後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔168〕私は『声なき人々の戦後史』(鎌田慧、出河雅彦)をこんなふうに読みました。

2018年02月06日 | 図書案内
  前ブログでは『声なき人々の戦後史』の出版記念会の様子を「他人のふんどし」で相撲を取りましたが、いかがだったでしょうか。今回は本の内容に触れていきたいと思います。
  その前に、この本の凄さを示す事実があります。
  「日本最大の図書館検索・カーリル」をご存知ですか。全国の図書館や大学などにはどのような本が入っていて、どれくらい貸し出されているか検索できるサイトです。一例として、東京の公立図書館と大学にどれくらい入っているか調べました。ちなみに、公立図書館と大学を区別しているのは東京だけです。
 比較のために、連れ合いや私の本も一緒に並べてみましょう。『声なき人々の戦後史』は昨年出版されたばかりの本ですが、かなり多く図書館に入っているだけではなく、驚異的な貸し出し数だということがわかります。〔( )貸し出し中〕

・『声なき人々の戦後史、上』鎌田慧、2017年、東京都46(31)、東京(大学)38(1)
・『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』福田緑、2013年、東京都29(0)、東京(大学)39(1)
・『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』福田三津夫、2013年、東京都2(0)、東京(大学)16(3)

 さて、『声なき人々の戦後史』の書評や紹介も多く書かれています。藤原書店のサイトにはそれらが部分的に短縮して再録されています。
 4つの書評を見つけました。紹介しましょう。いずれも素晴らしい書評です。


■権力に抗する精神の記録 (東京新聞 2017年8月20日)
[評者]米田綱路=ライター
 先ごろ著者の故郷、青森県弘前市を訪ねた。ここ津軽地方は葛西善蔵や太宰治を生んだ文学の揺籃(ようらん)で、著者は二人の評伝を書いている。津軽は鳴海完造や秋田雨雀(うじゃく)ら、ロシア文学とも縁が深い。上京して働いた著者は、早稲田大学の露文科に進んだ。背景には津軽とロシアの文学世界があり、それが労働経験とともに、「声なき人々」へのまなざしを培ったのだと実感した。
 著者は高度成長期のモータリゼーションに追われた都電撤去のルポを皮切りに、労働現場で合理化に追われ、開発で土地を追われる人々の声を伝え続けてきた。半世紀におよぶ仕事を語った本書は、戦後日本の稀有(けう)な記録者の軌跡だ。国政や大企業を頂点とする政治経済史とは対極の民衆史、自立と相互扶助を希求する精神史である。著者が大杉栄伝を書いたのも頷(うなず)けよう。
 大杉の言葉「諧調は偽りなり」は、著者が描いた「自動車絶望工場」や「教育工場」などの人間管理の現実を指す箴言(しんげん)である。権力に自由を奪われ、判で押したように同じことを言う大勢への警句である。著者の仕事はそれの具体的な実証であり、個性の統制への反証の記録として読むことができる。
 北九州の製鉄所の下請けで働き、弘前からの出稼ぎとして働きながらルポを書いた著者は一九七〇年代に巨大開発の現場へと向かう。とりわけ下北半島のむつ小川原開発と、千葉の成田空港建設は、住民に対する国策の身勝手さを示す典型例だった。前者の二十年にわたる取材は『六ヶ所村の記録』にまとめられた。後者について著者は私に、建設反対運動の中であえてメモを取らなかったと語ったことがある。本書でその事情を知り、ここに著者のルポルタージュの核心があると悟った。
 誰のために何をするのか。その問いは取材者をこえ、誰と協同するかを明確にする。国鉄の分割・民営化で切り捨てられた労働者、原発の立地に抗(あらが)う住民の記録もそうだ。本書は書かれざる社会的深層の現代史でもあるのだ。

■変革を模索するマグマが噴出 社会に問題を投げかけた反逆のルポ50年
評者:関 千枝子(ライター) 週刊読書人(2017年10月2日)
 これは鎌田さんの仕事(ルポルタージュ)史である。戦後、“豊か”になり、一億総中流と多くの人が思い込んでいた日本。その裏側で貧しい労働現場の実態、企業へのしがらみで公害の実態も口に出せない人々、差別で人権無視の被害にあう人々…。声の出せない人々の立場にたつルポを書き続け、社会に問題を投げかけた。反逆のルポ50年。これはまさに、そのまま「もう一つの日本の戦後史」だと思った。
 鎌田さんは、弘前の高校を出て、上京して工場で働く。印刷工場で組合を作り賃上げ闘争をするが偽装解散全員解雇、その撤回闘争を通じ、文章で社会問題に関わろうと早稲田大学露文科に入学したのが1960年。安保反対闘争のデモにも行ったが、大学の生活協同組合のニュース編集の仕事をしたのが「物書き」の基礎となっているようだ。
 その後、業界紙(鉄鋼新聞)、月刊誌(新評)の記者を経て、30歳でフリーのルポライターとなる。対馬の鉱山の「隠された公害」の現場報告をする。企業の切り崩しで労働者も地元農民も物が言えず、泣き寝入りの状況にあるのを掘り起こし、汚染田の完全覆土までこぎつける。「書き続けることの意味」を理解し、ここから原発につながる「開発」の問題点も知る。このころから40年以上も六ヶ所村に関わり続けている。

 鎌田さんの作品でまず有名になったのは労働の現場の実態のルポだが、現場に入り、自分でその労働を体験し、書く。『自動車絶望工場』は1972年トヨタの季節工になった実体験だ。時は高度成長期、トヨタは、驚異的な日本経済驀進の先頭に立つ企業である。だがその労働の実態は、ベルトコンベアーの前で5時間ハンマーを振り回し、手首や指が痛み、日記も書けないほどだ。仲間は数日でやめてゆく。青森で一緒に応募し友人になった青年は夜勤の仕事中に意識を失って倒れ、そのままクビになる。鎌田さんは期間満了まで働くが、人事の人の話では、満期まで働いたのは鎌田さんひとりだったらしい。
 鎌田さんは日記をそのまま本にして出版し、大宅壮一ノンフィクション賞で、最終選考まで行くのだが、審査員に、取材がフェアでない(潜入取材)とか、自己体験だけだという批評をされ、賞をもらえなかった。しかし、潜入した自己体験でなければ、コンベアに振り回される労働のきつさ、実態が分かるだろうか。きれいごとの「ノンフィクション作家」でなく、「ルポルタージュライター」という(下巻15章)鎌田さんのこだわりは、このあたりから来ているのかも、という気がする。
 その後も、教育の現場(管理教育、いじめ)開発と原発、労働現場の人権侵害(国鉄民営化と国労いじめ)、悪政(成田、沖縄)、そして暗黒裁判と、ありとあらゆる「問題」に突き進んで行く。一つ一つ紹介する紙数がないのは残念だが、そのどれもが弱いもの、切り捨てられたものの立場から、差別に怒り、変革を模索するマグマが噴き出ている。
 最後に、この本の成り立ちを、下巻の一番最後のあとがきで「聞き手」の出河雅彦さんが書いている。出河さんが朝日新聞青森総局長だった2014年3月から2016年3月まで、朝日新聞青森版に、インタビューによる「ルポライター鎌田慧の軌跡」に加筆したのがこの本というのである。これも驚きである。郷土の出身者だが、一ルポライターの足跡を連載(88回も)するなど、新聞の常識では考えられない。それに鎌田さんは原発の問題などで朝日新聞の有名記者と相当やりあった人でもある。青森版という地方版だからできたことかもしれないが。現役の新聞記者にもすごい人がいるな、と感心した。

■さんにんぶろぐ ホンスミ 2017/7/21
 鎌田慧のノンフィクションを初めて手に取ったのはたしか高校生の頃で、『教育工場の子どもたち』だったと記憶している。鎌田はそれ以前に、期間工としてトヨタの労働環境の実態を取材した潜入ルポ『自動車絶望工場』を手がけている。そして『教育工場の子どもたち』では、トヨタで行われている徹底した「合理化」「省力化」が、同じ愛知県の教育現場でも踏襲されていることを暴いた。いわゆる「管理教育」である。子どもを人間扱いしないその在り方を、鎌田は「教育工場」と揶揄したのである。
 まさに僕はその愛知県の「教育工場」で生産された。そこでは「教師からの暴力」が日常茶飯に行われていた。忘れ物をすれば、容赦なく平手打ちをされ、ときには「精神棒」なる木の棒で尻を叩かれた。「服装検査」と称して体育館に集合させられ、規則に違反しているものは大きなラシャバサミで前髪を切られる。「校内暴力」という言葉が飛び交う時代だったから生徒も荒れていた。教師の側も必死だったのかもしれない。それでもそこは「教育の場」とはとてもいえなかった。しいて言えば軍隊だ。
 僕が不思議に思っていたのは、一人一人の教師は尊敬できる人たちだけれども、集団になるとたちまち狂った行いを平気でするようになることだった。漠然とではあるけれども、何か大きなシステムのようなものに取り込まれたとき、人は往々にして常軌を逸する。そんなことに気づかせてくれたのが鎌田の著作だった。愛知県といういびつな街で育ち、いびつな教育を受けてきた僕自身の立ち位置と行くべき道を、鎌田のルポは(いささか大げさな言い方になるけれども)指し示してくれた。
 『声なき人々の戦後史』とあるがこれは、鎌田自身がこれまでの取材人生を振り返ったものである。青森での少年時代から上京し、業界新聞記者、ルポライターとなるまでの経緯と、そこから手がけてきた数々の取材の履歴が詳細に記されている。興味深いのは、長く労働問題に目を向けてきた鎌田の仕事が、たしかにタイトルの通り「声なき」労働者たちの「戦後史」となっている点である。急激な経済発展を謳歌してきた日本だが、その一方で低賃金や公害問題など〈立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたもの〉のなんと多いことか。鎌田の目を通して見えてくる戦後日本は、とてもいびつで暴力的なものである。その延長線上に、いまだ僕たちはいるのだ。

■レイバーネットTV
★「声なき人々の戦後史」鎌田慧
 鎌田慧のこの本は驚きの連続だった。私が『新日本文学』の編集部にいた60年代頃より彼をルポライターとして知っていたが、彼は十代のころからすでに労働争議を体験し、花田清輝と出会い、その影響を受け、至る所の労働現場に潜り込み、生活の資を稼ぎながらルポ活動を展開してきた。トヨタの『自動車絶望工場』はその代表作だが、社会の底辺からその矛盾を告発しつづけた。原発の危険性もずっと前から声を上げていた。著書も160冊余りにのぼる。これは鎌田の貴重な集大成の書であり、生きた「戦後史」である。(木下昌明)


  ところで、とても幸運なことが実現しました。私が、おそるおそる「鎌田夫妻を囲む読書会」をお願いしたら、なんと慧さんが引きうけてくださったのです。超多忙の慧さんが時間をつくってくださったのです。ご厚意に甘えたのは、清瀬・憲法九条を守る会、清瀬・くらしと平和の会のメンバー数人でした。『声なき人々の戦後史』をざっとでも読むというのが参加の条件でした。もちろん、ざっと読むことは出来ない本であることはすぐにわかってくるのですが。
 実は、慧さんを囲む会の1回目の読者会は鎌田慧評論作品をめぐって、さらに、沖縄のビデオを見て語る会と今回で3回目を数えていました。

 今回の読書会はそれぞれ読後感想を語ることから始まりました。
 順番で私が話したことは、ざっとこんなことでした。
 元教師の私にとっては鎌田ルポルタージュ、鎌田文学への最初の接近は『教育工場の子どもたち』に代表される教育関係図書から始まったのです。そして次に葛西善蔵、太宰治、鈴木東民、坂本清馬、大杉榮など5人の評伝を読み、とても感銘を受けました。とりわけ興味深かったのは『自由への疾走』の大杉榮でした。鎌田評伝の白眉はこの本だと思っています。したがって、鎌田本、全130冊のなかのお気に入りの1冊は『自由への疾走』です。大逆事件当時の新聞や手記など様々な資料を駆使し、臨場感豊かに事件を再現してくれました。まさに劇画を彷彿させてくれるものでした。(詳細はブログ〔87〕参照)
「半世紀におよぶ仕事を語った本書は、戦後日本の稀有(けう)な記録者の軌跡だ。国政や大企業を頂点とする政治経済史とは対極の民衆史、自立と相互扶助を希求する精神史である。著者が大杉栄伝を書いたのも頷(うなず)けよう。
 大杉の言葉「諧調は偽りなり」は、著者が描いた「自動車絶望工場」や「教育工場」などの人間管理の現実を指す箴言(しんげん)である。」
 前掲の米田綱路氏の書評が鋭いところをついています。
 1章を読んで米田氏の文言が私の頭の中で繋がりました。それは、ルポライターに至る道について書かれたところでした。ここでは少年時代の逸話も紹介され、自身がどもりであったことなども告白しています。興味深いことに読書歴などにも触れられていて、シェークスピア、ゴーリキーなどもかなり読み込んだことが書かれていました。なるほどと、ここで合点がいきました。鎌田評伝はかなりドラマチックな要素が散りばめられていますが、その下地を学生時代に培っていたのでした。

 代表作の『自動車絶望工場』の潜行取材の顛末を読んで、『原発ジプシー』(堀江邦夫、現代書館1979)を思い出していました。潜行取材の元祖は実は鎌田さんだったのです。取材方法がフェアではないという批判もあったようですが、妻子3人を抱えた鎌田さんは働きながらの取材するということは当然の成り行きだったのです。そして仏訳にいたる顛末が興味深く読ませられるし、英訳や数カ国語への翻訳のエピソードがまさにドラマだと思うのです。アメリカでの翻訳出版の臨場感は半端ではありません。
 狭山事件へのかかわりの件は、実に興味深いものがありました。私は狭山市に在住していたときに狭山事件現地調査に参加して石川一雄さんの無罪を確信しました。当時、野間宏の『狭山裁判』(岩波新書 1976)を始め、狭山事件に関する書籍をむさぼるように読みました。あとから出た鎌田さんの『狭山事件』を嬉しく読んだものです。

 常に、一貫して底辺にある人々に寄り添い、彼らから学んだ集積が鎌田ルポの特徴です。そしてこの2冊は鎌田「山脈」の全貌を捉えるものになっていて、ざっとは読めない本なのでした。
 もう少し、家族について触れられてもいいのではと思うのですが、出版記念会でお連れ合いの公代さんが花束を渡され、慧さんが感謝の言葉を述べられたということでよしとしましょう。


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