ブログは「生きた証」でもあるので、思っていること、考えていること、日常の中で起こったことなど、すべてというわけにはいかないができるだけ、残しておきたいと考えている。
かねてから考えていることで「仏教」に対する人々の接し方や理解、信仰の仕方に、ぼくは不思議でしようがない思いをもってきた。寺のお坊さんがお経を唱えるが、これの意味が分からない。意味がわからないのに、なんだか、神妙になって正座している。理由もわからないのに、これがやり方だと暗黙の了解のように数珠をもって、焼香をし、礼をする。
そもそも意味がわからないのに、どうして仏教が国民的宗教となったのか。意味がわからない庶民に鎌倉新興仏教、例えば親鸞聖人は「波阿弥陀仏」と一生に一回心の中で言えたらいいんだ、というところまで言ってしまったところから、あるいは日蓮大聖人が浄土宗を批判し、「南無妙法蓮華経」による立正安国論を唱えたとき、庶民は仏教の一端でも見たのかもしれない。仏教は一歩庶民に近づいたのかもしれなかった。
今、2019年の現在、各宗派のお経の意味をどれほどの人が知り、思考停止状態となって慣習を続け、人がするからそれをしなくてはならない、という「共同幻想」は日本だけでなく、世界の至るところで、その「脳の機能」を発揮している。人類はこの問題(知らぬ間に真似をする、感染してしまうという脳の問題)を解決していないのだ。
宗教の厳粛性の雰囲気はわかるのである。天理教であっても、毎日の太鼓の音と始まるお勤めの雰囲気。人々が大きななにものかに祈りを捧げる姿も、その日、心がその祈りで安らぐことも、生きているだけの苦労も癒されるのはわかるのである。金光教とて。すべての仏教とて。しかし意味がわかっているのかとぼくはあえて問いたいのである。でないと宗教は右向けと言えば右、となってしまうではないか。教祖なり、集団のリーダーのいうことが正しいことだとなりかねない。それが宗教である。
「今までやってきたことだから」「仏様を足蹴にするようなことは言わない方がよい」「先祖を大事にせんとバチがあたる」「地獄には行きたくない。極楽に行きたい」
ぼくには全くわからないのである。
親鸞の「教行信証」もインタビューの「歎異抄」も、いくつかの書簡も読んだ。読むと、親鸞は墓も否定し、寺を作る意思もなく、まして浄土真宗を開く意思などはなかった。宗教を解体したはずの親鸞が後世に一大仏教派閥となっている。ぼくには不思議なことだらけである。
葬式仏教は終焉を迎えつつあるような気がする。戒名に位階があり、位階によって値段も違うというアホらしさ。意味のわからないお経を唱えてもらって、ハイ、お金。何がありがたいものか、とぼくは心底で思っている。だから宗教について「ひとりで祈れ!」というある知人の言葉が的を射ていた。
シーア派のイラン(ペルシャ)。スンニ派のアラブ諸国。同じ神をもつユダヤ教のイスラエル。キリスト教プロテスタントの福音派。ホルムズ海峡が封鎖されれば、米中問題さなかの中国はイランにつき、ロシアもイランにつく。アメリカ、アラブ諸国、イスラエルはイランを攻める。そうなると経済は大パニック。北朝鮮まで動きかねない。第三次世界大戦になりかねない。
こんなこともみな「共同幻想」。思考停止で「なんとなく昔からやってきたことに、考えに過剰な価値を見出すマジックにかかっているのだ。
かねてから考えていることで「仏教」に対する人々の接し方や理解、信仰の仕方に、ぼくは不思議でしようがない思いをもってきた。寺のお坊さんがお経を唱えるが、これの意味が分からない。意味がわからないのに、なんだか、神妙になって正座している。理由もわからないのに、これがやり方だと暗黙の了解のように数珠をもって、焼香をし、礼をする。
そもそも意味がわからないのに、どうして仏教が国民的宗教となったのか。意味がわからない庶民に鎌倉新興仏教、例えば親鸞聖人は「波阿弥陀仏」と一生に一回心の中で言えたらいいんだ、というところまで言ってしまったところから、あるいは日蓮大聖人が浄土宗を批判し、「南無妙法蓮華経」による立正安国論を唱えたとき、庶民は仏教の一端でも見たのかもしれない。仏教は一歩庶民に近づいたのかもしれなかった。
今、2019年の現在、各宗派のお経の意味をどれほどの人が知り、思考停止状態となって慣習を続け、人がするからそれをしなくてはならない、という「共同幻想」は日本だけでなく、世界の至るところで、その「脳の機能」を発揮している。人類はこの問題(知らぬ間に真似をする、感染してしまうという脳の問題)を解決していないのだ。
宗教の厳粛性の雰囲気はわかるのである。天理教であっても、毎日の太鼓の音と始まるお勤めの雰囲気。人々が大きななにものかに祈りを捧げる姿も、その日、心がその祈りで安らぐことも、生きているだけの苦労も癒されるのはわかるのである。金光教とて。すべての仏教とて。しかし意味がわかっているのかとぼくはあえて問いたいのである。でないと宗教は右向けと言えば右、となってしまうではないか。教祖なり、集団のリーダーのいうことが正しいことだとなりかねない。それが宗教である。
「今までやってきたことだから」「仏様を足蹴にするようなことは言わない方がよい」「先祖を大事にせんとバチがあたる」「地獄には行きたくない。極楽に行きたい」
ぼくには全くわからないのである。
親鸞の「教行信証」もインタビューの「歎異抄」も、いくつかの書簡も読んだ。読むと、親鸞は墓も否定し、寺を作る意思もなく、まして浄土真宗を開く意思などはなかった。宗教を解体したはずの親鸞が後世に一大仏教派閥となっている。ぼくには不思議なことだらけである。
葬式仏教は終焉を迎えつつあるような気がする。戒名に位階があり、位階によって値段も違うというアホらしさ。意味のわからないお経を唱えてもらって、ハイ、お金。何がありがたいものか、とぼくは心底で思っている。だから宗教について「ひとりで祈れ!」というある知人の言葉が的を射ていた。
シーア派のイラン(ペルシャ)。スンニ派のアラブ諸国。同じ神をもつユダヤ教のイスラエル。キリスト教プロテスタントの福音派。ホルムズ海峡が封鎖されれば、米中問題さなかの中国はイランにつき、ロシアもイランにつく。アメリカ、アラブ諸国、イスラエルはイランを攻める。そうなると経済は大パニック。北朝鮮まで動きかねない。第三次世界大戦になりかねない。
こんなこともみな「共同幻想」。思考停止で「なんとなく昔からやってきたことに、考えに過剰な価値を見出すマジックにかかっているのだ。