25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

事故というもの

2019年09月28日 | 文学 思想
 捜索にあたっていた自衛隊が任務を終えて去って行った。警察、消防、ボランティア、仲間がさらに引き続いて捜索する。美咲ちゃん。7歳。我が孫娘と同じ年齢である。
 よく通っていた料理屋のご主人が旅の宿で、姿を消した。同じように捜索したがすぐに見つからなかった。見つかったのは一か月も過ぎた頃だったと思う。風の噂で聞いたのだった。美咲ちゃんは生きているかもしれない。以前少年が生き延びて助かったことがあった。

 人の身におこる不条理な事故は想定外のことばかりなのだろう。自分には起こるはずもなかった事故。父の妹はお腹の子とともに、扇風機に感電して死んだ。亡くなった妹は二人の長女と長男がいた。長女の子供は幼児の頃、鉄道事故に遭って、死んだ。
 事故。通り魔殺人も事故に遭ったのと同じようなことだ。

 大事な人を失うということも、突然に失うよりも、徐々に知って、徐々に覚悟を決めていけるほうがよい。突然の事故はショックが大きくて、喪失感よりも巨大なショックだと思う。そしてやがて深い喪失感がくる。
 周囲の知り合いを見渡しても順風満帆で人生を歩んでいる人など数少ないような気がする。なにかとある。
 毎日のテレビでの考えないられない悲惨な報道を目にする。旧約聖書にあるヨブ記のようだ。それでも我々は生きてゆく。

お墓のこと

2019年09月26日 | 文学 思想
次の仕事までに合間があるので、自分の榎本家用のファイルを整理しておいた。ぼくはこのファイルにして One Drive(Cloud)に残し、SDとPCに置いておくつもりである。
 墓は要らないと考えているし、墓というものは人があまり移動しない時代のもので、祖先を象徴するものであるが、墓よりもすぐに祖先の敬意やつながりを感じたいとか、親に対して敬虔な気持ちでありたいのなら、パソコンやタブレット、スマホのようなもの

でよいと思っている。自分の家の墓が寺の裏山にあるが、仏教僧侶の世話にもなりたくないので、墓には入れるな、と細君には言ってある。
 宗教については個人の救済という面ではりっぱなこともあるが、おおむねぼくは宗教教団は限りなく善にも近いと言いたい人もいるだろうが、ぼくは限りなく悪に近いと思っている。キリスト教やイスラム教、仏教のしてきてことをなぞるだけでおぞましい。それで「個人の救済」ということを考えれば、カウンセリングもあるし、グループに参加することもあるし、宗教も出入り自由、教団への忠誠や縛りがないならそれでよいと思う、という考えを持っている。

 というわけでぼくの場合のお墓はパソコンにあるファイルなので、そこにぼくの父や母、妻、娘、息子、孫、友人など折々の強い印象のある写真を選択して放り込んでいる。そこで、母が持っている古い写真はスキャンしてこれも残して置こうと思い、スキャンした。
 自分としては 
  乳幼児期、小学時代、中学時代、高校時代、1年の浪人期、大学時代(途中ロンドン期間)、山海塾時代、カーネル出版時代(途中シアトル期間)、BBT(Bali Book Tree) 時代、その後の時代とある。すべて自営なので、雇用されるということはなかった。
 仕事を起こすとういのは性分に合っているらしいが、完成してしまうととたんに次のことがしたくなるという塩梅で、この性分が困ったものだった。しかしまあ、ここまでやってきた。
 これからはアプリのバージョンアップを図りながら、販売をしていくという仕事がある。さらに砂漠の緑化という目標がある。ブログの整理は毎日コツコツと校正している。
 
 保存された写真を見ていると、実に多くの人と会っている。元気でいるだろうか、と一枚、一枚を画面に出して見た。PCが普及するまでの写真はない。何枚かアルバムから取り出してスキャンしておこうかと思っている。

 骨? 砕いて海にでも捨ててくれればよい。他の物は断捨離しておこうと思っている。

 別に、ぼくの気持ちが老いたわけではない。もうすぐ死ぬという予感があるわけではない。意気軒昂である。覚えなければならない歌も。読まなければならない本も、観なければならないものも、山とある。

愛の夢とか

2019年09月21日 | 文学 思想
 ぼくは男で、女の人が妊娠して、子供がお腹の中で大きくなっていくときや産んでからの女性の心情とか、感覚、こころの具合はよくわからない。
 川上未映子の「愛の夢とか」を読むと、女性が思ったり、感じたりすることが、<男>と絶対的に違うんだと思わせられる。つまり川上未映子はそこに拘り、女性にしかありえないようなことを小説にしているように思える。だから読んでいくうちにわからなさが出てくる。同じ人間なのに、違うのである。これは個性が違うというのではない。女性がもつものと男性がもつものは共通するものがあるが、異なるものが根底にあるのだ、と言っているようだ。川上未映子の作品は今頃純文学と言っていいかどうかは別として純文学的だ。

 女性の書く小説で女性のわからなさをこんなに感じたものはなかった。宮尾登美子にしろ、有吉佐和子にしろ、山崎豊子にしろ、大小説家の小説の男女の描き方はワンパターン化していて、ごく普通に読めていける。ワンパターン化しているというのは男にも出てくる女性がわかるし、想像もできるということだ。
 実は女性というものがどんな生き物なのか、女性が女性の心情を掘り下げて、巧みな文にして、小説にしたいんだ、と川上未映子の気持ちはよくわかる。

 「文學界」で川上未映子の特集をやっていて、対談を読んでいた。やはり「女性」がテーマで、ぼくは対談の感覚も、出てくる言葉もあまり実感がなかったのだった。
 ようやく女性が本格的に文学をやりだした。男には未知の世界を描き始めたのだ。それも自由に。世間の眼も気にせず。

 ぼくは言語の芸術は吉本隆明の「言語にとって美とは何か」でよく納得したことがある。それは言語とは縦糸と横糸の織物のようで、「指示表出」言語と「自己表出」言語の織り合わせだと納得した。

 「 静けさや 岩にしみいる 蝉の声 」 を例にとれば、「しみいる」が松尾芭蕉の自己表出言語である。この人しか書けない。そしてこの言葉が言語芸術としてキーワードになっている。他の言葉は「指示表出」言語である。
 指示表出言語ばかりの小説は読めてもすぐに忘れるし、感動も少ない。川上未映子の文は「自己表出」言語が多い。だから短編であってもとてもよく印象に残り、なんだか考えてしまい、忘れることはないと思う。こういう小説家が出てきたんだ、と改めて思ったのだった。

老いのゆくえ

2019年09月10日 | 文学 思想
 書店に小説家黒井千次の新書「老いのゆくえ」が並んでいた。気になって手にとり、買った。帯に「人は自らにふさわしい老い方をするより他にない」とある。
 自らにふさわしい老い方か、そういえば尊敬する吉本隆明は老いてゆく日々もさらしながら死ぬまで本を書いていた。西部邁は老いることで、妻が死んだときと同じ迷惑を娘にかけまい、と自裁した。川端康成は老いてノーベル賞を受賞し、老いて若い女性に恋をし、それが原因かどうかはしらないが自殺した。川端の場合は古井由吉が「事故の顛末」という小説にした。恋をしたのがほんとうかどうかはわからないのだが。
 自らにふさわしい老い方とはどういうもんだろう、と考える。自分とは何か、と問と同じように決して結論のでない問のような気がする。自分なんて自分でもわからないように、老い方もわからない。人生の岐路はまだまだ続く。まだまだ岐れ道をどっちにするか選ばなければならないだろう。
 この前新聞広告で、「DVD世界の絶景100選」を見て、買いたいなあ、と思ったが、行きたいなあという思いが勝って買うのを止めた。バリ島で紫色の夕暮れを見たことがある。そういう珍しい風景が世界のあちこちにある。それらを見たいものだ、と思っている。これは実行できるだろうか。その中にはアメリカを車で縦断してみたいというぉともあるし、スラウェシでヤシ蟹も食べたいということもる。
 酒は自堕落に飲んでいる。休みの日というのを作れない。運動もそこそこ。

 黒井千次はすでに85歳である。ぼくなどは黒井千次に言わせればまだ「若造」だろう。昨日一番下の4歳の孫がぼくの歳になるまで、まだ65年もあるのかよ、と嘆息をついたのだった。

 5Gは次の産業革命のインフラだという。中国は今このインフラ整備を進めているという。来る日の革命のために。その片鱗くらいは見たいものだ。

 もう銃撃戦の中で、いつ弾にあたっても不思議でない歳になっている。まだ生ききったという思いもなければ、最高で思い残すこともないということもない。
 黒井千次の文でも読んで参考とすることにしよう。
 

時代は変わる

2019年09月08日 | 文学 思想
 「道頓堀で居酒屋やってまんねん」 「へえ、道頓堀ですか」。ぼくは宮本輝の「道頓堀川」を咄嗟に思い出し、ついでグリコのネオンサインを思い出した。若者が興奮して飛び込むのもこの川だった。「ぼくんとこは道頓堀と言っても一本筋がちがんですわ。常連さんばっかでやってます」と言って朝の8時に大坂を出たらしい。海が見えて、広い庭があって、こんなとこでのんびりさせたいんですわ。みな、マンションとか庭のない家で育ってますんでね」
その大将はこまめに若い子らの面倒をみているようである。ぼくに手土産までくれた。
 台風の影響が心配されたが、雨が降ることもなく幸運だったと思う。

 どうもこの9月に入ってからの客をみていると、分散してしまった仲間が一同に集まったり、今日の大将のようにやはりアルバイトで働いてくれる人を一同に集めて、自分たちでBBQをするのである。釣りをするのでもない。熊野古道を歩くのでもない。ただみな集まって同じ時を過ごし、食べて飲んで楽しむ。思えばこのようなことは旅館や民宿、ホテルではできない。 
 昔は社員旅行というのがあった。上げ膳据え膳で宴会がある。朝から酒を飲むものまでいる。まだこういうのがあるのだろうか。
 デフレ時代の遊び方は、自由に、自分たちで準備用意して、料理をし、フトンを敷き、洗面用具もタオルも持参結構というわけである。
 こういう合理的で節約の人たちが増えているのだろう。

 これももう昔の話だが、列車内で宴会をする人たちがいた。そういうグループもこの頃見なくなった(と思う)。列車が速くなったのと健康面への気遣いもあるだろうが、大声を上げたり、昼間から酔っぱらうのを奇異な目で見る人も多くなったのだろう。
 このような面では時代が変わった。

 もうひとつ変わってきたことがある。それは剥き出しの感情をSNSや電話、FAXでしてくる人が増えているような気がすることだ。それに乗る週刊誌、テレビ情報番組。危ない、危ない。

 日本は明治維新から40年で日本を近代化し、世界での地位を上げた。次の40年で日本は崩壊に歩んだ。積み立てた言論が戦争となった。戦後の40年でまた復興、成長し、GDPが世界で2位となって一億総中流社会と呼ばれるようになった。そして今は次の40年間の最終コーナーである。積み立てされた言論は本当のところどうなっているのだろう。勢いのよい剥き出しの感情の少数のものたちがこの日本列島を支配しているわけではない、と思う。

胎児の微笑

2019年09月02日 | 文学 思想
胎児の微笑・2009年12月30日(水)

 超音波診断装置を使って二十三週と一日めの胎児を撮影した。三分間の撮影で計六回。一回あたり四・七秒の微笑を胎児は見せた。その写真が今日の読売新聞に載っていた。
 ぼくらは母の心情、母を取り巻く環境が胎児に刷り込んでいく物語を「心のチューニング」で学ぶのであるが、その中で、想像でしかない部分があった。それは「息が詰まったり、悲しみを我慢したり」という微笑とは反対の表情である。微笑があるとすれば、その反対の苛酷な表情もあるはずである。
 この微笑は自発的微笑と呼ばれ、外的な刺激と無関係と見られているが、ぼくは無関係などとはいえないと思っている。
 母の愛情によって笑っているのか。人間はそれとは無関係に笑うものなんか。そのとき自律神経は副交感神経にシーゾーを傾けるのか。胎児は神経のバランスをとっているのか。

 ぼくらの体や心は過去に刷り込まれた痕跡である。新しく生き直すには過去の心も過去の体もリセットするしかない。日常の物の考え方、日常のしぐさや動き、これらをリセットすることが現在というものを変えるキーワードのように思える。
 過去の縛りから自由になること。
 どうやら人間はその手立てを必死になって考えているように思う。過去の縛りからの解放が多くの健康本、トレーニング本、カウンセリング本などとなって無意識に現れているのではないか。ヨガも、ロルフィングも、調息法も、ゆる体操も、過去からの脱皮を目指しているのではないかと思うのだ。

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 過去のブログを校正し、整理している作業を毎日2時間ほどしている。本として残しておきたいと考えるからだ。
 それにしても10年前の上の文。「胎児の微笑」を読売新聞は報道したが、「胎児の息詰まり」「胎児の我慢」「胎児の怒り」「胎児の悲しみ」についての報道がない。今もない。ぼくは母親の動悸が激しくなれば胎児もびっくりすると思う。血管を流れる音は速く激しくなると思う。母親が悲痛に暮れていれば、胎児は息も詰まると考えている。あくまでこれはぼくの想像である。
 文学作品、異常事件、その一番深いところに胎児期、乳児期の母親との関係性、母親と父親の関係性がある。だから小説も映画もそのあたりのことを書きたがる。
 昨日、詐欺集団のことに触れたが、詐欺集団に入る、受け手をする、描け人をする、店長をする、首魁をする。警察はそういう犯罪者を捕まえたら、プロファイリングをしてみたらいいと思う。できるかぎり遡って生い立ちを調べる。う~ん、これはもう警察の仕事ではなくて精神医学者とか、文学者とかの仕事になってしまうのだろうか。
 読売新聞の上記記事を書いた記者は何を思ったのか、書いてほしかったとは思う。
 「微笑の逆」もあるのではないかと。
 
 

矛盾

2019年08月26日 | 文学 思想

 宮部みゆきの短編小説集の単行本。その中の2篇を読んで、それ以上は読めなかった。題材を死刑囚の養子問題が最初の一篇。次が老人にとっての監視カメラのこと。第三篇目に入ることができず、結局止めてしまった。社会派作家と呼ばれているが、社会的ツールや施設がでてきても、小説というには人間を描かなければならない。しかも彼女の場合、推理小説家でもあるので、その期待にもそわなければならない。若い頃の「地下街の雨」は短編小説集でありながら、サスペンスと社会問題が絶妙に描かれていたと思う。読み手のこころに刺すものがあった。

 宮部みゆきの小説の腕が落ちたというわけではないのかも知れない。ぼくの関心事が宮部みゆきの今の関心事と違うから、ぼくは頷けないのかもしれない。

 「漱石の作品は何歳で読んでも、年齢なりに読めるんですよ」

 大学の生協の書店で教授が熱く語ったのを思い出す。

 今度の「よもやま話の会」は森鴎外の「寒山拾得」である。中国の二人の肩書もなく、無名ではあるが風変わりな僧の紹介話である。30ページほどの短い話である。文章としては練れてなく、工夫も凝らされていない。つまり、本来何百ページを使ってでも、このテーマを書けばおもしろいと思うが森鴎外にはその気はなかったようである。「立身出世」が若い頃の森林太郎の現世を生きるテーマであった。軍医として出世した。自分の留学時代の体験を「舞姫」という小説にした。文豪とも呼ばれた。日露戦争では「脚気」を見誤った。家では母親に楯突くことができなかった。

 墓には全くの個人「森林太郎」と刻んでくれと言ったらしい。森鴎外個人の歴史から眺めると、なぜ森鴎外は「寒山拾得」を選んで書いたのかわかるような気もするが、下手である。ぼくはそう思う。すでに「森鴎外」という名前だけで書いている。

 親が奨めた立身出世。それに応じた自分。離婚をしてまでも母親を大事にした自分。しかたないと思いながらも、「寒山拾得」みたいなものをちょこっと書いて自分を慰めたのか。「森林太郎の墓」と「森鴎外」は最大の矛盾だろうと思う。


ちばてつや

2019年08月05日 | 文学 思想

 「表現の不自由展」で警察は守ってくれないということがよくわかった。韓国にの慰安婦像があったり、天皇像を焼いたりする映像があるいうが、このくらいのことに寛容であればいいではないか。昔禁止されて、今はなんともない作品も多いが、「慰安婦」は事実を争うよりも「日本の戦争の是非」を争う象徴的像とも言える。ぼくらは深く頭を垂れ、反省し、二度と戦争などさせまい、と思うだけである。韓国や作者に怒る気持ちなどない。憤る人々が日本にはいて、その一部の人たちが熱心に抗議する。そういう人たちに現政権は近い。

 こういうことを書いていたら、ちばてつやがテレビに出てきた。「紫電改のタカ」を書いて以降、戦争物は書かなかったが、この頃、自身の体験もあり、戦争は両者、庶民もいっしょになって悲惨極まるものだ、と戦争を知らない人たちに伝えたいと、ちば一家の満州から脱出劇なども書いているという。ちばてつやと言えば「誓いの魔球」「おれは鉄兵」をよくおぼえている。コミカルでもあった。ところが「明日のジョー」は原作が梶原一樹であったことから、雰囲気が違った。二人は最後までこの漫画でコンビを組んでいたが、ちばが書き換えてしまったり、最後の終わりかたまで変えてしまったというからすごい。

かたやで、戦争はだめだというぼくらがいる。かたや、尖閣諸島をとられたらどうするのだ、という人達もいる。

 問題の解決は「話し合い」しかないのである。その前に小競り合いは絶対してはいけないのである。

 


日本はまだまだだ。情けない。

2019年08月04日 | 文学 思想

 日本はまだまだの国だ。「愛知トリエンナーレ 表現の不自由展」にテロをするぞという脅し、取りやめろという抗議の電話などがいっぱいあったというが、だいたいが少数の同じ者らがやっているのだと思う。情けないのは政治家や主催者だ。危険だということで取りやめる。警察もせい一杯守るから、と言わず、危ないからやめろと言う。表現の自由に徹底して抗議する雰囲気がない。すぐに怖じ気づく。この分では戦前の日本にいつでなってしまう。愛知県知事の大村知事などは最たるものだ。

 ぼくは20歳くらいの時期から日本に表現の自由などあるものか、と思ってきた。今も思っている。その根拠には長崎市長が天皇の戦争責任を口にしたら刺されたではないか。天皇批判をしても新聞は載せないではないか。別に天皇が悪いと言っているわけではない。批判は自由なのだ。擁護も自由なのだ。しかし脅し、脅迫、電話攻撃は卑怯なことだ。裏に暴力がある。人はその脅しに負ける。

 命を懸けてフランスやアメリカは「表現の自由」を勝ち取ってきたのである。我々はその彼らが積み重ねてきた思想に乗っかっているのである。自分たちで勝ち取った「自由」ではないから、簡単に折れるのである。つまり日本はまだまだなのである。海に囲まれた日本列島は侵略されたことがない。せいぜい進駐軍が保護してくれた程度である。この生ぬるさはよいのだけど、他国が勝ち取って、我々もそれを良しとして模範とした権利には徹底抗戦してほしいと思う。

 でないと気持ち悪くてしかたがない。

 安倍政権になってから政治環境は悪くなった。秘密保護法、集団的自衛権、権力にすり寄り、忖度する者。吉本興業も政権とウィンウィンみたいだから、この問題は火消しされるのか大きくなるのか、これからの注目点である。

 経済問題でも目が離せない。トランプの圧力でアメリカは利下げした。FRBはしたくなかったはずだ。中国貿易問題でトランプの圧力にギリギリ値下げした。日本円は高値となり、輸出業者はまた設備投資などを控えることだろう。仲がよいはずのトランプ大統領から日本はいじめられている格好だ。日米貿易問題も9月には決着することだろう。

 この国は小泉首相と竹中平蔵ブレーン時代あたりから悪くなった。彼らの責任も大きいと思う。竹中は派遣会社で役員をしている。よくやるぜ。

 


覚悟

2019年07月30日 | 文学 思想
 名前が知られるようになる。つまり有名になる。それが幸せなことだとも言えないのは宮迫博之らのトラブルでわかる。何年か前のことがフライデイで報じられる。泣いて謝罪したと思ったら、また疑惑が報道される。
 無名の人となって気兼ねなく毎日を過ごせたらいいと思うことだろう。自分に利する人に感情は流れやすいから、宮迫ちゃん、人は去ってゆくものだよ。
 忘れていたことを思い起こされた。酔っぱらっていてよく思いだせないが、どうやら自分は直営業の話にのって歌を歌い、どうやらそのお金で仲間との打ち上げ代をおごり、お釣りを財布に入れたらしい。お金みらってなかったことにしとこ、と口裏をあわせをリードした。ぉれが宮迫博之の転落だった。彼はh詐欺グループの一員でもなければ反社会的勢力のものでもない。ただの売れっ子のこの頃芸をしない芸人である。
 名と顔が知れているから、フライデイも続いてテレビも飛びつくのだ。

 ちょっとした嘘で人生が暗転した。だいたいは人生は好転、停滞、暗転の繰り返しのようであるが、どんな空間にある日突然入ってゆくか、誰にもわからない。
 慎重に用心深く生きてきた人でさえわからないものだ。そのくらいのことを覚悟しておけば、つまりはよいということだ。


文学

2019年07月12日 | 文学 思想
 今月号の「文學界」には村上春樹の短編小説2編と、川上未映子へのインタビューがあったことと、近頃の文学の世界はどうなっているのか、と思い購入した。
 買っておきながらウィンブルドンでの錦織圭の試合があり、映画「太平洋の奇跡」を観たり、さっさと酔っぱらってしまったりで、雑誌の1ページも読めていない。昼読むと必ず眠くなる。困ったものだ。今夜こそ読もうと自分にカツを入れているところである。

 50年後も読まれる作品。村上春樹の「1Q84」が思い浮かぶ。三島由紀夫の「豊穣の海」も浮かぶが、ちょっとちがうか、と思う。中上健次の「千年の愉楽」は頷く。
 50年後も生き残る作家となると、森鴎外はあと10年耐えられるだろうか。太宰治は百年後も読まれるに違いない。夏目漱石はたいへんなものだと思う。「続明暗」を書く作家がでるほどである。また「明暗」はごく平凡な男と女、その周囲にいる数人とのあれこれで物語が進むのである。ただ主人公は密かに思っていることがある。元婚約者がなぜ、突然に婚約を破棄したのかわからない。その心思いが物語を引っ張っていく。漱石のテーマの選び方と読ませていく力量である。
 この点では、三島由紀夫の「豊穣の海」の「暁の寺」は難し過ぎるように思う。つまり過剰に知識的であり、観念的である。この小説を多くの人が解る日が来るのかも知れない。
 難しいところだ。人間にはわからない脳があるということは確かだし、自分の脳でしか想像も理解も相手に対してできないだから。   

 
 
 

想定外のことがまた起きた

2019年07月08日 | 文学 思想
人が多いと何が起こるかわからないものだ。どうして頑丈なガラスが割れたのか、どうやったら割れるのか、見当もつかない。これも想定外だ。しかも割れるような場所ではない。しかし「割ってしまった」と大学生から詫びが入った。

 前回は居間側の厚手のサッシの戸がすべらなくなった。これもどうしてそうなったのかわからない。共通して、人数が多いと「考えられないことが起こる」という事実だけである。今日はガラス屋さん兼サッシ屋さんに来てもらって修理をする。当然彼らに請求書を出す。

 人間の集団の数が多くなると何かが起こることはそれをさせる人間の何かがあるのだろう。以前にはリーダーの統率が取れない、と書いた。よく中学や高校の頃に廊下でじゃれ合うみたいなことをしていた。大学生も酒が入ると、じゃれ合うことをするのだろうかプロレスの技をかけてみたり、中学生のように戻ってしまうのだろうか。さすがぼくのような齢では飲めば座っているが。

 これを防ぐ方法を考えなければならない。この7月、8月、9月の間にきっと予期せぬことが起こる。一番の心配は火事だ。次の心配はすべってころんだとかの怪我だ。次は高価な電化製品を壊されることだ。去年はあらゆる障子を外され、元に戻せなくなった。障子は破られた。炊飯器が壊れた。

 それぞれの仕事の分野にはそれぞれ人間がやってしまう想定外のことがあるのだろう。人間から見て自然でさえも想定外のことをするのに、人間も想定外のことをするのも自然と言えば自然か。
 とりあえず、これまでの例を言って、注意を呼びかけよう、と思う。

 相撲が始まった。朝乃山は場所前忙しくて稽古不足だというのに、豪栄道を簡単に倒してしまった。遠藤よ、今場所はチャンスだぞ。初日の調子でいけよ。

言語芸術家

2019年06月24日 | 文学 思想
2006年に文芸月刊誌「群像9月号」で吉本隆明と中沢新一の対談を読んだ。興味深いことを話し合っていた。その中で、中沢新一が
(チベット仏教は)心といわれているものが、潜在的な領域で働いている部分と、脳の働きや筋肉の動きを通して現実の世界にあらわれている部分とでできていて、そこには違う働きがあるということに気づかせて、それがわかってきたところで、現実化していない潜在的な心の働きそのものの探究に入っていくようにさせるんですね。若いときは難しいその切り分けが、老人になればだれでもできるんだというんです。

 脳=こころではないのだ、と納得。

 現在2019年。ぼくは当時より13年も年をとった。内臓は独自のあり方で何かを思っている。脳も独自の在り方で何かを思っている、ということが今はよく理解できる。肝臓が物を言うときがある。胃が叫ぶときもある。内臓全体のネットワークが脳ともつながって、大声を出すときもある。

 「潜在的な領域で働いている部分と脳の働きや筋肉の動きを通して現実の世界に現れる部分」をぼくなりに理解すると、
 内臓からの言葉と脳からの言葉があるということが言える。優れた言語芸術はこの2つの言葉で織りなされていて、脳だけからの小説は読後感がなく、すぐに忘れてしまう。
 文芸は強烈に内臓から発せられた言葉と脳からの論理性や、客観性を持ちえた言葉使いの匠が偉大な言語芸術家になるのだと思う。
 現在、ぼくは夏目漱石が偉大な言語芸術家だと考えている。三島由紀夫、中上健次、村上春樹も言語芸術家である。他にもいるし、作品もある。まだ出会っていない言語芸術家がいるはずだ。いつも楽しみにしている。

なかったことにする論理

2019年06月22日 | 文学 思想
 奇妙なロジックが東野幸治が司会する「正義の味方」で使われている。韓国もヴェトナム戦争の時、ヴェトナムの住民を虐殺した。だから韓国は日本に「慰安婦」、「徴用工」で文句を言う資格はない、というロジックである。読者諸兄はお気づきであると思うが、だからと言って、双方「なかったことにならない」ことは明瞭である。吉田文書が間違っていたから慰安婦問題はなかったことにならないのと同じである。南京虐殺で人数が違っているからと言って、なかったことにならないのも同様である。

 韓国の文政権への悪口もひどいものがある、もちろん、気に入らない人は多いに違いない。だからと言って韓国人を嫌うことにはならないし、戦争をしてもいけない。
 上智大学の学生がドキュメンタリー映画「主戦場」で、歴史修正主義者とそれに反対の意見をもつ同数の人へのインタビューで、歴史修正主義者たち8人が上映が始まると、上映するなどと聞いてなかった、と上映中止を求めた。ところが全員、合意書にサインしていた。しっかり契約書を読んでいなかったのだろう。上智大学の学生は用意周到に契約書を作っていた。記者会見でことごとく論破した。安部政権の誕生から、この歴史修正主義者たちがバッコし始めた。
 戦後われわれはGHQに洗脳されたらしい。大日本帝国は間違っていなかった。間違っていたなどと言えば戦地で死んだものたちが可哀想だ。ことごとく彼らは「結論ありき」で論理を組むから、その結論を補完する資料を集める。類は友を呼び、同じような人が集まる。
 ぼくはこの映画に期待しているが、圧力がかからないことを願うばかりである。
 自分が主張することに、確固とした資料と論理に自信がある人の表情の違いは大きな画面上ではあきらかなのだろう。





日々移動する腎臓のかたちをした石

2019年06月18日 | 文学 思想
 今日は「よもやま話」の日で、前々からこの日を楽しみにしていた。村上春樹の東京奇譚集に収録されている短編小説「日々移動する腎臓のかたちをした石」がテーマだった。ところが火曜日の今日がその日だったとすっかり忘れてしまっていた。
 忘れてしまった理由と思われるのは、朝、実家の家で乾かしていた草木を鋸で解体し、大きく伸びた樹木を切ってしまい、庭の草刈りをして興奮したからだと思う。汗をいっぱいかいて、昼を迎え、日清の火鍋麻拉麺を食べてさらに汗だくとなって、「なつぞら」を見たのだった。それが終わるとNHKの番組はちょっと不思議な老人の漫画家を紹介した。魔夜峰央という変わった男性だったので、好奇心いっぱいにして、彼が奥さんから習っているバレエダンスを見ていて、これはおもしろいわい、とすっかりテレビにはまって喝采していた。そこへリーダーの南さんから電話がかかった。「あれ、忘れとったよ。今すぐ行くで」と言い放ち、車で3分、公民館まで走った。
 会員のみなさんは、これで村上春樹は三度めである。「レーダーホーゼン」「ハナレイ・ベイ」そして今回の短編。
 小説の構成は練りに練られていて、主人公の小説家淳平は過去に父親が言った「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それよりも多くもないし、少なくもない」
淳平はこの言葉に囚われるのだが、読者もこの言葉ではたと自分を振り返ることになる。あるいは、この言葉の意味、つまり「本当に意味を持つ」ということがわからなく、小説の中で戸惑うしかない。解答は小説の中にあるのだろうと読み進めることになる。
 2番目の「意味ありそうな女キリエ」と淳平はパーティーで出会う。話が合う。会話は面白い。セックスもいい。淳平は「揺さぶられて」仕事ができる男である。キリエは違う。彼女を揺さぶるのは風である。淳平は彼女の仕事、本当に好きなものをテレビの中でインタビューされているキリエから偶然に知る。淳平が執筆中の不倫をしている女医の小説の結末もキリエからの揺さぶりを受けることになる。執筆中の小説の中で妄想のように、幻視のように見える日々移動する腎臓のかたちをした石は不倫関係を断ったときに消えてしまう。それはキリエは淳平にとって意味ある女であるが、キリエにとって意味ある男ではないことに気づくのと同時である。執筆中の小説の結末は淳平とキリエという男と女のメタファになっていて、小説の構成としては優れたものだとぼくは思う。腎臓という二つの臓器は男と女を表している。腎臓はひとつであってもなんとか生きられるものであり、「女のいない男、男のいない女」を暗示している。
 「よもやま話の会」は「意味ある女または男」に話が集中し、やがて、仕事、職種、年金などの話に散っていき、二時間が過ぎたのだった。
 因みに淳平の第1の意味ある女性は「神のこどもたちはみな踊る」の中にも収録されている「蜜蜂パイ」で出てくる。