25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

One Chance

2017年09月05日 | 映画

 すっかり涼しくなった。このところレンタルビデオを借りてきて、ドラマを見ている。宮部みゆきの「楽園」、作者は知らないが「ヒポクラテスの誓い」、イギリス映画の「One Chance」と「Brroklyn」どれも大成功で良かった。

 それに毎日桑田佳祐の「がらくた」や「From yesterday」を聴いている。いいものを見たり、聴いているとなんだか元気になる。それははっきりわかる。脚本や構成について考える。セリフに注意を向ける。ストリーのふくらましかたにも目を見張ったのは「ヒポクラテスの誓い」だった。ある薬に重大な副作用があること。それだけがポイントだった。そのことを巡って、謎解きのように一話一話が進んでいく。見事だった。

 昨日見た「One Chance 」はオペラ歌手を志望する太った男が主人公で、ここぞ、というときに失敗する。いい友達と妻と母の応援があり、最後に賞金10万ポンドというコンテストに挑戦する。また失敗するのではないかとやきもきさせる。これは実話なのだそうだ。

 勇気が湧いてくる。それも創作物の力である。エンターテイメントの中には炭酸みたいにその時だけの喉ごしだけのものが多いが、勇気を湧かせるものもあるのだ、と知る。


Brooklyn

2017年09月02日 | 映画

 Brooklyn ブルックリンという映画を観た。1951年、簿記もできる姉と母を残して、アイルランドの村を出る決意をする。この村は食料品と雑貨を扱う女店主の意地悪さがだ代表しているように、噂話が好きなだけの村で狭量である。仕事も少なく、自分は上に上がっていきそうにもない。彼女は聡明学力も優秀であった。ニューヨークのアイルランド出身の神父の伝で、彼女はニューヨーク職を得ることになり、単身で船に乗り込む。アイルランド移民が多い町がブルックリンである。

 寮生活では他の女性たちより聡明だと寮母からも可愛がられ、他の女性たちは男を探すしかないのだが、彼女はデパートに勤めながら夜間も大学に通い、簿記の資格を取り、会計士をもめざす。故郷の姉にはこまめに手紙を書く。母を姉に背負わせるのにも姉に申し訳ないと思っている、

 ニューヨークでの生活に慣れてきた頃、彼女は映画を見るものの予想とおり、イタリア移民男性出会う。配管工をしている。この男とデートをするようになる。

 ニューヨークでの生活が快適になってくる。化粧もおぼえ、髪形も変わり、服装もセンスがよくなってくる。ある日、神父から知らせで、姉の急死を知り、悲嘆にくれるのだった。彼女は故郷に一時帰国することにした。恋人は兄弟三人で建設会社を作るといい、ロングアイランドの土地を安いうちに買っておきたいと、彼女にみせるが、彼女が帰って来ないのではないかと心配し、旅立つ前に結婚も届けだけはしてほしいと言い、彼女は承諾する。

 故郷に帰った彼女の母や友人は彼女がまたニューヨークにも戻ってしまわないよう姉の代わりにちょっと経理の仕事をたのまれ、有能さ発揮する。お金持ちの男友達もでき、この村の忘れていた風景がうつくしいことにも気づく。

 このぐらいにしておこう。戦争で未亡人が多い村だった。貧しさから抜け出すには同じ英語圏のアメリカが労働力を必要としていた。やがてはケネディ大統領まで生みだしたアイルランド移民。

  戦後の二つの国の背景もうっすら描き、この女性はどうなっていくのだろうと引き込ませる。文学小説を読んでいるようだった。脚本も優れていた。Brooklyn をお奨めしたい。

 



 


日本の一番長い日

2017年08月03日 | 映画

 1967年に制作された「日本の一番長い日」を息子がDVDで持ってきて、それを見た。ひと昔前見たことがある。二時間半もある長いドラマだった。

 今の歳になって映画を再びみると、見方も違ってくる。前に見たときはきっと「昭和史」もおぼろげにしか知らなかったのだと思う。

 阿南陸軍大臣の苦悩と若手陸軍将校のクーデター決行が主な物語となっている。閣議はポツダム宣言受諾も決められず、結局天皇陛下に聖断を仰ぐ。情けない話である。

 僕はこの8月15日に「明治という時代」が終わったのだと思った。外国からの侵略を阻止するべく江戸幕府を倒し、中央集権により西洋式近代化を図った。天皇に大権を与えた。統帥権なるものもあった。軍は文民統制ではなかった。軍部は肥大化、強権化した。軍部の大臣が辞任すると内閣が解散せざるをえなくなった。この制度が昭和20年の8月15日で終わった。この馬鹿らしい制度を連合軍が解体してくれた。日本人であるならできなかったであろう農地解放、財閥解体も行った。戦犯も特定された。

 本土決戦を叫ぶ青年将校の気分はおそらく今の極右の思想に流れ込んでいるにちがいない。天皇を元首として大権を与え、国民は臣下となる。明治憲法に戻そうと唱える元生長の家原理主義の人たちは一度アメリカが押し付けた憲法を否定して、いったん明治憲法に戻し、新たな憲法を作ると考えているようだ。生長の家の創始者谷口雅春の思想はウィキペディアでもわかる。この谷口正春に心酔した人たちによる「生長の家本流運動」の人物たちは学生運動で左翼から学生自治会を取り戻すことに成功した長崎大学、それに影響された若者たちが今も運動をコツコツとこまめに戦略的に行っている。安倍昭恵のような何もわからない不勉強な女性が籠池の小学校の名誉園長などに名を連ねたのである。籠池夫妻もこの生長の家本流運動家である。

 僕に言わせれば、谷口は戦犯である。戦争を煽り、戦争協力に邁進し、多くの人を死なせ、データの分析もできず、精神論だけで太平洋戦争に突入してしまった陰の重要人物である。

 もうひとつ思ったことはこの8月15日以降、近衛文麿の自殺によって実質的に藤原氏が終わったことである。脈々と天皇のそばで生きてきた藤原氏は終わったと言える。2015年版の「日本の一番長い日」はどんな風に作られているのだろう。コツコトと運動を重ねる生長の家本流運動の影響がなければよいが、と思う。

 稲田朋美の辞任の様はなんだ、と思う。これでは極右も天下はとれない。安倍を担いで、今が精一杯ということだろう。

 日本は憲法問題などが喫緊の課題なのではない。「未来の年表を見ればわかる。そこには戦後の大衆の流れ(動き)がはっきりと示されている。

 


奇蹟の数式を

2017年06月20日 | 映画

 ラマヌジャンというインドの天才数学者の生涯を描いたイギリス映画「奇蹟の数式」を見た。ときは1914年から始まった。整数が美しい絵画のごとく脳の中に公理として思いつくラマヌジャンは自分の数学研究を公表したいと、ケンブリッジ大学のトリニティカレッジに招聘されることになる。彼の才能を見抜いた近所在住していたイギリス人の紹介でケンブリッジ大学の教授手紙をだす。彼は愛する妻を残してイギリスに旅立つ。常にどうであるが、インド人とバカにする教授たち。理解する少数派の教授たち。

 ヒンズーの神を信じる彼は菜食主義者である。栄養失調状態である。彼の母親は妻に宛てた手紙を隠し、5年も手紙が来ない彼はもう自分のことを思っていないと家を出る。出てから別れの手紙を自分でだす。

 届いた時は遅かった。ラマヌジャンは結核になっている。歴史にのこる「分割数」の証明に成功、教授でもあり友でもsった男の尽力で、かれは王室研究員となり、トリニティカレッジのフェローとなるが、故郷に帰り妻の下で一年看護され、しんでしまう。わずか32歳であった。

  フェルメールという画家を描いた映画、今度のように天才数学者を描いた映画。イギリス映画はいつも見応えがある。

  ラマヌジャンもいわば戦争の被害者でもある。第一次世界大戦は多くの人が死んだ。戦争が国民国家的となったのである。ヨーロッパがメチャクチャとなった。ラマヌジャンはそんな状態のイギリスで5年を過ごし、結核となった。

 彼の研究は今、ブラックホールの謎を解き明かすのに使われているらしい。無神論者のイギリス人教授と神が公理を与えてくれる、というラマヌジャン。その会話にも惹かれた。

 

 

 


A LIFE

2017年02月28日 | 映画

 木村拓哉が外科医をやっている「A LIFE」。日曜日の夜は夜9時からNHKBSでイギリスのドラマ「刑事フォイル」があるので、まず「刑事フォイル」を見て、録画で「A L IFE」をみる。

 それで日本ドラマとイギリスのドラマをつい比較してしまう。そして、アメリカ映画とも比較してしまう。「A lIFE」はアメリカのシアトルで腕をあげた木村拓哉。親友浅野忠信が副院長をしている病院の院長の手術のために一時帰国した木村は、副院長の妻で小児科外科医である竹内結子の脳腫瘍の手術のために親友の病院に残る。

 なんというか、これは昔の昼ドラみたいで、作り手や脚本家が日本人なのか韓国人なのかわからない。心理が妙にドロドロしている。猜疑心も内にこもる。嫉妬心に身も震える。そう見ていると、アメリカ映画やイギリス映画にはそんなねちっこさがない。言うときはストレートである。

 「刑事フォイル」は第二次世界大戦中に起きる事件を扱っている。からくもドイツに勝った戦勝国であるが、戦争中の日常生活も描かれている。大戦での傷も大きい。良いドラマであり、楽しみにしている。

 

 


若村麻由美

2017年02月15日 | 映画

 相撲小説の書き直しをしている。一日2時間。多くの辻褄のあわなさやミスも目立つ。原稿用紙に700枚以上はあるので、応募する対象がない。自主制作もしくは私家本として少部数作り、知り合いに配ろうかとも思っている。

 今日は久しぶりに演劇を見に行予定である。若村麻由美が出る。「ザ 空気」 という演目である。若村麻由美、内山理名、名取裕子の僕はファンである。若村の演技も楽しみなことであるが、内容よりも彼女の顔や仕草ばかりを追っていることだろう。本当はどんな女性なもかはしらないが、一度テレビの番組で即興芝居をするのをみたことがある。即興ではなく、台本があったかもしれないが、その迫力にびっくり仰天した。この前はBSの時代劇で芝居小屋の女将をやっていた。粋で気っぷのよい役だった。「科捜研の女」では脇役として解剖医の医師でケーキを差し入れする役で出ている。念ずれば、話などできる機会はくるのだろうか。聞いてみたいことがいくつもある。役者としてはもっと伸びるはずだと思うが、どうなっているもだろう。 

 「ザ 空気」 の感想はいずれ書くことだろう。

 


映画芸術

2017年02月10日 | 映画

 オランダ映画「孤独のすすめ」(原題 マッターホルン)を見た。オランダ映画とはどんなものかと興味があった。すると、へんちくりんな物語で、主人公は敬虔なカトリック信者で、妻を亡くし、息子は同性愛者だったため、家を追い出している。主人公は6時丁度に夕食をとり、一日生活時間は几帳面に定めている。そんな彼のとことに、薄汚く、脳のおかしい男と偶然出会うことになり、一晩泊めてやることになる。かれはきちんと面倒をみる。彼がだれかがわからない。わかるまで泊めてあげることになってしまう。そんな主人公は村でホモではないかと疑われ、からかわれ、神父にも説教される。とうとう彼の素性がわかった。優しい妻が待っていた。交通事故で頭が変になってしまったのだった。かれはまたもとの孤独な生活に戻るのだが、頭の変な男は主人公の家がよいらしく戻ってくる。物語の最後に追い出した息子のリサイタルがある、と変な男妻が教えてくれ、息子のショーを見に行くことになる。息子は自分の才能を開花させている。かれは涙をながす。これでおしまいである。

 ぼくはふーんと思いながら見ていた。オランダの田舎も超先進的であり、キッチンにしても汚れたところがない。

 続いてスイスの映画「リスボンに誘われて」を三日後くらいに見た。通勤途中、橋の上から飛び込みそうな女性を助けることになる。それが切っ掛けで、リスボンに出かけ、1976年まで続いたポルトガルの独裁政権を倒そうとするグループの過去の話を聞きまわるのである。

 どちらの映画もセリフの哲学性といおうか、思弁性格といおうか、徹底している。世間話などいうものは一切ない。アメリカ映画に見られるおちょろけもない。ひたすら真面目であり、思考することが生活だといわんばかりである。

 ヨーロッパの先進国では人々はどんな風にづごしているのだろう、という関心が以前からあった。制度だけでなく、考え方にも関心があった。それで2本の映画を見てみた理由だった。マッタクエンターテイメント性はなく、むしろそんなものは要らないという風だった。映画がエンターテイメントというのはアメリカ始まる。日常生活はエンターテイメントなどそうそうあるもおではない。

 映画をひとつの芸術手段、自己表現の手段と考えている傾向があるのかもしれない。


波田須~アニメー凪のあすから

2017年01月15日 | 映画

 セラピストのための講習をやっていて、連続6日が終わり、今日一日が休みで、また明日から3日連続で講習再開である。なんと2年ぶりの講習ですが、この2二年間でさへ、科学や医学の変化、進歩にが著しいものがある。

 久しぶりに自分で作ったテキストを見、新しい情報と比べれてみる。すると、コレステロールのことも、悪玉も善玉もないということになり、血圧も180までは、薬も出さない、となっている。そしてその間にも、iPS細胞の臨床実験が進んでいる。腸を作り出すところまできていると、2日前に聞いた。

 講習生を日曜日観光案内した。波田須のカフェ天女座に入ると、なにやら奇妙な雰囲気で、このカフェや波田須、紀伊長島などの風景が背景となったアニメ「凪のあすから」の聖地になっているということで、そのファンの交流会が行われていたのだった。若者がみななぜかスマホに夢中になっている。そのうちカフェで会議のようなことが始まった。

 京都から、東京から、十人ほどの人が集まっている。へえ、と思い、感心しながら、僕らは日本最古の神社「花の巖」に向かったのだった。講習生のTさんはびっくりしたようだった。昨年出雲大社にいき、一週間前に伊勢神宮に参ったということだった。この「花の巖」は出雲のスサノウ、伊勢のアマテラスの母、イザナミを奉る神社である。しかも最古の神社であり、それに何かを感じたらしかった。

 やはり休日は必要だ。一日休めば、反省も、客観視も余裕をもってできる。明日に備えることができる。

 国道311号線を走りながら歴史の想像力が掻き立てられる。最終点の「花の巖」の巨岩は1400年前からそこにあった。静かに仰ぎ見るのである。なぜ神社をつくることになったのかを考えるだけでも楽しいものだ。ぼくは征服した側の霊を鎮めるためだったのではないか、などと考える。そして巨岩の頂上から花と扇をぶらさげた綱が七里ヶ浜まで張られる神事を想像する。花の時期に花で祭り、綱をもって神と結ばれるのである。

 そうやって休日が過ぎた。

 

 

 


べっぴんさん

2016年11月25日 | 映画

 朝ドラの「べっぴんさん」も毎日楽しみに見ている。戦争が終わってから1年、2年ほどのところが長く続いている。戦後の闇市の世界が描かれ、生きていくために自分たちのできることに必死になる主人公やその仲間たち。姉の苦悩、頑張りぬくその夫。帰還が遅くなり、世の変わり様に苦悶する主人公の夫。

 坂東営業部をレナウンからレナウンダーバンと事業を拡大していく親たちがいる一方で主人公たちは子供服に特化したブランド「ファミリア」をつくりあげていくのだろう。子供服のファミリア製品は今も高級ブランドでデパートなどで売っている。しかしながら今の時代ではお金持ちでないとなかなか手がだしにくいものだろう。子供の成長は早い。二年と着れない服をファミリアのものだけというわけにはいかない。入園式な七五三など特別な日のためにおじいさんやおばあさんがランドセル同様プレゼントするのかもしれない。

 「ととねえちゃん」は「暮らしの手帳」、「まっさん」はニッカウィスキー。この頃、事業成功物語が朝ドラで続く。「山崎蒸留所」も「余市蒸留所」も見学予約でいっぱいである。そしてどちらのウイスキーもなかなか手に入りにくい。スーパーへ行って、ぱっと買えない。品切れなのである。

 サントリーはスコットランドの蒸留所を買収もいくつも買収した。ニッカのアサヒもジャックダニエルなどを買収している。日本勢はウイスキー産業の今や中核になっている。

 まだデフレの傾向になっている。円安で輸出企業は為替差で儲けるが、その分給料に反映しない。設備投資も微弱である。一般消費者は不安な将来のために節約志向となっている。ダーバンもファミリアも今は苦しいのかもしれない。デパートの様子で日本の消費傾向がわかる。

「べっぴんさん」はどの時代まで描くのだろうか。バブルまでか、バブル崩壊までか。そんなことも楽しみである。

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釣り、照葉樹林散策、家族の集合、熊野古道散策、BBQ,鍋宴会。広い敷地。

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小池百合子 よくやってると思う

2016年11月01日 | 映画

 小池百合子都知事はよくやっていると思う。TVコメンテーターは点数などつけて、プールサイダーぶりを発揮しているが、「おまえ、やってみろ」と言いたくなる。スポーツコンサルタントは我田引水だし、埼玉県も都知事は県民の顔色ばかりを伺っているし、政治評論家は小池都知事の言動冷ややかに見ている。そういう連中はすべて男だ。

 話をかえて、韓国の朴大統領の問題だ。日本の安倍首相でもブレーンに日本青年協議会の伊藤哲夫がいる。かれも民間人であり、成長の家出身者である。日本ではこういうことは問題にならない。韓国では、民間ブレーンが利益を自分の方に誘導するからなのか、それにしても、韓国は身内の汚職が多い。これは韓国の民主主義の根元にある問題に違いない。

 日本政策研究センター(これも安倍首相のブレーン団体であるが)の提案で「明治の日」を制定しようという運動が行われている。日本青年協議会は運動の得意な団体で、元号法制も成功したから、これも相当真剣に違いない。稲田朋美防衛相などは「神武天皇の偉業を想えば・・・・」とまで発言するのだから、どうやら先に復古主義、明治憲法に戻ろうという動きがあるのかもしれない。

 僕などは日本列島人は神武天皇に代表されるものではない。天皇制はわずか2000年の歴史であり、それ以前に二万年もあるのだから、と、天皇中心の政治には違和感がある。小池百合子も「日本会議」のメンバーであることは気にかかる。ただ知事は内政をするだけだから、と思って、彼女の情報公開の透明性と官僚の責任性やオリンピック・パラリンピックの予算削減、豊洲にかかわる利権の問題など、まさに劇場でみるようにTVで見ている。

 


映画「パガニーニ」とN響まろさんの話

2016年09月07日 | 映画

  脚本家の中園ミホはフランス映画の「男と女」を100回は見たという。僕などいくら「ドクタージバゴ」が好きだからと言って、精々5回くらいのものである。「ゴッドファーザー」でも3回ほどだ。

 久しぶりで外国映画をDVDで見た。「パガニーニ」(原題 Devil's Violinist)を見た。その中で、パガニーニが伴奏をして若い女性が歌うアリアは素晴らしく良かった。ソプラノの高い歌声とパガニーニのバイオリン伴奏は清冽であり、美しい風のようであり、澄み切った小川のようでもあったが、内面の熱情をもしっかりと歌い込んだものであった。久しぶりでこんな良い歌にめぐり逢った。まだ二十歳にもならない乙女をパガニーニは好きになってしまう。しかしそれは引き離さなければならない愛であった。絶望のままに、博打に狂い、アヘンをやり、水銀中毒になっているパガニーニの愛を成就をさせられないと考える、彼の天才性を売り出す世話人の気遣いであった。

 「超絶技巧」で有名なパガニーニだが、後世の評価はやや低かった。映画や小説というのは所詮作り話である。同じ人物を立場を変えてみると、さまざまであるだろう。

 ところで、音楽のことで言えば、先日NHK交響楽団が「N響ほっとコンサート」をやっていた。第二部で「まろさん(篠崎史紀コンサートマスター)と指揮者の広上淳一の対談には、特にまろさんの言葉には目からうろこが落ちる思いだった。知っている、気がついているはずなのに、最近忘れていた、と言っていいだろうか。音楽は感性で聞くものである。これはわかる。しかしながら、自分の想像力を越えた想像力、これが楽しみなことだという風な意味のことを言っていた。

 そして自分風に面白かったのは感性で聞く音楽にも関わらず、教えるときは、「今日は暑い日でした。しかし・・・、とか そして・・・」とか接続詞があると、次に何かなって想像力が働くよね」などと演奏の仕方をしっかり言葉で説明しているのである。演奏する側は言葉の解釈と感性の磨きと技術が求められる。教える側はより言葉の操作が求められる。聴く側は感性だけでよいということになる。そんなことを思いながら、この対談を楽しんだ。  


霧の旗 山田洋次

2016年05月23日 | 映画

 松本清張の「霧の簱」は映画やテレビドラマでなんどもリメイクされている。この前もテレビで見たような気がする。昨日、日曜日、TSUTAYA でレンタルビデオ見ていたら、市川雷蔵の「殺し屋」というのがあり、珍しいものを見つけたと思い、手に取ってカバーを読んでいた。すると、「霧の旗」、倍賞千恵子、山田洋次、橋下忍という字がカバーの向うにある棚から僕の目に飛び込んできた。おや、これなら「砂の器」のコンビではないか。山田洋次はこんなのも撮っていたんだ、と興味が引かれ、「殺し屋」と「霧の旗」を借りることにした。

 おそらく舞台は昭和30年代だと思う。戦後の雰囲気がまだ道路や横丁などに残っているが、経済成長真っ只中で、どこのスナックやバーもいっぱいという時代である。現代版の「霧の旗」を見てももうひとつピンと来ないのは、時代背景の風景が違っているからか、と思う。すでに東京では車の渋滞が始まっている。成りあがっていくもの、失敗するものの差もつき始めている。飲み代は接待で落とされる。

 現在では「お金を持たない人でも弁護士が雇える制度」があるから、この時代にはまだ整備されていなかったのだろう。昔、弱者のために闘っていた弁護士は、経済成長に伴い、ブランド力のある法律事務所になっている。そこへ熊本から「兄が無実なのに死刑を宣告された。助けてほしい」とやってくる。女性はこの弁護士ならきっと味方になってくれるかもしれない、と思ってやってきたのだ。弁護士費用を事務所で聞き、「私たちは貧乏人だから80万円も払えない」という。「弁護士は熊本にもいるだろう」と言って、諭されるが、女性はこの弁護士でないと、と頑固なほどにこだわりを見せる。結局、その弁護士は一度の面会で、忙しさを理由に断るのだが、その女性が言った、「先生は弱い人の味方をして、有名になったんでしょ」という言葉が残り、一審の資料を取り寄せ、真剣に読んでみるのだった。そしてある事実に気が付く。犯人は左利きであることに気付くのだ。しかし、それで、熊本からやってきた女性の要望をきくことはなかった。

 一年後、熊本の女性(倍賞千恵子)は、ある思いを持って東京のバーで働き始める。

 ところが皮肉にも気づかせてくれた弁護士(滝田修)の愛人(これが新珠美智代であった)が偶然ある殺人現場に居合わせてしまう。そしてまた偶然、殺された男の後をつけてきた熊本の女性(霧子・倍賞千恵子)が弁護士の愛人が殺したのではないことを知っている。そして彼女は遺体現場にまた出向き、犯人の残した証拠品のライターを取ってしまう。代わりにその愛人のものである手袋を落としてくる。彼女の復讐の絶好のチャンスが来たのである。

 山田洋次の映像には、意図的に、新しく登場してきたコンクリート風景が作る陰影などを織り込み、大都会の陰影をメタファーっぽく風景にしている。橋下忍の脚本には、「霧は音をたてる」というセリフによって、「霧子がなにかをしでかすかもしれない」という予感を感じさせる巧みさがある。

 考え尽くされた映画だった。思わず、3時からの相撲中継を観るのも忘れて、観たのだった。終わるとちょうど4時だったので、相撲中継を観た。東京の観客は応援コールも慎ましく、白鵬の圧倒感で終わった。体のどこかが悪いときは他のどこかを傷めないよう、それなりに勝つ方法を考える。白鵬は違う次元にいる。

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記憶、Wの悲劇

2016年05月09日 | 映画

 記憶というものは曖昧で不確かなものである。僕から積極的にフックしようと記憶するものは海馬で長期記憶もできるのだが、自らフックしないものの記憶はほとんどできない。この前、昔、1984年に見た映画「Wの悲劇」を再度見たが、ほとんど初めてみるような気がした。三田佳子が確か犯人だと思っていたのだが、これも間違っていた。薬師丸ひろ子の歌だけはよかったので、しっかり覚えている。

 記憶はどうやら書き換えられていくようで、何がなんだかわからなくなってくる。一般的教養というのは小さなうちに詰め込んでおいた方がいい、と思う。

 高校生の頃、現代国語や古典では最初が詩や歌であった。新学期になると、今年こそ勉強するぞ、と思って、一週間くらいは真面目になるのである。だからその一週間で習った詩歌は今でも諳んじることができる。佐藤春夫の「ためいき」や三好達治の「甃のうへ」、雄略天皇の歌などは今もスラスラと記憶の箱からちゃんと出てくる。勉強してこなかったので、中学や高校で習っているはずであったことを大人になってから習いなおすこともしばしばあった。日本の歴史もそうだが、生物も化学もほとんど知らないというものだったから、残念、後悔をよくしたものだ。

 考えられないのは、東大などに入って、在学中か、卒業後まもなく司法試験や上級公務員試験などに合格する人だ。現実的な経験はないのに、理解し、暗記していく。これにはたまげる。

 考え方とか、態度であるとか、こころの持ち方とか、胆力があるかどうかとか、そういう方が大事なことであるとは思うが、勉強することの持続力と集中力もたいしたものであるから、それは羨望に値する。

 人間は生まれながらにバカにできているか、賢くできているか、8ケ月の赤ちゃんに指を差しだして掴ませると、その手の圧力と目の視線で、判断できる、と小説の中で、言っているのを読んだ。果たして本当のことなのか、怪しんでいるが、僕がその赤ちゃんだったら、強くは握っても、相手の顔をじっと見ないだろうと思う。すると僕は生まれながらバカの部類である。

 記憶力が悪いことで得することもある。よかった映画を何度も見えるし、小説もなんども読める。慎重にもなる。

 だいたいが頭がよい人というのは先が読め過ぎて、臆病でもある。行動の結果はわるはずもないのに、わかると思ってしまうのだろう。これは頭が良い上の弊害だと僕は思っている。人間は安定、安心を好み、冒険は避け、つい今のままでいい、という保守性は人間に備わったいたしかたのない、「賢さ」にある。僕は嫌いなのだが。


自分ってわからないものだ

2016年04月13日 | 映画

  小学生の頃の通知表は科目別の5段階評価で 段階が最上位最高が5で、最下位胃が1であった。僕はこの小学時代だけはオール5であった。

 鉄棒や相撲をとることが好きで、野球が流行りだしてからは野球もした。授業の合間の遊び時間と放課後が一番楽しい時間で、大人になっていくことなどは考えることもできなかった。

 当時、放課後の遊びに流行があり、カクパンやビー玉などの勝負事も流行が終わったと思ったらまた流行ってくる繰り返す時期もあった。港では鯵釣りもした。

 カクパンにしろ、ビーダマにしろ、才のある奴がいた。勉強はさしてできるわけではないが、あなどれない才能で僕はそのような才はなかった。怖い話をさせたら、芸人よりも上手いのではないか、という女の子もいた。

僕は中学に入った時、野球部にしようかとも迷ったが、結局相撲部に入った。

 何かに特に才を発揮するものもたいていはやがて中庸になる。僕は勉強の方も中庸になり、相撲でもチーム戦では中堅という位置で、とりたてて圧倒的に強いといのではなく、強かったのが三人ほどで並んでいた。

 高校に入るとますます学業がおろそかになり、卒業時には卒業ができるかどうかほどの最下位あたりにいたと思う。ギターを弾いても凡庸であった。ただクラブを作り、クラブ運営で企画を出し、オーケストラにするためにレコードを聴いて写譜をしたり、新しい効率的なギター教則本を作ったりした。大学、社会人となると、自分は何に向くのかだんだんと砂糖水が薄まっていくように、大人数の社会では、小学や中学で見る才能ほどのものは星の数ほどあるものだ、と思ったものだ。20歳ごろは急速に自分がわからなくなっていく時期でもある。

 水泳競技を見ていて若い選手がしのぎを削っている。大した才能の持ち主ばかりの中でさらにその最上位をオリンピックのために選ぶ。それを見て、今の自分を見ると、凡庸なものだ。そしてその凡庸さはどこから来るのだろうと考える。集中力?環境?縁?コミケ力?性格?

 今得意と言えるものは何ひとつない。どれを取っても凡庸である。字は下手。絵が描けない。ギターも難しいものになるとできない。歌も今ひとつ。スポーツはできない。何かの達成感もない。挫折感はある。無理して人と会うことはしない。なんだか、このまま十年も経てば死期に一段と近づいていく。運がよければ医学療法が進歩しているかもしれないが、それまでに間にあうのものだろうか。

 中庸で生きてきて、楽しいことも数多くあった。辛いことも、後悔することもしきりにあった。気分の上昇気流に乗りたいのだが、まだその時期は来ない。心の持ちようの話なのだが。 


時計じかけのオレンジ

2016年04月03日 | 映画

  三日続けて雨が降っている。1973年のロンドンで観たスタンリーキューブリック監督の「時計じかけのオレンジ Clockwork Orange」をDVDで再び観た。ベートベンの第九と超暴力が大好きな18、9の少年の話である。スタンリーキューブリックは1971年か1972年ぐらいからの近未来の社会を描きたかったのだろう。「2001年宇宙の旅」を制作した監督だから、ほぼ同じくらいの時代を想定しているように思える。この映画は多くの賞を取り、絶賛された。

 今回は、脚本に注意を傾け 、さらに、インテリアや小道具にも注意を払った。脚本では、新語のオンパレードであった。おそらくいまの70代や80代の人々が若い人の使うことばが分かりにくいように、カタカタ文字がわかりにくいように、新語を作りだしていた。しかしいくら新語で溢れても映画は理解できるし、人間の暴力性や性欲や憎悪、政治的戦略や陰謀などは変わらぬものとして、新語を越えて、あった。

  一方ですこの制作時には、まだスマートフォンやパソコン、CDなどは想像できていないようだった。作家の家には、新型のタイプライターがあり、小型のカセットテープで主人公はベートーベンを聞いていた。空調や家具は30年後以上に想像されていた。

 精神医療が人間の暴力性を抜き取ることまで成功していた。

しかしながら、最近ニュースの話題にのぼる「少女誘拐監禁事件」のような「静かな異常性」とか「マインドコントロール」などのことまでは触れず、映画は医療の政治的な利用とか、人間の自由性というテーマに収斂されて行った。キューブリックがたぶん想定した2001年はとっくに過ぎている。

  iPS細胞はどうなっていくかはだいたい想像がつく。乗り物や運搬手段についても相当にわかる。エネルギーについてもだいたいわかる。自分達が死んだあと、子供たちや孫たち、ひ孫たちの生きる時代はどうなっているのだろうと考えれば、やはり、いかなる思想が登場し、普通の人々の意識がどのように変わり、政治家はどのような振る舞いをするのか、想像がつかない。キューブリックはそこへ想像力を働かせ 、当時の世に、問題を投げかけたのだろう。