくして「ビギニングニュース」が送られてくるようになりました。
2005年に55歳で2人とも自主退職してからもミニコミはずっと送り続けました。その頃から頻繁に海外旅行をするようになりました。その旅行記をキミ子さんはおもしろがって読んでくれました。仕事が一段落して、ソファーに横になりながらゆっくり読むのが嬉しいことだと、はがきに書いてくれました。彼女自身がヨーロッパ滞在経験も多く、興味を持たれたのではないかと思います。
2008年に緑が最初の写真集『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』を出版すると、有り難くも購読してくれました。
ミニコミが終刊してからも「ビギニングニュース」が送られてきました。お返しに本ができたら送ろうかなと考えていたところでした。
ご自身の「生」を十二分に生きられた方でした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌
私がその訃報を知ったのはご子息の松本一郎さんからの手紙でした。自然死とも思われる亡くなり方であったようです。キミ子さん、享年81歳でした。
「キミ子方式」との出会いは雑誌「ひと」を通してでした。仮説実験研究会の会員として雑誌にその実践が掲載されていました。子どもたちが描いた実にリアルな魚の絵が記憶に残っています。どのように指導したのかにとても興味が出ました。どうやら、3原色と黒で色を作り、輪郭線をとらず、1点から隣に隣に描いていくやり方のようでした。
その後、松本キミ子さんは矢継ぎ早に著作をものにします。キミ子さんはなかなかの文章家で、子どもたちが文字の中で動いて生きているようでした。
・『三原色の絵の具箱』(松本キミ子・堀江晴美、全3巻、ほるぷ出版、1982年)
・『絵のかけない子は私の教師』(松本キミ子・堀江晴美、仮説社、1982年)
・『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子、仮説社、1984年)…『男の家庭科先生』に紹介しました。
・『絵を描くっていうことは』(松本キミ子、仮説社、1989年)
1970年代の後半、教師7,8年目にして体調を崩し、入院生活を余儀なくされました。
退院してから思うところがあって「男の家庭科先生」に転身したのです。この時の顛末を福田緑との共著で『男の家庭科先生』(冬樹社)にまとめました。私の著書の中で唯一印税をもらい、完売した本になりました。
小学校の家庭科教師は5,6年生を教えますが、他の専科に比べて持ち時間が少ないので3年の図工も担当しました。それ以前は3年生以上の担任教師だったので、図工も家庭科も教えたことはありませんでした。
はてさて、3年生の図工をどう教えるのか、真剣に悩みました。その時に頼ったのは雑誌「ひと」掲載の実践記録でした。この時にキミ子方式との「再会」がありました。
1973年に雑誌「ひと」(太郎次郎社)が発刊されます。さまざまな民間教育研究団体の連合体のような運動で、代表が数学者の遠山啓さんでした。美術教育は新しい絵の会が参加していました。清瀬では美術教育を進める会が地道な活動を展開していました。2つの会からも学ぶことが多かったです。
時同じくして松本キミ子さんのキミ子方式なるものが仮説実験研究会などから紹介されたことは、前述の通りです。その考え方や方法論を大いに参考にさせていただきました。
時や場所は思い出せないのですが、夫婦共に、直接キミ子さんから指導を受けるチャンスがめぐってきました。確か「もやし」を描いたのではなかったかと思うのです。
その頃我々夫婦はミニコミ「啓」を発行していて、読んで欲しい人に勝手に送付していました。その一人に松本キミ子さんを選びました。そのお返しでしょうか、しばらくして「ビギニングニュース」が送られてくるようになりました。
2005年に55歳で2人とも自主退職してからもミニコミはずっと送り続けました。その頃から頻繁に海外旅行をするようになりました。その旅行記をキミ子さんはおもしろがって読んでくれました。仕事が一段落して、ソファーに横になりながらゆっくり読むのが嬉しいことだと、はがきに書いてくれました。彼女自身がヨーロッパ滞在経験も多く、興味を持たれたのではないかと思います。
2008年に緑が最初の写真集『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』を出版すると、有り難くも購読してくれました。
ミニコミが終刊してからも「ビギニングニュース」が送られてきました。お返しに本ができたら送ろうかなと考えていたところでした。
ご自身の「生」を十二分に生きられた方でした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌