7月25日 鹿ケ谷安楽寺 カボチャ供養
左京区鹿ケ谷の安楽寺では、夏のこの時期にカボチャを炊いてふるまわれる。それは中風除けとも言われる。京都では、大根焚きとか、こんにゃくなど炊いてふるまう行事が多い。
鹿ケ谷カボチャはひょうたんのような形だ
いずれまとめて見たいと思っている。さて、安楽寺は「鈴虫松虫寺」とも言われる。なぜか?
法然が始めた浄土宗は、一般庶民を巻き込んで爆発的に広まった。その後の親鸞聖人の浄土真宗につながる専修念仏の考えは庶民には、真言宗のように苦行修行を強制されない為一気に広まった。比叡山は再三圧力を加えるが止められず、遂には幕府や朝廷も禁止の方向に傾く。その後の歴史上で「一向一揆」など政権を揺るがすことを予め懸念したと思われる。時代は後鳥羽上皇の時代、上皇の熊野詣での留守中に女官である鈴虫松虫の二人が、安楽寺の住連坊・安楽坊の二人のもとで出家した。
二人の僧は法然の直系の弟子で声明に長けていたと伝わる。つまり若く男前で良い声だったのである。出家した女官二人は、上皇帰洛後、直ちに呼び戻され僧二人は処分された。出家意外に密通の疑いもかけられたのだ。鈴虫・松虫という屈辱的な名前もその為に改名されたと筆者は想像する。
後に、建永の法難と言われる大事件で、法然と親鸞も遠島とされ浄土宗最大の危機を迎える。住連坊・安楽坊の二人は死罪となるが、その前に「羅切」という刑を受けている。羅切とは字の通り男根を切る事である。中国の宦官とはやや違う。宦官は皇帝の近くで仕える為、女性と性交出来ない様に睾丸共々切除する。羅切は陰茎のみ切断する事で刑罰の為に行われる。日本でも仏教の修行の為、どうしても私欲に勝てず自ら羅切を行う僧はいたらしいが、実際は男色に走る事が多かったようだ。羅切はそれも出来ないので刑罰として相当行われたようだ。
死罪の直前に羅切を行うのは相当な怒りを買ったものと思う。その後法然は亡くなり親鸞が許されて京都に浄土真宗を始める事となるのはまだまだ先の話だ。
安楽寺の山号は「住連山」という。ちゃんと安楽坊・住連坊の名前が残っている。当時は鹿ケ谷草庵と言って名もない念仏道場であった。