朝日新聞に下掲の記事が掲載されたとき、これは絶対行かなくてはならないと思いました。少し前にベストセラー『不死身の特攻兵』(鴻上尚史、講談社現代新書)を読んだばかりで特攻について興味を持ったからです。(『不死身の特攻兵』についてはブログの最後に紹介します。)
■元特攻隊員の兄弟 戦争の不条理を語る 早大で9日
「生きたかったが、言えない空気あった」(朝日新聞、2019年11月6日)
太平洋戦争中に特攻隊員となった兄弟が9日、新宿区で講演し、体験を語る。ともに90代後半。戦争の不条理さや命の尊さなどを訴える。
兄弟は、岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)。
忠正さんは1943年、慶応大文学部2年生だったときに神富外苑で行われた学徒出陣壮行会に参加し、海軍に入,た。人間魚雪「回天」や、竹ざおの先に付けた機雷で海底から米軍の艦艇の底を突く人間機雷「伏龍」の訓練を受けた。だが、肺結核にかかったと疑われるなど、実戦に出ることなく終戦を迎えた。
忠熊さんは、京都帝国大文学部1年生だつた43年に海軍に入った。航海学校で航海術を学び、木製の小型ボートに爆弾を載せて敵艦に突っ込む「震洋」の要員となった。訓練をしているうちに終戦。戦後は、日本近代史の研究者となり、立命館大学副学長も務めた。
2人は90年代からそれぞれに体験を語ってきた。2002年には著書「特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言」を出版。講演会を主催する「不戦兵士・市民の会」によると、2人が講演で一緒に話すのは今回が初めてという。
忠正さんは「特攻隊員がみんな喜んで天皇のため、お国のために命を捧げようと思っていたわけではない。本当は生きたかったが、それを言ってはいけない空気があった」と話す。「沈黙は中立ではない。自分と同じ過ちをしないでほしい」
会の事務局長の森脇靖彦さん(75)は「2人で一緒に話すのは最初で最後になるかもしれない。貴重な経験を持つ2人の話が聞けるまたとない機会だ」と話している。
講演会「元特攻兵 岩井兄弟からの最後の証言」は9日午後1時半から早稲田大9号館5階第1会議室で。資料代1千円(学生無料)。問い合わせは不戦兵士・市民の会(0438・40・5941)へ。
(黒田壮吉)
久しぶりの早稲田大学でした。かつてブログにも書きましたが、湯山厚さんのお話が聞けるということで数年前に訪ねて以来でした。余裕を持って家を出たのですが、早稲田大学の9号館を探し当てるのに迷ってしまいました。それでも開会15分前に会場に着いたのですが、すでに二教室分が満席で、わずかに残った後方の席になんとか座ることができました。おそらく400人以上は来ていたでしょう。やはり我々世代が多かったようですが、もう少し若い研究者とみられる人たちも前の方に陣取っていたようでした。わずかですが、学生たち若い世代も混じってはいました。
岩井ご兄弟は耳が遠くなったとはいえ頭脳は明晰でした。忠正氏の娘さんの「通訳」で貴重な証言を数多く聞くことができました。
●2019年11月9日不戦大学【岩井兄弟】関係の配布資料 191109配布
「元特攻兵(回天・伏龍・震洋)岩井兄弟(99歳・97歳)からの最後の証言」
1.講師紹介
1.1 岩井忠正氏
1920年熊本市生まれ 現在99歳 父勘六氏は陸士四期、陸軍少将(山形出身)慶應義塾大学在守中に学徒出陣で、1943年12月横須賀の武山海兵団に入団。
1944年、第四期兵科予備学生(3270人 元参議院議員・田英夫、『戦艦大和の最期』の著者・吉田満、作家の庄野潤三らが同期)となり、同期生400人と共に機雷学校(久里浜 在学中に対潜学校に改称)入学、同年秋、特殊兵器搭乗員募集(形は自由意志だがほぼ強制)に応じ、「特殊兵器要員」(40人)に採用される。長崎の川棚の「臨時魚雷艇研究所」で弟・忠熊氏と会う。「対潜学校」「航海学校」出身の80人が「回天隊」に配属され、11月下旬そのうち30人が山口県光基地の「八期士官講習員」となる(同期に和田稔、武田五郎などがいた)。1945年4月、天一号作戦で沖縄に出撃する戦艦「大和」を目撃する。呉の潜水艦基地、次いで横須賀の対潜学校へ転勤、「伏龍」部隊に配属される。訓練中の事故で入院、7月、瀬戸内海の情島に移動、8月6日、広島の原爆投下の閃光と大爆音に遭遇。
復員後、商社員をへて翻訳業 著書『特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』(忠熊氏と共著
新日本出版社)
1.2岩井忠熊氏
1922年熊本市生まれ 現在97歳 忠正氏の弟(六男) 大連二中から姫路高校に進学。京都帝国大学在学中に学徒出陣で、1943年12月、兄忠正氏と同じく武山海兵団に入団。
1944年第四期兵科予備学生となり、7月、航海学校(横須賀)に入学、そこから空母『信濃』の甲板を走る自転車が見えた。休日外出の際は鎌倉の知人宅で忠正氏と落ち合った。10月特攻配置となり、長崎・川棚の「臨時魚雷艇研究所」で忠正氏と会う。移動の急行列車で和田稔と同席になる。12月海軍少尉任官。第三九震洋隊の艇隊長となり1945年3月22日、海軍徴用船「道了丸」で石垣島に向かう。途中、アメリカ海軍の潜水艦「スペードフィッシュ号」の攻撃で轟沈、約3時間漂流する。同隊は187人中143人が戦死、他に乗組員・警戒隊員などを合わせると260人が戦死。救助後、佐世保に帰港、魚雷艇訓練所改め川棚突撃隊教官となる。6月、第106震洋隊艇隊長となり、熊本県天草諸島の茂串基地に着任、8月9日昼食時に大爆発音を聞き、キノコ雲を見る。火山の爆発という報告だったが、数日後特殊爆弾で長崎が壊滅したことを知る。
終戦後京都に帰る途中、壊滅した広島を見る。復員後、京都大学文学部卒業(日本近代史専攻)、立命館大学教授・文学部長・副学長を歴任 著書『近代天皇制のイデォロギー』『陸軍・秘密情報機関の男』『「靖国」と日本の戦争』(新日本出版社)『天皇制と歴史学』『学徒出陣』『大陸侵略は避け難い道だったのか』(かもがわ出版)『明治国家主義思想史研究』(青木書店)『西園寺公望』(岩波新書)他多数。
岩井兄弟の対談ではなく、女性研究者の司会による交互インタビューという形で進行していきました。2人の話は共通するところも多く、大逆事件で大杉栄、伊藤野枝など3人を虐殺したとされる甘粕正彦に大連の自宅で会っていること、南京虐殺を目撃している軍人が母親に話していたことを聞いたという生々しい話も飛び出しました。
特攻は志願ではないこと、死ぬことから逃れられないこと、逃げるのは卑怯ではあるが死ぬつもりはなかったこと、など語られていきました。残念ながら話されたことすべてを正確に再現することはできません。カメラが回っていたのでどこかで映像を見られるのではないでしょうか。
太平洋戦争は侵略戦争であり、戦争責任は天皇・軍人に当然あるということ、「歴史」を忘れたときに戦争が始まる、歴史は人間が作るので未来は作ることができる…あまりに密度の濃いお話しでした。そのうちに会としての「総括」が発表されると思いますので、注目していきたいと思います。
さて『不死身の特攻兵』についてです。鴻上尚史さんは演出家・作家で1度だけ「演劇と教育」誌でインタビューさせてもらったことがあります。9回突撃して、9回戻ってきたという日本人がいたことに驚かされました。戻ってくる方が死ぬより日本のためになるという確固たる信念を貫き通したのです。
■『不死身の特攻兵』鴻上尚史、講談社現代新書、2017年
日本軍の真実 永江朗
12月8日は日米開戦があった日。沖縄をはじめ全国に米軍の基地や施設があり、不平等な日米地位協定や航空管制など、“戦後"はまだ続いている。76年前に無謀な戦争をしなければ、そして、その前に愚劣な中国侵略を始めていなければ、こんなことにはならなかっただろうに。
戦争の始め方もばかげていたが、終わり方も悲惨だった。面目にこだわった軍部は負けを受け入れようとせず、一般国民はひどい目にあった。
日本軍の戦術でもっとも愚劣なものが特攻だろう。飛行機だけでなく操縦者の生命も失われる。日本軍が人命を軽視したことを象徴している。
だが、出撃しても生きて帰ってきた特攻兵がいた。それも9回も。昨年の2月、92歳で亡くなった佐々木友次氏がその人である。鴻上尚史の『不死身の特攻兵』は、佐々木氏や特攻について調べたこと、佐々木氏へのインタビュー、そして、それらからこの劇作家が考えたことの三つの要素からなる。
なるほどと思ったのは、特攻は兵士の誇りを傷つける作戦だったという話。体当たりせよという命令は、それまで訓練してきた急降下爆撃などの技術を否定するものだ。だから佐々木氏らは、命令に逆らって米軍の戦艦に爆弾を投下して帰還した。
だが、軍は生還した兵士をねぎらうどころか冷遇する。早く再出撃して、こんどこそ死ねと迫る。体当たりして戦果を上げたと、天皇にも報告してしまったのだから、というのが軍幹部のいいぶんだ。しかも命令した上官は、米軍が迫ると台湾に逃げ出す始末。これが戦争の現実、日本軍の真実だ。(週刊朝日)
■元特攻隊員の兄弟 戦争の不条理を語る 早大で9日
「生きたかったが、言えない空気あった」(朝日新聞、2019年11月6日)
太平洋戦争中に特攻隊員となった兄弟が9日、新宿区で講演し、体験を語る。ともに90代後半。戦争の不条理さや命の尊さなどを訴える。
兄弟は、岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)。
忠正さんは1943年、慶応大文学部2年生だったときに神富外苑で行われた学徒出陣壮行会に参加し、海軍に入,た。人間魚雪「回天」や、竹ざおの先に付けた機雷で海底から米軍の艦艇の底を突く人間機雷「伏龍」の訓練を受けた。だが、肺結核にかかったと疑われるなど、実戦に出ることなく終戦を迎えた。
忠熊さんは、京都帝国大文学部1年生だつた43年に海軍に入った。航海学校で航海術を学び、木製の小型ボートに爆弾を載せて敵艦に突っ込む「震洋」の要員となった。訓練をしているうちに終戦。戦後は、日本近代史の研究者となり、立命館大学副学長も務めた。
2人は90年代からそれぞれに体験を語ってきた。2002年には著書「特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言」を出版。講演会を主催する「不戦兵士・市民の会」によると、2人が講演で一緒に話すのは今回が初めてという。
忠正さんは「特攻隊員がみんな喜んで天皇のため、お国のために命を捧げようと思っていたわけではない。本当は生きたかったが、それを言ってはいけない空気があった」と話す。「沈黙は中立ではない。自分と同じ過ちをしないでほしい」
会の事務局長の森脇靖彦さん(75)は「2人で一緒に話すのは最初で最後になるかもしれない。貴重な経験を持つ2人の話が聞けるまたとない機会だ」と話している。
講演会「元特攻兵 岩井兄弟からの最後の証言」は9日午後1時半から早稲田大9号館5階第1会議室で。資料代1千円(学生無料)。問い合わせは不戦兵士・市民の会(0438・40・5941)へ。
(黒田壮吉)
久しぶりの早稲田大学でした。かつてブログにも書きましたが、湯山厚さんのお話が聞けるということで数年前に訪ねて以来でした。余裕を持って家を出たのですが、早稲田大学の9号館を探し当てるのに迷ってしまいました。それでも開会15分前に会場に着いたのですが、すでに二教室分が満席で、わずかに残った後方の席になんとか座ることができました。おそらく400人以上は来ていたでしょう。やはり我々世代が多かったようですが、もう少し若い研究者とみられる人たちも前の方に陣取っていたようでした。わずかですが、学生たち若い世代も混じってはいました。
岩井ご兄弟は耳が遠くなったとはいえ頭脳は明晰でした。忠正氏の娘さんの「通訳」で貴重な証言を数多く聞くことができました。
●2019年11月9日不戦大学【岩井兄弟】関係の配布資料 191109配布
「元特攻兵(回天・伏龍・震洋)岩井兄弟(99歳・97歳)からの最後の証言」
1.講師紹介
1.1 岩井忠正氏
1920年熊本市生まれ 現在99歳 父勘六氏は陸士四期、陸軍少将(山形出身)慶應義塾大学在守中に学徒出陣で、1943年12月横須賀の武山海兵団に入団。
1944年、第四期兵科予備学生(3270人 元参議院議員・田英夫、『戦艦大和の最期』の著者・吉田満、作家の庄野潤三らが同期)となり、同期生400人と共に機雷学校(久里浜 在学中に対潜学校に改称)入学、同年秋、特殊兵器搭乗員募集(形は自由意志だがほぼ強制)に応じ、「特殊兵器要員」(40人)に採用される。長崎の川棚の「臨時魚雷艇研究所」で弟・忠熊氏と会う。「対潜学校」「航海学校」出身の80人が「回天隊」に配属され、11月下旬そのうち30人が山口県光基地の「八期士官講習員」となる(同期に和田稔、武田五郎などがいた)。1945年4月、天一号作戦で沖縄に出撃する戦艦「大和」を目撃する。呉の潜水艦基地、次いで横須賀の対潜学校へ転勤、「伏龍」部隊に配属される。訓練中の事故で入院、7月、瀬戸内海の情島に移動、8月6日、広島の原爆投下の閃光と大爆音に遭遇。
復員後、商社員をへて翻訳業 著書『特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』(忠熊氏と共著
新日本出版社)
1.2岩井忠熊氏
1922年熊本市生まれ 現在97歳 忠正氏の弟(六男) 大連二中から姫路高校に進学。京都帝国大学在学中に学徒出陣で、1943年12月、兄忠正氏と同じく武山海兵団に入団。
1944年第四期兵科予備学生となり、7月、航海学校(横須賀)に入学、そこから空母『信濃』の甲板を走る自転車が見えた。休日外出の際は鎌倉の知人宅で忠正氏と落ち合った。10月特攻配置となり、長崎・川棚の「臨時魚雷艇研究所」で忠正氏と会う。移動の急行列車で和田稔と同席になる。12月海軍少尉任官。第三九震洋隊の艇隊長となり1945年3月22日、海軍徴用船「道了丸」で石垣島に向かう。途中、アメリカ海軍の潜水艦「スペードフィッシュ号」の攻撃で轟沈、約3時間漂流する。同隊は187人中143人が戦死、他に乗組員・警戒隊員などを合わせると260人が戦死。救助後、佐世保に帰港、魚雷艇訓練所改め川棚突撃隊教官となる。6月、第106震洋隊艇隊長となり、熊本県天草諸島の茂串基地に着任、8月9日昼食時に大爆発音を聞き、キノコ雲を見る。火山の爆発という報告だったが、数日後特殊爆弾で長崎が壊滅したことを知る。
終戦後京都に帰る途中、壊滅した広島を見る。復員後、京都大学文学部卒業(日本近代史専攻)、立命館大学教授・文学部長・副学長を歴任 著書『近代天皇制のイデォロギー』『陸軍・秘密情報機関の男』『「靖国」と日本の戦争』(新日本出版社)『天皇制と歴史学』『学徒出陣』『大陸侵略は避け難い道だったのか』(かもがわ出版)『明治国家主義思想史研究』(青木書店)『西園寺公望』(岩波新書)他多数。
岩井兄弟の対談ではなく、女性研究者の司会による交互インタビューという形で進行していきました。2人の話は共通するところも多く、大逆事件で大杉栄、伊藤野枝など3人を虐殺したとされる甘粕正彦に大連の自宅で会っていること、南京虐殺を目撃している軍人が母親に話していたことを聞いたという生々しい話も飛び出しました。
特攻は志願ではないこと、死ぬことから逃れられないこと、逃げるのは卑怯ではあるが死ぬつもりはなかったこと、など語られていきました。残念ながら話されたことすべてを正確に再現することはできません。カメラが回っていたのでどこかで映像を見られるのではないでしょうか。
太平洋戦争は侵略戦争であり、戦争責任は天皇・軍人に当然あるということ、「歴史」を忘れたときに戦争が始まる、歴史は人間が作るので未来は作ることができる…あまりに密度の濃いお話しでした。そのうちに会としての「総括」が発表されると思いますので、注目していきたいと思います。
さて『不死身の特攻兵』についてです。鴻上尚史さんは演出家・作家で1度だけ「演劇と教育」誌でインタビューさせてもらったことがあります。9回突撃して、9回戻ってきたという日本人がいたことに驚かされました。戻ってくる方が死ぬより日本のためになるという確固たる信念を貫き通したのです。
■『不死身の特攻兵』鴻上尚史、講談社現代新書、2017年
日本軍の真実 永江朗
12月8日は日米開戦があった日。沖縄をはじめ全国に米軍の基地や施設があり、不平等な日米地位協定や航空管制など、“戦後"はまだ続いている。76年前に無謀な戦争をしなければ、そして、その前に愚劣な中国侵略を始めていなければ、こんなことにはならなかっただろうに。
戦争の始め方もばかげていたが、終わり方も悲惨だった。面目にこだわった軍部は負けを受け入れようとせず、一般国民はひどい目にあった。
日本軍の戦術でもっとも愚劣なものが特攻だろう。飛行機だけでなく操縦者の生命も失われる。日本軍が人命を軽視したことを象徴している。
だが、出撃しても生きて帰ってきた特攻兵がいた。それも9回も。昨年の2月、92歳で亡くなった佐々木友次氏がその人である。鴻上尚史の『不死身の特攻兵』は、佐々木氏や特攻について調べたこと、佐々木氏へのインタビュー、そして、それらからこの劇作家が考えたことの三つの要素からなる。
なるほどと思ったのは、特攻は兵士の誇りを傷つける作戦だったという話。体当たりせよという命令は、それまで訓練してきた急降下爆撃などの技術を否定するものだ。だから佐々木氏らは、命令に逆らって米軍の戦艦に爆弾を投下して帰還した。
だが、軍は生還した兵士をねぎらうどころか冷遇する。早く再出撃して、こんどこそ死ねと迫る。体当たりして戦果を上げたと、天皇にも報告してしまったのだから、というのが軍幹部のいいぶんだ。しかも命令した上官は、米軍が迫ると台湾に逃げ出す始末。これが戦争の現実、日本軍の真実だ。(週刊朝日)