後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔228〕今は、亀山城跡保存会事務局長の矢部顕さんはユニークな夏祭りの仕掛け人でした。

2019年09月11日 | メール・便り・ミニコミ
 たびたびブログに登場していただいている矢部顕さんは元ラボ教育センターの事務局にいらした方です。言語教育総合研究所の事務局長を務められ、私が最もお世話になった一人です。退職後は普段は岡山で農業に従事していますが、求められて地域の小中学生や高大生まで「授業」されています。さらにラボ・テューターやお母さん方を対象に講演されることも多いようです。
 その矢部さんから楽しげで子どもたちの表情が思い浮かぶような手紙が届きました。「元気のお裾分け」で、皆さんにも読んでいただきましょう。


●矢部顕さんの手紙

福田三津夫様
 今年も酷暑の夏でした。お元気でお過ごしでしたでしょうか。
昼夜の温度差があることが良い葡萄を実らせることになるのですが、夜の温度が低くならないので、私の栽培しているピオーネという品種の色づきがとても悪くて困っています。
 以下は近況報告です。
 8月の最後の土曜日、我が学区のお祭りがありました。小学校でやる学区の夏祭りです。
 PTAや各種団体のテントのお店では、綿菓子、タコ焼き、かき氷、光るおもちゃ、などなどのお店がでるのは、どこも同じようなものです。
 まぁ、どこでもやっている学区単位のお祭りなんですが、他とちょっと違ったところがあります。
 亀山城(我が家の裏山は、戦国時代の岡山城の前身の亀山城跡で、近くの小学校は西の丸にあります)のおひざ元ですので、亀山城や城主・宇喜多直家や息子の秀家に関する歴史イベントが多いのです。(宇喜多秀家は豊臣秀吉の五大老のひとり。関ヶ原の戦いで西軍の副大将。敗れて徳川によっては八丈島に流刑となりました)
 例えば下記のようなものがあります。
① 秀家とその妻の豪姫が登場します。ちゃんとした衣装を着るのです。(新聞記事の写真でわかりますか?)これに扮するのは浮田小学校を昨年、一昨年に卒業した中学生なのです。
② 宇喜多家関連遺跡巡りと称した写真パネル展(砥石城や天神山城など当時の近くの城跡や八丈島の住居跡も)で50枚以上の貴重な写真を小学校の教室にパネルを設置して展示します。
③ それを見て説明文をよく読むと答がわかる歴史クイズをします。その答案用紙を私が採点してOKであれば、景品があたる抽選券がもらえます。200人以上が答案用紙を提出してくれました。
④ プログラムが盛り上がってきた頃の時間に、祭りに来ている小学生全員参加による亀山城歴史クイズをやります。その問題を考え、舞台上(大型トラックの荷台)から出題するのは6年生なのです。(亀山城跡保存会浮田小子どもクラブの5人の役員なのです)
⑤これに参加した子どもたちには、宇喜多直家・秀家の名前入りの鉛筆やお福餅(直家の奥さんのお福さんが戦場に出かける直家に持たしたといわれるお餅)がもらえるのです。(優勝者はトロフィー)
 まぁ、こんなふうで、けっこう子どもが中心で、かつ郷土の歴史をメインに据えた夏祭りです。6年生の子どもたち=亀山城跡保存会浮田小子どもクラブの役員が活躍しているのですが、この子たちを指導(?)しているのが、なんと亀山城跡保存会事務局長の私なのです。
 テントの出店では「国盗り物語」という大げさな名前がついていますが、射的をやっています。キャラメルなどのお菓子の箱にお城の絵が貼ってあって、それを狙って鉄砲で撃つのです。とても人気があって順番待ちの大行列となります。
 福田さんには、小学校での小生のいくつかの支援授業のことはお知らせしていましたが、亀山城跡保存会なるものの役をやっていることや、その活動についてはお話したことはありませんでしたっけ?
 先日の 新聞記事を添付します。
 季節の変わり目ですのでお身体ご自愛くださいませ。         矢部 顕


 このときのことを新聞が取り上げていました。こちらもどうぞ!




はてさて、そうこうしているうちに、矢部さんから以下の補足のメールが届きました。ご覧ください。

●矢部顕さんの手紙

【後日談】
福田三津夫様
 先に、我が学区の夏祭りの内容と新聞記事を添付してお送りしました。 それを福田さんのブログで取り上げていただきました。新聞記事の写真には宇喜多秀家とその妻・豪姫の衣装をつけた中学生が写っていましたでしょう。
 その後日談です。
 岡山発展の基礎を築いた秀家は、また若くして豊臣秀吉の五大老のひとりでした。秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い敗北し、徳川によって八丈島に流罪となりました。八丈島流人第1号でした。
 島での生活は50年にも及び84歳(1655年)で亡くなりました。当時の武将でこんなに長生きした人はいないでしょう。 息子たちやその末裔は島で暮らし続け、赦免の沙汰を待ちましたが、それが実現したのは、なんと徳川が滅んで明治になってからでした。このような例は宇喜多一族以外にはありません。妻の豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀の前田家に戻りました。その前田家は食料や医薬品を明治になるまで島に送り続けました。これもまた日本の歴史上、特異な例でありましょう。
 その宇喜多秀家終焉の地・八丈島の住居跡に秀家が手づから植えたとされる蘇鉄が今もあり、その株分けしたソテツが360余年の時空を超えて秀家生誕の地・亀山城(我が家の裏山)に運ばれ移植することになりました。 八丈島に秀家を顕彰する会があって、そこのみなさんが交流の証として蘇鉄を贈ってくださるのです。
 八丈島からも8人の方が亀山城跡までおいでになって、移植の植樹祭が10月14日に行われます。夏祭りで活躍した亀山城跡保存会浮田子どもクラブの役員の子たちは、今度は植樹祭で岡山市長とともに金色のスコップをもちます。
  亀山城跡保存会 事務局長 矢部 顕

 そしてさらに後日談の後日談です。前半は重複、後半が書き足されています。

【後日談の後日談】*一部重複、
 岡山発展の基礎を築いた秀家は、また若くして豊臣秀吉の五大老のひとりでした。秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い敗北し、徳川によって八丈島に流罪となりました。八丈島流人第1号でした。
 島での生活は50年にも及び84歳(1655年)で亡くなりました。当時の武将でこんなに長生きした人はいないでしょう。 息子たちやその末裔は島で暮らし続け、赦免の沙汰を待ちましたが、それが実現したのは、なんと徳川が滅んで明治になってからでした。このような例は宇喜多一族以外にはありません。
 妻の豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀の前田家に戻りました。その前田家は食料や医薬品を明治になるまで島に送り続けました。これもまた日本の歴史上、特異な例でありましょう。
 その宇喜多秀家終焉の地・八丈島の住居跡に秀家が手づから植えたとされる蘇鉄が今もあり、その株分けしたソテツが360余年の時空を超えて秀家生誕の地・亀山城(我が家の裏山)に運ばれ移植することになりました。 八丈島に秀家を顕彰する会があって、そこのみなさんが交流の証として蘇鉄を贈ってくださったのです。
 八丈島からも8人の方が亀山城跡までおいでになって、移植の植樹式が10月14日に行われました。夏祭りで活躍した亀山城跡保存会浮田子どもクラブの役員の子たちは、今度は植樹式で岡山市長とともに金色のスコップをもって土かけを行いました。



【さらに後日談の後日談】



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