7月4日は楠木正成の命日である。
本日は南北朝時代の英雄、楠正成の命日だ。楠木正成か楠正成かはまちまちだが、後醍醐天皇の腹心の大忠臣である。祀られるのは、兵庫湊川神社だが京都にも所縁の場所は多い。
太平記に詳しく書かれているが、尊氏と後醍醐天皇が決別した時、正成はその間に立った。新田義貞の政治的・軍事的能力の限界を知った正成は、尊氏との協調を進言する。(尊氏の征夷大将軍宣下を後醍醐が行えば良かったのだ。)結局、新田義貞と源氏の覇権争いの様相を呈したのである。結果西国から多くの軍勢を率いて都を目指した尊氏軍と最終決戦を行う。
攻められやすく守りにくいのが、京都盆地の特徴だ。政権が安定しない限り安住の場所ではない事を、正成は知っていた。そこで、事前に都を一時明け渡すことを主張するが、後醍醐と義貞に退けられすでに死を覚悟しての合戦だった。湊川の合戦である。
墓は、湊川神社内にあるが、水戸光圀が墓石を建て国の忠臣に奉り上げた。「嗚呼忠臣楠子之墓」と直筆している。さらに明治には「大楠公」と称しその後の皇国史観の中心人物に仕立て上げられた。逆に尊氏が「大逆賊」におとしめられる。
京都における正成ゆかりの地は、笠置山である。元弘の乱で兵をあげた後醍醐天皇は、笠置山で名のある武将に声をかけたが、なかなか集まらない。その時の夢告で、
「庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思った。」夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、その名の武将を呼び寄せた。呼ばれた正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾したという。劇的な話だが後世の創作と思われる。笠置寺は京都府相楽郡笠置山にあるが、行者の修行の山で「弥勒磨崖仏」という崖に刻まれた仏像が有名だ。ISに爆破されたバーミアン遺跡のようなものだ。
また、息子の正行と南北朝を戦った義詮(尊氏の息子)は、何と同じ寺(宝筐院)に墓がある。地下で二人はどうしているのだろうか。?