読みでのある矢部顕さんからのメールとエッセイです。唐桑町の故・鈴木重雄さんと畠山重篤さん、ペンシルベニアのアーミッシュなどの点が線に繋がります。まずはじっくり読み込んでください。
●福田三津夫様
唐桑町(宮城県気仙沼市)を初めて訪れたのは1973年3月でした。当時は、宮城県本吉郡唐桑町といって、そこの町の町長選挙があって、交流(むすび)の家建設をともに進めた同志ともいうべきハンセン病病歴者の鈴木重雄さんが、故郷の地元の人たちに推されて町長選挙に立候補したその選挙応援にかけつけたのでした。
病気が快復しても根強い差別は消えない社会のなかで、この病気の病歴者だけは今でも故郷に帰ることなどできない。「もういいかい 骨になっても まあだだよ」骨になっても帰れない。療養所の中に納骨堂があるという現実。ハンセン病から快復した人が故郷の町長選挙に立候補するというその選挙が今あったとしても奇跡的なことですが、50年近く前の出来事なのでした。
選挙には僅差で敗れたのですが、その後、故郷の唐桑で知的障害者の施設づくりに奔走され、完成直前に亡くなられました。その遺志を継いだ人たちとの交流は今でも続いています。
「森は海の恋人」というスローガンで、四半世紀にわたって山に木を植え続けた海の男の牡蠣漁師・畠山重篤さんも唐桑に住んでいます。
彼のいくつかの著作や講演に魅了されてすっかりフアンになりました。牡蠣漁師なのに、といっては失礼ですが、文章は上手で、お話には引き込まれてしまいます。
東日本大震災前にもお訪ねしたことがあるのですが、わたくしが震災後に書いた文章「キイワードは『不便』」で、三つの場所・ペンシルバニア、奥会津、唐桑にふれたのですが、唐桑では畠山重篤さんのことを書いています。
添付します。お読みください。
マーク・トウェイン作「トム・ソ―ヤ」は、子どもの時だけでなく、大人になってラボ教育の仕事をしていたとき、谷川雁(らくだ.こぶに というペンネームでの)の再話による『わんぱく大将トム・ソーヤ』が発刊(1977年)されて、それを題材にした表現教育に集中した時期があったことを思い出します。
大地を裸足でかける子どもたちの感性が雄大なミシシッピの川面に反射してきらめいている作品でした。
日経新聞への畠山さんの寄稿が「牡蠣とマーク・トウェイン」というタイトルで、そのタイトルに惹かれて読むと、わんぱくなトム・ソーヤが憧れたミシシッピ川を行き交う蒸気船ミズーリ号の港のニューオリンズ、そこは汽水域で牡蠣の大産地ということをはじめて知りました。
「マーク・トウェインは牡蠣が好きだったのだろうか」で文章は終わります。
新聞コピーを添付します。
矢部 顕
キイワードは「不便」
ペンシルバニアの風景・東北の風景
矢 部 顕
1.ペンシルバニアの風景
●電気を拒否する人々の村
原発事故があってから、昨年の5月ごろは、「電気が足りない。計画停電。節電だ。夏をどう乗り越えるか。…」と毎日のようにニュースで電力不足をあおっていた。今年も夏を前にして5月ごろになると、おなじことが繰り返し言われていて、電力が無いと生きていけないかのような錯覚に陥らせる。
こんなニュースに接するたびに、電気が無くて生活していた、正確には商用の電力を拒否して暮らしているアメリカのプロテスタントの小会派アーミッシュの村の生活を思い出す。電気とともに自動車も使用しないので、一般的には近代文明を拒否している風変わりな人々と思われている。この人たちが近所にたくさん住んでいる村に滞在する機会をもったことがあるが、かれらは特段に変な人たちではなく、素朴で真面目な人たちだった。
彼らは宗派として電気や自動車の使用を認めていないけれど、近代文明を拒否しているのではない。家庭で洗濯機も使うし冷蔵庫も使う。その洗濯機は小型エンジンがついているし、冷蔵庫はプロパンガスで動く。家具工場では鋸やドリルを使うが、それらの工具は電気ではなく圧縮空気の力で作動する。電気を使わないで出来る方法で文明機器を使っている。
そんなことなら電気を使うことと同じではないか、と思ってしまうのだが、そうでもないらしい。コンセントに差し込めばすべてが動くのとはちがって不便なことも多い。この不便ということがじつは大切なことのように思われてくる。日本のわたしたちの家庭のなかにおいても、いまや、コンセントに電源を差し込むだけで、あらゆるものが電気で動く。「電気を使うと人間の欲望は際限なくなる」とその村の長老は語った。
彼らは自動車の代わりに馬車を使う。馬車は鉄の車輪にこだわる。ゴムタイヤではない。わたしたちは、たとえば新幹線に代表されるように、「より速く、より遠くへ、より快適に」が近代化の恩恵だと思ってきた。不便を解消していくのが技術であり、その成果が快適な近代的な生活をもたらしてきたと考えてきた。こういう考え方に彼らは抵抗しているのだ。
「より速く、より遠くへ、より快適に」をめざしてきた私たちの社会は、ほんとうに人をしあわせにしたのか。
彼らはこう考える。自動車は地域共同体を希薄なものにする。テレビは家庭の団欒を壊す。電話は人をつなぐのではなく分断する。
家庭に商用電力がひかれていないように、電話回線もひかれていない。電話を使うときはどうするのか。道端に小さな板つくりの小屋があって、数軒で共同電話が設置されている。小屋の鍵を持っていって電話を使用する。
●欲望のコントロール
このような生活を興味深く観察していると、「不便」というのがキイワードではないかと思えてくる。人間は動物とちがって欲望に際限がない。欲望があって資本主義経済がすすみ資本主義経済がさらなる欲望を刺激してきた。しかし、今日、大量生産、大量消費、大量廃棄で成り立ってきた右肩上がりの時代は終焉した。欲望をどこかでコントロールすることがなければ資源もエネルギーも無限に必要になってくる。
アーミッシュという宗派の彼らの生活を見ていると、宗教的な理由はともかくとして、電気や自動車を使用しない生活は、際限の無い人間の欲望をコントロールする賢い知恵がもたらしたように思えてくる。
電気を使わない人々の馬車が行きかう村の向こうにスリーマイル島の原発が見えるアメリカ・ペンシルバニア州の皮肉な風景。
●便利=しあわせ、か
昨年は、日本の電力の30%を原発が担っているといわれていたけれど、今年は少々ニュアンスが違う。今年は、関西電力が15%、それ以外の電力会社は5%くらい夏の電力が不足すると言っている(??)。原発すべて稼動を停止して、電力が不足するのであれば(不足しないと言う人もいる)、不足分は停電をして不便な生活をすれば、それでよいのではないか。子どもや孫たちの世代へ負の遺産を残さない道は、それしかない。
昨年、最も便利さにあふれる首都圏で、いっとき大量の人が不便を体験した。地下鉄や電車がとまったり、タクシーがこなかったり、灯りがきえたり、コンビニにモノがなかったり、……。異常事態と報道されたが、これはほんとに異常事態なのか。東京から田舎に転居して思う、それまでの東京が異常だったのではないか、と。不便であっても「震災地の人のことを思えば……」とみんながまんしていた。結構なことだ。
「便利=しあわせ」という価値観で突っ走ってきたのが日本の戦後だったが、3・11によって「便利でなくてもしあわせ」と変わることができるか、が問われている。
2.東北・奥会津の風景
●東北はまだ植民地だったのか
東北は、もともと過酷で不便な生活を、歴史的に強いられてきた地方だ。
以前から「東北学」を提唱していた民俗学者の赤坂憲雄氏は、震災直後、「東北はまだ植民地だったのか」と発言した。
「戦前、東北は『男は兵隊、女は女郎、百姓は米を貢物として差しだしてきた』と語られてきました。国内の植民地の構図があったが、今はさすがに違うだろうと思っていましたが震災で認識を改めました」「食料もそうですし、電力は典型的です。東京で使う電力を東北が提供している。巨大な迷惑施設と引き換えに巨額の補助金がおちる。いままで意識してこなかった構造が、震災を契機にはっきりと浮かび上がってきました。きわめて植民地的な状況です。中心と周縁、中央と地方という構図が依然として東北を覆い尽くしているのです」と。
青森の三内丸山遺跡にみられる豊かな縄文文明からはじまって、以降、東北は豊穣な文化をもつ地方だった。東日流(つがる)外三郡誌」や「アテルイ伝説」にも象徴されるように、古くから独自の文化をもった世界だった。一方、古代大和朝廷からはじまった中央集権権力からすれば、まつろわぬ民の住むところであり、何度も何度もの制圧の対象であった。意識下にある怨念が現代にまで続いていることなど、みんな忘れていた。あらためて考えれば、あらゆる時代に、中央である西から弾圧や迫害を受け続けてきた東の地方であった。
●「会津学」
福島県は、浜通り、中通り、会津の三つの地方に分かれていて、それぞれ風土や文化が大きく異なる。
会津のなかでも、新潟県や栃木県に近い西南山間部は奥会津と呼ばれる。県内でも、もっとも交通の不便な過疎地域である。
この奥会津に柳津町という町があり、柳津には1200年の歴史をもつ虚空蔵尊圓蔵寺という名刹がある。その門前町の小さな旅館で開催された、市民大学というか現代の寺子屋というか講演会に招かれたことがある。農業や林業にたずさわっている人、町役場に勤めている人、こんな山奥で不思議なのだがIT企業をやっている人、若い女性の町会議員もいた。さまざまな職種の人たちが夜の講演会に来てくれた。
講演のあとの懇親会では、奥深い山村の町を活性化しようとがんばっている姿がよく窺われた。不便な地であったがゆえに、伝統的な暮らしの営みが残っていて、その価値を再発見しようとしている人たちであった。この雪深い山里の暮らしの文化を、聞き書きしたり、記録したり、次の世代に伝えようとしている会津学研究会というのがあって、この研究会に参加している人が多く来てくれていた。『会津学』という名の、ぶあつくてりっぱな研究誌が年一回発行されていて、その内容の質の高さに驚いた。この研究会の指導者は赤坂憲雄氏だった。
●「東北学」の提唱者
誇るべき東北の、あるいは、忘れられた東北の、歴史、地理、風土、文化、生活などを掘り起こし、中央にはない価値を見出そうと「東北学」なるものを、赤坂氏は以前から提唱してきたことは知っていたが、民俗学なら当然のことなのだろうが、こんな山奥の地の人々のなかに入りこんで、心を通わせながら学問をつくりあげてきたことに、あらためて感心した。
彼は自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」といい「フィールドワーク」とルビを打ちたいというような感覚がある、と誰だったかが言っていた。東日本大震災復興会議のメンバーに選ばれたことの意味は大きい。東北再生には彼のようなまなざしが必要だ。
この奥会津の山の民は、3.11大震災で被災した海側の浜通りの海の民の避難先としての受入れ活動を積極的に行っている。
3.東北・唐桑半島の風景
●海の民のDNA
東北三陸沿岸の人々の生きる力に圧倒される。今回の震災で、宮城県の最北端の漁業の町・気仙沼も壊滅的な被害を受けたが、まだその先の辺境の地・唐桑半島の津々浦々の漁師町も全滅していた。
奈良の大倭紫陽花邑のいちばんの巨木はヒマラヤ杉。交流(むすび)の家の竣工式のときに、記念植樹として鈴木重雄さんが植えたものだ。鈴木さんは、当時、長島愛生園にいたが交流の家建設運動にたいへんに大きな貢献をした。唐桑は、いまは亡きその鈴木さんの生まれ故郷。
鈴木さんから連なる旧知の人々がみんな奇跡的に生き延びていた。フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)は、3月下旬から現地で復旧支援のワークキャンプに駆けつけた。若くない私も、瓦礫撤去や家財の整理などほんにわずかな手伝いしかできないけれど駆けつけた。無常というか、運命というか、言いようのない惨憺たる光景のなかにあっても、現地の人は「こんど来るときは、おいしいお魚を食べにいらっしゃい」とあかるく言う。絶望のはての希望なのか。自然と向きあって生きてきた海の民のDNAゆえなのか。
●森は海の恋人
「森は海の恋人」というスローガンで四半世紀の間、森からの養分が川を通じて海を豊かにすることを重視して、山に木を植え続けてきた牡蠣漁師の畠山重篤さんも唐桑に住んでいる。2012年2月、世界の森林保護に取り組む国連機関「国連森林フォーラム」は「国際森林ヒーロー」を世界で6人を選び、そのうちの一人が畠山さんだった。「漁師が森林ヒーローなんて・・・・」と語っていたとか。
彼も、唐桑のほかの人と同じく津波で壊滅的な被害を受けた。牡蠣養殖いかだ70基、船5隻、車両5台、牡蠣の作業場、加工場、冷蔵庫、製氷機など、金額でいえば2億円以上が波にのまれた。最愛の母も失った。
「震災前、フランスから来た牡蠣業者が気仙沼湾をみて『天国のような海だ』と賞賛していましたが、私たちからすれば、ここは『天国と地獄が共存している海』なんです。ここに住もうとする限り、津波という『地獄』を受け入れなければならない。三陸に暮らす者は、必ず壊滅する宿命を背負っているのです」
死んだと思った海は、予想を超えた短い期間で生き返った。イワシの大群が湾の奥まで押し寄せてきた。海の復元力に、海のことを知りつくした彼でさえ改めて驚いたという。
「これだけ海に痛めつけられても、海を憎んでいる人は一人もいない。三陸地方の人々は、津波で家族や仲間、家を失っても、ここに住み続けてきた。それはなにより、海が豊かだからです」(朝日新聞のインタビューに応えて2012.2.22)
少し高台にあったためにこの集落で唯一波にさらわれなかった畠山氏のご自宅に、昨年の4月お見舞いに訪れた。そのときには、被災から2ヶ月も経ってないのに、杉の木の丸太を切り出し、支援のボランティアとともに牡蠣イカダづくりをはじめていた。彼の行動が、この地の人々の気力を左右することを鋭く自覚したうえでの、イカダづくりの作業開始だったと思う。
●それでも海で生きていく
気仙沼は有数の漁業基地として有名だが、三陸地方には同じように海に生きるしかなかった町がいくつもあって、それがみんな壊滅的な被害をうけた。歴史的にも、好漁場としての三陸沖に面したこの地方は、中央にたいして大量の食料資源としての魚介類の供給地としての地方であった。
最初に私が唐桑を訪れたとき、バスの通ることのできる道はなかった。気仙沼から連絡船で行くしかない、まさに陸の孤島であった。三陸地方の津々浦々の町はみな同じようなものである。それは、過酷な自然や狭い土地、不便きわまりない生活、海に生きる糧を求めるしかない、辺境最深部の地としての地方であった。だが、昔も、壊滅的被害をうけた今も、ここから逃げ出すことなど考えもしないで住み続けてきた、海に生きる人たちがいる。
「それでも三陸の海で生きていこうとするのはなぜですか」という新聞記者の質問に畠山さんはこう答えている。「この海が好きだからです。確かに、普通の人には理解しづらいことかもしれません。単に魚がとれるからだけじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りだとか、うまい魚介類をたべられるとかも大きいですね」
そして最後に、「津波にどう立ち向かうのか、ということよりも、海や山とどうやってうまくつきあっていくかを考える。そのことのほうが、私たちにとってはずっと重要な問題なのです」 (2012.5.5.)
●福田三津夫様
唐桑町(宮城県気仙沼市)を初めて訪れたのは1973年3月でした。当時は、宮城県本吉郡唐桑町といって、そこの町の町長選挙があって、交流(むすび)の家建設をともに進めた同志ともいうべきハンセン病病歴者の鈴木重雄さんが、故郷の地元の人たちに推されて町長選挙に立候補したその選挙応援にかけつけたのでした。
病気が快復しても根強い差別は消えない社会のなかで、この病気の病歴者だけは今でも故郷に帰ることなどできない。「もういいかい 骨になっても まあだだよ」骨になっても帰れない。療養所の中に納骨堂があるという現実。ハンセン病から快復した人が故郷の町長選挙に立候補するというその選挙が今あったとしても奇跡的なことですが、50年近く前の出来事なのでした。
選挙には僅差で敗れたのですが、その後、故郷の唐桑で知的障害者の施設づくりに奔走され、完成直前に亡くなられました。その遺志を継いだ人たちとの交流は今でも続いています。
「森は海の恋人」というスローガンで、四半世紀にわたって山に木を植え続けた海の男の牡蠣漁師・畠山重篤さんも唐桑に住んでいます。
彼のいくつかの著作や講演に魅了されてすっかりフアンになりました。牡蠣漁師なのに、といっては失礼ですが、文章は上手で、お話には引き込まれてしまいます。
東日本大震災前にもお訪ねしたことがあるのですが、わたくしが震災後に書いた文章「キイワードは『不便』」で、三つの場所・ペンシルバニア、奥会津、唐桑にふれたのですが、唐桑では畠山重篤さんのことを書いています。
添付します。お読みください。
マーク・トウェイン作「トム・ソ―ヤ」は、子どもの時だけでなく、大人になってラボ教育の仕事をしていたとき、谷川雁(らくだ.こぶに というペンネームでの)の再話による『わんぱく大将トム・ソーヤ』が発刊(1977年)されて、それを題材にした表現教育に集中した時期があったことを思い出します。
大地を裸足でかける子どもたちの感性が雄大なミシシッピの川面に反射してきらめいている作品でした。
日経新聞への畠山さんの寄稿が「牡蠣とマーク・トウェイン」というタイトルで、そのタイトルに惹かれて読むと、わんぱくなトム・ソーヤが憧れたミシシッピ川を行き交う蒸気船ミズーリ号の港のニューオリンズ、そこは汽水域で牡蠣の大産地ということをはじめて知りました。
「マーク・トウェインは牡蠣が好きだったのだろうか」で文章は終わります。
新聞コピーを添付します。
矢部 顕
キイワードは「不便」
ペンシルバニアの風景・東北の風景
矢 部 顕
1.ペンシルバニアの風景
●電気を拒否する人々の村
原発事故があってから、昨年の5月ごろは、「電気が足りない。計画停電。節電だ。夏をどう乗り越えるか。…」と毎日のようにニュースで電力不足をあおっていた。今年も夏を前にして5月ごろになると、おなじことが繰り返し言われていて、電力が無いと生きていけないかのような錯覚に陥らせる。
こんなニュースに接するたびに、電気が無くて生活していた、正確には商用の電力を拒否して暮らしているアメリカのプロテスタントの小会派アーミッシュの村の生活を思い出す。電気とともに自動車も使用しないので、一般的には近代文明を拒否している風変わりな人々と思われている。この人たちが近所にたくさん住んでいる村に滞在する機会をもったことがあるが、かれらは特段に変な人たちではなく、素朴で真面目な人たちだった。
彼らは宗派として電気や自動車の使用を認めていないけれど、近代文明を拒否しているのではない。家庭で洗濯機も使うし冷蔵庫も使う。その洗濯機は小型エンジンがついているし、冷蔵庫はプロパンガスで動く。家具工場では鋸やドリルを使うが、それらの工具は電気ではなく圧縮空気の力で作動する。電気を使わないで出来る方法で文明機器を使っている。
そんなことなら電気を使うことと同じではないか、と思ってしまうのだが、そうでもないらしい。コンセントに差し込めばすべてが動くのとはちがって不便なことも多い。この不便ということがじつは大切なことのように思われてくる。日本のわたしたちの家庭のなかにおいても、いまや、コンセントに電源を差し込むだけで、あらゆるものが電気で動く。「電気を使うと人間の欲望は際限なくなる」とその村の長老は語った。
彼らは自動車の代わりに馬車を使う。馬車は鉄の車輪にこだわる。ゴムタイヤではない。わたしたちは、たとえば新幹線に代表されるように、「より速く、より遠くへ、より快適に」が近代化の恩恵だと思ってきた。不便を解消していくのが技術であり、その成果が快適な近代的な生活をもたらしてきたと考えてきた。こういう考え方に彼らは抵抗しているのだ。
「より速く、より遠くへ、より快適に」をめざしてきた私たちの社会は、ほんとうに人をしあわせにしたのか。
彼らはこう考える。自動車は地域共同体を希薄なものにする。テレビは家庭の団欒を壊す。電話は人をつなぐのではなく分断する。
家庭に商用電力がひかれていないように、電話回線もひかれていない。電話を使うときはどうするのか。道端に小さな板つくりの小屋があって、数軒で共同電話が設置されている。小屋の鍵を持っていって電話を使用する。
●欲望のコントロール
このような生活を興味深く観察していると、「不便」というのがキイワードではないかと思えてくる。人間は動物とちがって欲望に際限がない。欲望があって資本主義経済がすすみ資本主義経済がさらなる欲望を刺激してきた。しかし、今日、大量生産、大量消費、大量廃棄で成り立ってきた右肩上がりの時代は終焉した。欲望をどこかでコントロールすることがなければ資源もエネルギーも無限に必要になってくる。
アーミッシュという宗派の彼らの生活を見ていると、宗教的な理由はともかくとして、電気や自動車を使用しない生活は、際限の無い人間の欲望をコントロールする賢い知恵がもたらしたように思えてくる。
電気を使わない人々の馬車が行きかう村の向こうにスリーマイル島の原発が見えるアメリカ・ペンシルバニア州の皮肉な風景。
●便利=しあわせ、か
昨年は、日本の電力の30%を原発が担っているといわれていたけれど、今年は少々ニュアンスが違う。今年は、関西電力が15%、それ以外の電力会社は5%くらい夏の電力が不足すると言っている(??)。原発すべて稼動を停止して、電力が不足するのであれば(不足しないと言う人もいる)、不足分は停電をして不便な生活をすれば、それでよいのではないか。子どもや孫たちの世代へ負の遺産を残さない道は、それしかない。
昨年、最も便利さにあふれる首都圏で、いっとき大量の人が不便を体験した。地下鉄や電車がとまったり、タクシーがこなかったり、灯りがきえたり、コンビニにモノがなかったり、……。異常事態と報道されたが、これはほんとに異常事態なのか。東京から田舎に転居して思う、それまでの東京が異常だったのではないか、と。不便であっても「震災地の人のことを思えば……」とみんながまんしていた。結構なことだ。
「便利=しあわせ」という価値観で突っ走ってきたのが日本の戦後だったが、3・11によって「便利でなくてもしあわせ」と変わることができるか、が問われている。
2.東北・奥会津の風景
●東北はまだ植民地だったのか
東北は、もともと過酷で不便な生活を、歴史的に強いられてきた地方だ。
以前から「東北学」を提唱していた民俗学者の赤坂憲雄氏は、震災直後、「東北はまだ植民地だったのか」と発言した。
「戦前、東北は『男は兵隊、女は女郎、百姓は米を貢物として差しだしてきた』と語られてきました。国内の植民地の構図があったが、今はさすがに違うだろうと思っていましたが震災で認識を改めました」「食料もそうですし、電力は典型的です。東京で使う電力を東北が提供している。巨大な迷惑施設と引き換えに巨額の補助金がおちる。いままで意識してこなかった構造が、震災を契機にはっきりと浮かび上がってきました。きわめて植民地的な状況です。中心と周縁、中央と地方という構図が依然として東北を覆い尽くしているのです」と。
青森の三内丸山遺跡にみられる豊かな縄文文明からはじまって、以降、東北は豊穣な文化をもつ地方だった。東日流(つがる)外三郡誌」や「アテルイ伝説」にも象徴されるように、古くから独自の文化をもった世界だった。一方、古代大和朝廷からはじまった中央集権権力からすれば、まつろわぬ民の住むところであり、何度も何度もの制圧の対象であった。意識下にある怨念が現代にまで続いていることなど、みんな忘れていた。あらためて考えれば、あらゆる時代に、中央である西から弾圧や迫害を受け続けてきた東の地方であった。
●「会津学」
福島県は、浜通り、中通り、会津の三つの地方に分かれていて、それぞれ風土や文化が大きく異なる。
会津のなかでも、新潟県や栃木県に近い西南山間部は奥会津と呼ばれる。県内でも、もっとも交通の不便な過疎地域である。
この奥会津に柳津町という町があり、柳津には1200年の歴史をもつ虚空蔵尊圓蔵寺という名刹がある。その門前町の小さな旅館で開催された、市民大学というか現代の寺子屋というか講演会に招かれたことがある。農業や林業にたずさわっている人、町役場に勤めている人、こんな山奥で不思議なのだがIT企業をやっている人、若い女性の町会議員もいた。さまざまな職種の人たちが夜の講演会に来てくれた。
講演のあとの懇親会では、奥深い山村の町を活性化しようとがんばっている姿がよく窺われた。不便な地であったがゆえに、伝統的な暮らしの営みが残っていて、その価値を再発見しようとしている人たちであった。この雪深い山里の暮らしの文化を、聞き書きしたり、記録したり、次の世代に伝えようとしている会津学研究会というのがあって、この研究会に参加している人が多く来てくれていた。『会津学』という名の、ぶあつくてりっぱな研究誌が年一回発行されていて、その内容の質の高さに驚いた。この研究会の指導者は赤坂憲雄氏だった。
●「東北学」の提唱者
誇るべき東北の、あるいは、忘れられた東北の、歴史、地理、風土、文化、生活などを掘り起こし、中央にはない価値を見出そうと「東北学」なるものを、赤坂氏は以前から提唱してきたことは知っていたが、民俗学なら当然のことなのだろうが、こんな山奥の地の人々のなかに入りこんで、心を通わせながら学問をつくりあげてきたことに、あらためて感心した。
彼は自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」といい「フィールドワーク」とルビを打ちたいというような感覚がある、と誰だったかが言っていた。東日本大震災復興会議のメンバーに選ばれたことの意味は大きい。東北再生には彼のようなまなざしが必要だ。
この奥会津の山の民は、3.11大震災で被災した海側の浜通りの海の民の避難先としての受入れ活動を積極的に行っている。
3.東北・唐桑半島の風景
●海の民のDNA
東北三陸沿岸の人々の生きる力に圧倒される。今回の震災で、宮城県の最北端の漁業の町・気仙沼も壊滅的な被害を受けたが、まだその先の辺境の地・唐桑半島の津々浦々の漁師町も全滅していた。
奈良の大倭紫陽花邑のいちばんの巨木はヒマラヤ杉。交流(むすび)の家の竣工式のときに、記念植樹として鈴木重雄さんが植えたものだ。鈴木さんは、当時、長島愛生園にいたが交流の家建設運動にたいへんに大きな貢献をした。唐桑は、いまは亡きその鈴木さんの生まれ故郷。
鈴木さんから連なる旧知の人々がみんな奇跡的に生き延びていた。フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)は、3月下旬から現地で復旧支援のワークキャンプに駆けつけた。若くない私も、瓦礫撤去や家財の整理などほんにわずかな手伝いしかできないけれど駆けつけた。無常というか、運命というか、言いようのない惨憺たる光景のなかにあっても、現地の人は「こんど来るときは、おいしいお魚を食べにいらっしゃい」とあかるく言う。絶望のはての希望なのか。自然と向きあって生きてきた海の民のDNAゆえなのか。
●森は海の恋人
「森は海の恋人」というスローガンで四半世紀の間、森からの養分が川を通じて海を豊かにすることを重視して、山に木を植え続けてきた牡蠣漁師の畠山重篤さんも唐桑に住んでいる。2012年2月、世界の森林保護に取り組む国連機関「国連森林フォーラム」は「国際森林ヒーロー」を世界で6人を選び、そのうちの一人が畠山さんだった。「漁師が森林ヒーローなんて・・・・」と語っていたとか。
彼も、唐桑のほかの人と同じく津波で壊滅的な被害を受けた。牡蠣養殖いかだ70基、船5隻、車両5台、牡蠣の作業場、加工場、冷蔵庫、製氷機など、金額でいえば2億円以上が波にのまれた。最愛の母も失った。
「震災前、フランスから来た牡蠣業者が気仙沼湾をみて『天国のような海だ』と賞賛していましたが、私たちからすれば、ここは『天国と地獄が共存している海』なんです。ここに住もうとする限り、津波という『地獄』を受け入れなければならない。三陸に暮らす者は、必ず壊滅する宿命を背負っているのです」
死んだと思った海は、予想を超えた短い期間で生き返った。イワシの大群が湾の奥まで押し寄せてきた。海の復元力に、海のことを知りつくした彼でさえ改めて驚いたという。
「これだけ海に痛めつけられても、海を憎んでいる人は一人もいない。三陸地方の人々は、津波で家族や仲間、家を失っても、ここに住み続けてきた。それはなにより、海が豊かだからです」(朝日新聞のインタビューに応えて2012.2.22)
少し高台にあったためにこの集落で唯一波にさらわれなかった畠山氏のご自宅に、昨年の4月お見舞いに訪れた。そのときには、被災から2ヶ月も経ってないのに、杉の木の丸太を切り出し、支援のボランティアとともに牡蠣イカダづくりをはじめていた。彼の行動が、この地の人々の気力を左右することを鋭く自覚したうえでの、イカダづくりの作業開始だったと思う。
●それでも海で生きていく
気仙沼は有数の漁業基地として有名だが、三陸地方には同じように海に生きるしかなかった町がいくつもあって、それがみんな壊滅的な被害をうけた。歴史的にも、好漁場としての三陸沖に面したこの地方は、中央にたいして大量の食料資源としての魚介類の供給地としての地方であった。
最初に私が唐桑を訪れたとき、バスの通ることのできる道はなかった。気仙沼から連絡船で行くしかない、まさに陸の孤島であった。三陸地方の津々浦々の町はみな同じようなものである。それは、過酷な自然や狭い土地、不便きわまりない生活、海に生きる糧を求めるしかない、辺境最深部の地としての地方であった。だが、昔も、壊滅的被害をうけた今も、ここから逃げ出すことなど考えもしないで住み続けてきた、海に生きる人たちがいる。
「それでも三陸の海で生きていこうとするのはなぜですか」という新聞記者の質問に畠山さんはこう答えている。「この海が好きだからです。確かに、普通の人には理解しづらいことかもしれません。単に魚がとれるからだけじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りだとか、うまい魚介類をたべられるとかも大きいですね」
そして最後に、「津波にどう立ち向かうのか、ということよりも、海や山とどうやってうまくつきあっていくかを考える。そのことのほうが、私たちにとってはずっと重要な問題なのです」 (2012.5.5.)