前ブログの続きのような話です。
『厳粛な綱渡り』(大江健三郎、文藝春秋)を購入したのは1969年6月、私が東京学芸大学2年生の時でした。小さな活字で2段組、500頁を超える大冊をなぜ手に入れたのか、記憶に定かではありません。たぶん大学の本屋に平積みになっていて、勢いで買ってしまったのでしょう。わずかに鉛筆のサイドラインが残っていますが、内容についての記憶はほとんどないのです。今回の読書会で大江の最初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を読むにあたって、懐かしく本棚から取り出した次第なのです。
『厳粛な綱渡り』は大江の20歳代に書いた批評的散文集で、「ぼくはこの本が日本の戦後世代の、500頁をこえる最初のエッセイ集たることを広告する権利を有する。」と堂々と宣言しています。題名の由来は、小説家の大江が批評的散文を書き記すということは、綱渡りに等しい行為というイメージを持っているということのようです。
今回この本を再読して新鮮だったのは、クラナッハ論や群馬県島小学校のルポを発見したことです。
ルーカス・クラナッハはドイツ中世の画家で、近年日本でも上野の国立西洋美術館で展覧会が開かれたことはこのブログでも取り上げました。(クラーナハ展、2016年10月~2017年1月)
大江はクラナッハが高校の時から最も重要な画家であったということで、「出会い」「樹木」「裸体」「エロティスムと死」という視点から力を込めて書いているのです。おそらくフランスの詩人や美術家の評論などを引き合いに出して論評するのですが、私には今ひとつ腑に落ちないのでした。
今回の最大の発見は「未来につながる教室-群馬県島小学校」です。島小学校とは斎藤喜博校長が主導し、全国的にも名を轟かせ、その実践が本や映画になり、戦後教育の金字塔を打ち立てた公立の学校でした。大江の2日間にわたってのルポルタージュです。
私が小学校や大学の教育現場で一貫して追及してきた演劇教育の考え方がこのルポに貫かれていました。
・斎藤さんは参観者に授業をみせるとき、それが授業の最高の瞬間であるように配慮する、それは俳優たちが最高の演技を観客にみせようとすることとおなじである。
・…そばで見ているぼくに、いわば芸術的な感動をあたえるものだった。
・まず子供たちのあいだにダイナミックで劇的な葛藤がある、しかもその葛藤はしだいにあたらしい葛藤へともりあがってゆく。教師も、その葛藤にくわわる。まったく無意味な脇道へそれることをきびしく制することで教師は葛藤の外にあるようだが、その葛藤がしだいに根本的になってくると教師もそれにはいりこんでゆかざるをえない、そしてすべての葛藤がとけたあと、子供たちと教師、それに共感してみつめていた参観者は本質的な解放感、カタルシスをあじわうことになる。これはすぐれた演劇とまったくおなじだ。
島小学校の実践は10年くらい公開研究会を開きながら続きましたが、その間多くの専門家を講師に迎えています。私の師匠、故冨田博之さんもそのひとりでした。彼は演劇教育3部作をものにした、押しも押されぬ演劇教育の権威です。(拙著『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』「冨田博之の演劇教育論」参照、晩成書房)
『厳粛な綱渡り』(大江健三郎、文藝春秋)を購入したのは1969年6月、私が東京学芸大学2年生の時でした。小さな活字で2段組、500頁を超える大冊をなぜ手に入れたのか、記憶に定かではありません。たぶん大学の本屋に平積みになっていて、勢いで買ってしまったのでしょう。わずかに鉛筆のサイドラインが残っていますが、内容についての記憶はほとんどないのです。今回の読書会で大江の最初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を読むにあたって、懐かしく本棚から取り出した次第なのです。
『厳粛な綱渡り』は大江の20歳代に書いた批評的散文集で、「ぼくはこの本が日本の戦後世代の、500頁をこえる最初のエッセイ集たることを広告する権利を有する。」と堂々と宣言しています。題名の由来は、小説家の大江が批評的散文を書き記すということは、綱渡りに等しい行為というイメージを持っているということのようです。
今回この本を再読して新鮮だったのは、クラナッハ論や群馬県島小学校のルポを発見したことです。
ルーカス・クラナッハはドイツ中世の画家で、近年日本でも上野の国立西洋美術館で展覧会が開かれたことはこのブログでも取り上げました。(クラーナハ展、2016年10月~2017年1月)
大江はクラナッハが高校の時から最も重要な画家であったということで、「出会い」「樹木」「裸体」「エロティスムと死」という視点から力を込めて書いているのです。おそらくフランスの詩人や美術家の評論などを引き合いに出して論評するのですが、私には今ひとつ腑に落ちないのでした。
今回の最大の発見は「未来につながる教室-群馬県島小学校」です。島小学校とは斎藤喜博校長が主導し、全国的にも名を轟かせ、その実践が本や映画になり、戦後教育の金字塔を打ち立てた公立の学校でした。大江の2日間にわたってのルポルタージュです。
私が小学校や大学の教育現場で一貫して追及してきた演劇教育の考え方がこのルポに貫かれていました。
・斎藤さんは参観者に授業をみせるとき、それが授業の最高の瞬間であるように配慮する、それは俳優たちが最高の演技を観客にみせようとすることとおなじである。
・…そばで見ているぼくに、いわば芸術的な感動をあたえるものだった。
・まず子供たちのあいだにダイナミックで劇的な葛藤がある、しかもその葛藤はしだいにあたらしい葛藤へともりあがってゆく。教師も、その葛藤にくわわる。まったく無意味な脇道へそれることをきびしく制することで教師は葛藤の外にあるようだが、その葛藤がしだいに根本的になってくると教師もそれにはいりこんでゆかざるをえない、そしてすべての葛藤がとけたあと、子供たちと教師、それに共感してみつめていた参観者は本質的な解放感、カタルシスをあじわうことになる。これはすぐれた演劇とまったくおなじだ。
島小学校の実践は10年くらい公開研究会を開きながら続きましたが、その間多くの専門家を講師に迎えています。私の師匠、故冨田博之さんもそのひとりでした。彼は演劇教育3部作をものにした、押しも押されぬ演劇教育の権威です。(拙著『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』「冨田博之の演劇教育論」参照、晩成書房)