25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

アメリカ映画、たけしの映画、日本の現在

2017年12月27日 | 映画

 アメリカ映画の特撮技術というか映画製作技術には参る。世界が市場だからできることなのだろう。「プロメテウス」にも参ったが、SFもの、アクションものでアメリカ映画がぶっちぎりに圧倒する。遊園地のジェットコースターに乗っているみたいだし、二時間の炭酸飲料水かとも思う。「バットマンVSスーパーマン」は一種のゴジラ映画である。ビルなどは次々と破壊される。人間には破壊願望があるのではないかと思うくらいである。

 毎日一本は予告編をチェックし、メモして、TSUTAYAに借りにいく。

 この三十年で日本の名目GDPは1.5倍。アメリカが4.1倍、イギリスが4.9倍、韓国は17.8倍、オーストラリアは7.4倍、シンガポールは9.8倍、中国はなんと75倍である。2010年に日本の名目GDPは世界で三番目に陥落してからわずか7年で中国の名目GDPは2.5倍である。

 アメリカはますますすごい映画を作れるはずだ。中国はハイブリッドを経なくても、固定電話を飛ばして携帯に行ったように、ハイブリッド車や新幹線を作らずとも一足飛びにEV車に飛び、リニアモーターカーにいくはずだ。

 日本は経済成長は30年で1.5倍しかなかったのに歳出を2倍にしてしまった。成長産業が育たなかったのだ。しかも円高を放置していた。

 戦後日本の荒地からの復興は社会主義がもたらした成長で、それを資本主義だと言い通してきた。バブル崩壊後、戦後からの復興はすでになく、成熟した社会になっていて、停滞期が30年も続いている。社会主義から抜けるかまっとうな資本主義に入っていくかの期間が今もなお模索中と言っていいだろう。

 一方でアメリカやEUは資本主義を抜けていく状況にある。ところが資本主義の先のシステムモデルがない。資本主義の終わりに近づいているという論者もいるが、それは外の世界のことであり、日本ではまだ終身雇用制だし、正社員が既得権益を持っているし、競争原理が働きにくい制度や習慣、規制が跋扈している。

 政治家や金融業界の専門家や経済学者は何をもって毎日生きているのだろうかと思う。いいときもあれば悪いときもあるさ、悪くなったって、5,6年もすりゃ、またよくなるさ、ぐらいの鷹揚さで世を見ているのだろうか。会って、話を聞いたこともないのでわからない。

 アメリカ映画を見ていて、映像の技術進歩に驚かされるが、資金規模のすくないヨーロッパなどの映画は技術進歩よりも安上がりの映画で内容面を深めているように思える。ビートたけしの映画がフランスで評価されるのは、映像制作のIT技術ではなくて、リアルさと人間の暴力性という業のようなものと、時に見せる不思議な感覚である。そして映画に出口がない。それは日本の社会そのままを映しているように見える。

 30年で世の中は変わったのだなあ、とこの頃つくづく思う。リアルな社会の変化(成長から停滞へ)は始まったとき、ぼくはあまりその変化を敏感に感じ取れなかったと後悔、反省しきりであった。ああ、なあ、と思うばかりである。

 


それでも夜は明ける

2017年12月24日 | 映画
 
セラピスト

 50年後に残る職業として「セラピスト」がランキング4位に挙げられていた。「第4次産業革命(世界経済フォーラム ダボス会議」の発表である、セラピストとは直訳すれば「こころを癒す人」......
 

  去年はこんなことを書いていた。最近新書ばかり読んでいたが、小説も一作読んだ。「教場」という長岡弘樹の警察学校の話である。知らない世界のことだらけで、職務質問の仕方、パトカーに乗るにも4ランクの検定がいるとか、白バイのこと、逮捕術、調書など、へえ、へえというばかりであった。この小説以外は経済書ばかりだった。それに政策が絡むものもある。

 やはり、どう読んでも、どう考えても、日本政府は、あるいは日銀が、といってもいいのだが、危ない、出口もないトンネルをアクセルふかし、そこにはブレーキもないという有り様である。どう自分を守るかは、自分以外にない。

 さて、今年は山茶花の花が多く、去年剪定した甲斐があった。今年は草花も育てが、やはり樹木の花の方が放っておいてよいので、来年は草花はやめようか、と考えているが、きっとホームセンターに行けば、あらま、綺麗な花だ、などと買ってぢまうのかもしれない。

 二ヶ月ほど前に、裏庭の刈った草や剪定した枝木を燃やすのに、裏庭のドラム缶のそばに置いておいた。一ヶ月前に徐々に枯れたものを燃やしていたら、草がすでに腐葉土のようになっている部分があり、どこにはかぶと虫の幼虫がゴロゴロといた。おお、これは、と思い、孫達が来たら見せてあげようと思ったのだった。迂闊であった。一週間後再びのぞきにいくと、どうやら猪かなにかに食い荒らされた後があり、かぶと虫の幼虫は一匹もいなかったのである。柵を作ってネットでもしておけばよかった。湿った場所で幼虫は冬をすごすはずだっただろう。

 夜、「それでも夜は明ける」というアメリカ映画を見た。以前学生時代に「ソルジャーブルー」を見て、アメリカに入ってきた移民は原住民を殺して、なんとひどいことをした上での建国か、と思ったのだった。今回の映画は奴隷の実話である。アメリカも自慢のできるような歴史を持ってねえな、振り返れば短い歴史の中で恥部ばかりじゃねえか、と思ったのだった。アメリカは経済力はつけたが、何が自慢できることなのだろう。

 


明日の約束

2017年12月20日 | 映画

 ようやく、テレビドラマ「明日への約束」が終わった。この問題、つまり子供お自殺あ何が原因なのかは、20年前の神戸のサカキバラ事件で、識者の間では結構論議された。この場合は14歳の少年による残忍な他殺である。

 息苦しい親から解放を求める少年の右脳に自分だけの逃げ場所を見つ、そこでの想像が、現実侵犯にまで及んでしまった。カエルを解剖するときも、猫を殺すときも、快楽のホルモンドーパミンが放出されるという意見もあった。

 親が本気で謝り、少年とともに寝起きを共にして治療をおこなうほうがよい、という意見や、本を出した母親はまるでわかってなく、自己弁護が多いという批判もあった。

 この事件によって本来少年への刑を年齢を上げるべきだという意見もあったが被害者感情を考慮してか、ぎゃくに処罰の年齢が下がることになった。

 あれから20年。この間いくつもの少年事件があったが情報番組や新聞は事件の表層を伝えるだけで、ノンフィクション作家などに深いところのことは委ねられることになった。新聞などは真実のところまでわざといかないのである。

  昨日のドラマでは主人公である大人の女性で、しかもスクールカウンセラーとう主人公が最後に対して、家をでます、と告げる場面があった。そして、「私に謝って」というセリフがあった。原作者もしくは脚本家はきっと神戸の事件での論評を読んでいたに違いないと思った。

 完璧で正しい親というのはあり得ないと思う。母親の育て方に原因を求めれば、さらにその母の育て方と遡ることになる。昨日のドラマは「毒母とSNSで書かれる母親」の苦悩も描かれ、ある面でそれが罰となり、自分を振り返ることの契機にもなった。担任の教師は退職した。学校ウンセラーの女性も退職し、自分と母親お関係にも距離をおくことを宣言でした。

 現在のところの精いっぱいの掘り下げ方だろう。若干イライラしたが、結局最後まで見た。この種の事件はまだまだ増えることだろう。これからの事件にはさらに「格差」の問題が加わってくることになる。


鑑定士と顔のない依頼人

2017年12月13日 | 映画

ぼくにとって、20年以上ぶりくらいによい映画を観た。ずいぶん前の映画だから、今更と思う方もいるだろうが、ぼくにとっては初めてのことだ。

 「鑑定士と顔のない依頼人」という映画だ。観終わったあと、監督を調べたら、監督脚本はイタリアの人であった。イギリス映画だと思って観ていたのだが、どうやらユーロ映画というべきなのだろう。

 この映画の何が素晴らしかったかというと、老年期に入った主人公の権威ある鑑定士に若い女性から鑑定依頼の電話がある。この若い依頼人とともに物語は進んでいく。映画途中には収集した女性の肖像画もいっぱい出て来る。

 惜しむらくは、結末の意外さにびっくりと感動があるため、何度も観る映画にならないのではないか、と思ってしまうことだ。

 それにしてもよい映画だった。自分の中でベスト10の映画に入ってしまった。

 ドクトルジバゴ、ライアンの娘、ゴッドファーザー、砂の器、そしてこの映画。齢を重ねないとわかりにくい心理というものがある。すべてのことにそれを理解する前提がある。

 ぼくにはこの映画と出会い、良いと思ったのは脚本家の想像力が理解できる前提があったのだろう。顔を出さないパニック症候群の若い女性が初めて顔を見せる場面は圧巻であった。

 この前観た「プロメテウス」は「凄い」というものだった。アキ-カリウスマキの「ルアーブルの靴磨き」は「不思議な善良さ」だった。

 この頃映画をよく観るので、良い出会いもあるというものだ。


アキ カリウスマキの映画

2017年12月09日 | 映画

 アキ カウリスマキ監督の映画作品はどれもよい。フィンランドの映画監督である。「ル-アーブルの靴磨き」も秀作だcつた。見ていると、映像に違和感がある。たとえば、東条する人間はまばたきをしない。喜びや悲しみは表にださない。表情演技は抑制されている。小道具が時代とマッチしていない。このような違和感が独特な世界を作りだしている。

 現代世界の政治的テーマをあぶりだしながらも、映像が醸し出すのは悲喜劇であり、働くものの品位ある善意である。

 フランス北部の港町ル-アーブル。そこで妻に苦労をかけながら靴磨きの仕事をヴェトナム人の男とやっている主人公。その町にコンテナーに隠れたアフリカからの難民が発見される。その難民の子供一人がロンドンにいる母のもとにいくため、コンテナから逃げ出すことから二週間ほどの話が始まる。現実感と非現実感が縦糸と横糸で織られたような映像である。アキ カリウスマキ監督の個性溢れる判断。他人を真似ることのない独自の映像が堪能できる。ヨーロッパとアメリカはちがうのだ、ということもわかる。ノスタルジーも感じる。

 ぜひお奨めしたい映画である。明日は同監督の「過去のない男」を見るぞ。


映画「プロメテウス」

2017年12月03日 | 映画

映画「プロメテウス」を観た。このSF映画の画像に圧倒され、どこか謎めいた、啓示のような言葉が時々あらわれる。この映画の続きがこの9月にロードショーとなったらしい。

物語からすると、これが「エイリアン」に繋がっていくようだ。創造主を探しにいく探査機、降り立った銀河系のある星。そこに、なんと人類と同じDNAをもつ生物がいた。人類らしきものは一人を残して絶滅していた。

 SFというと、「スタートレック」というイメージがある。ところがこのSFは現実的に可能性がある、と思わせる。つまり、技術も現在の技術の延長にありそうだし、アンドロイドも2089年や2090年にはあり得そうである。

 一回見て、次の日再度見た。わからないところがあって、それを確認したいからだった。それでも初めのシーンと終わりがつながらなかった。

 2094年がこの話の最後だった。もしかしたら、孫たちが生きているかもしれない。そう思うと興味津々だった。そしてまたこの映画は文学作品を読むようでもあった。想像力と同時に、人間というものの謎が深化されていくようだった。この星の人間たちはなぜ滅び、なぜ再び地球に戻ろうとしたのか。「創造するには破壊が必要だ」という言葉は作者の最も言いたかったことなのか。

 エンターテイメントと芸術が合体したような作品だった。惜しむらくは、ぼくがファンであるシャリーズ セロンはころさずに続編に繋いで欲しかった。見ていない方にはぜひお奨めしたい。

 


釣りをして、Argo を見た

2017年11月29日 | 映画

 2、3日、暖かい日が続くと、天気予報は言うので、今年最後のカサゴ釣りに出かけた。と言っても昼の一時半の釣り開始で、食いの立たない時間帯ではある。スーパーでイワシはないかとさがしたがなく、121円でアジ買って、それを餌にすることにした。いつもの穴場である。一投目で、ちいさな子供カサゴ。これはリリース。しばらくして大きなカサゴが掛かった。次が蟹だった。2回ほど穴に引き込まれ、なんとか頑張ったが、出てくることはなかった。

 普段着で、手袋をして釣る。釣りの格好などしなくてもよい堤防釣りである。立って集中していると、時間が経つのはすぐである。一時間ほどで止めた。二匹あれば十分である。

 夜、2012年のアカデミー賞作品賞を取った「Argo 」を見た。イラン大使館が占拠され、館員の6名がカナダ大使館に逃げ込み隠れた。それを救出する実話である。イランの入管の風景がバリ島の入管うりで、帰りの票も同じで、入管のスタッフ専用のドアも同じように見え、自分も何度ここで足止めされ、出国できなかったことが三回ほどあったことを思い出して可笑しかった。

 3年前にも、仕事の相手が1時間待っても出口ゲートに姿を現さないので、これは何かあったな、と出口から入り込んで入管員のいる部屋に駆け込んだ。すると案の定知り合いが座っていた。入管員は誰かが来るのを待っていた様子だった。持ち込み現金が多すぎる、税金20万円と要求するのだった。交渉が始まった。ぼくはこの交渉にはなれているので、値切り倒して、二人を連れて出た。

 今思えば、バリ島での仕事もまるで前世で起きたことのような気がする。Argo はチェック機関を運よく、無事通過することができた。ハラハラドキドキだった。

 イスラム革命から37経っている。シーア派イランはオバマ前大統領の政府とはうまくやってきたが、トランプ大統領になって関係が悪くなっている。

 それにしてもこの映画はおもしろかった。勇気というものを考えさせられた。


ビートたけしの映画とフランス映画

2017年11月22日 | 映画

 どうしてビートたけしの映画がフランスで人気があるのか。この前2972年作品のアランドロン主演の「Big guns」を見てわかるような気がした。アメリカ映画と比較するとよくわかる。アメリカ映画は明るさと荒唐無稽さがある。アクションものでは不死身であり、結果よしよし、である、

 フランス映画はどうも結末にショックがある。滑稽味はなく、じっと暗い。殺すタイミングなどはウム言わさず瞬時である。殺し方にもフランス映画は工夫がある。アランドロンは無口な殺し屋だった。息子のためにこの仕事をやめようとする。組織はそうはさせない。生身の人間として闘う。これはたけしの映画でも同じである。

 「髪結いの亭主」という奇妙なフランス映画がある。この映画は前にも紹介した。髪結いの女と知り合い、仕事をせずに、ひたすら店にて女房の立ち居振る舞いや仕事ぶりを見ている。結末は意外であり、解釈不可能である。う~ん、と唸ってしまい、考え込んでしまう。つまらない映画だったら考え込むおことなどしないのだが、映像に引っ張る力があり、最後の1分前まで興味深いのである。それが最後の1分で、あっと言わせる。フランス映画でよくみる手法でもあると思う。

たけしの「アキレスと亀」も奇妙な話だった。この雰囲気もフランス映画っぽかった。

 ロンドンにいた頃、上の階の部屋にいた日本人の男が、彼女持つんならフランス女だよ、とぼくによく言っていた。そしてついにフランス人の彼女ができて、しばらくして日本に帰って行った。フランスの女と日本の男は相性が合うんだよ、というのが彼の持論だった。奥ゆかしさもある、と言っていた。本当なのか、と今もわからない。

 たけしの映画「アウトレイジ」はほぼ同じ雰囲気であることで、昔のその話を思い出した。何なんだろう。




九州場所の女、旭大星のことなど

2017年11月20日 | 映画

 現在、大相撲の九州場所の最中である。そして連日何年か前に書いた「九州場所の女」へのアクセスが上位に入ってくる。驚いている。NHKの大相撲放送で、やはりこの女性が目につくのだろう。正面の砂かぶりや力士が力水を次の力士に渡す場面の後ろにいる時もある。着物は毎日替えてくるし、昨日などは太い縁のメガネをかけて洋服であった。この女性が気になってネットを検索する人が多いのだろう。

 本人は意図してそうしているのかはわからない。中須のスナック「田じま」のママさんだというから、たいへんな広告効果であることは間違いない。ぼくだって、博多に行ったら行ってみたいものだ。

 相撲の好きな客が来るのか、相撲部屋の親方や協会の幹部たちもくるのか、想像するだけである。それにしてもあの座る姿勢は横隔膜や腹横筋のような体幹筋は言うに及ばず、表層筋の腹筋や背筋もしっかりしていないとできない。彼女は四時ごろにやってきて二時間ほど観戦しているから、二時間、ちゃんとした姿勢で座っていることができるのだ。そういう人は画面に映る客の中でもたいへん珍しい。珍しいから何かエネルギーのようなものが出て来て、目を惹くのである。

 着物を着て観戦する女性も多いが、着物と髪形が合ってなかったり、化粧と着物が合ってなかったりする。いわばシロウトなのだろう。彼女の場合は一人凛として座って、髪形も着物も、あっと言う洋服も見事に着こなし、髪形も化粧も様になっている。クロウトになっている。それで画面の中から彼女だけが浮き上がってくるのである。

 さて今場所。白鵬が断然強い。逸ノ城も調子がよい。荒鷲も一敗をキープしている。玉鷲もよい。モンゴル勢だ。日本勢は相撲が速くなった隠岐の海と鞠のような貴景勝くらいである。稀勢の里は取り口を変えることくらいできないものかと、器用さがないのにため息がでてしまう。愚直であり、体格だけで相撲を取っているように見える。このままだと負け越しをしてしまう感もある。親方はどんな助言をしているのだろう。

 白鵬が幕内に登場したとき、「こいつは横綱になる」とピンと来たものだった。このピンと来るのがいない。御嶽海は大関くらいにはなるだろう、とか思うくらいで、あとは朝乃山の取り口をもっと見てみたいというところである。

 ところで、旭川で柔道をやっていた18才の青年が大相撲に入り、旭国の部屋に入門した。以前にもブログで書いたことがある。部屋を逃げ出したり、稽古の厳しさに挫折しそうになった。もう八年ほど前のことだと思う。旭大星という四股名になってぼくらの前に姿を現してから、つまり三時からの相撲中継に映り始めてからもう二年近くになる。体も大きくなった。やっとあの青年がここまで来たか、と感慨深げに見て、応援している。来年は結婚するという。奥さんになる女性が栄養バランスを考えた食事を作ってくれるとアナウンサーが言っていた。彼は日曜日の時点で6勝2敗である。十両である。もしも今場所勝ち越せば、十両上位に上がり、優勝でもすれば幕内昇進もあるかも知れず、期待して見ている。だが、今の立ち合いの馬力では幕内には通用しないだろうことは見ているこちらでもわかる。もっと激しいぶつかりが必要だと思う。思わず柔道技が出てしまうこともある。少年時代の癖というのはなかなか抜けきらない。

 頑張れよ、といつもテレビに向かって声に出して応援している。

 

 


イーオン フラックス

2017年11月03日 | 映画

 「イーオン フラックス」を最初見た時は シェリーズ セロンばかりに見とれていて、あらすじだのを追う暇もなかった。監督もそれでいいよ、と言っているようだった。走る、飛ぶ、蹴る、そのすべて美しく撮っていた。

 今回はあらすじを理解する余裕があった。2400年代の話で、人類は不妊症になってしまうウィルスで地球に残るのは500万人ばかりだった。その500万人もほとんどがクローン人間である。政府は周囲に壁を作り、そのなかに人間を住まわせている。独裁的と思われている。反政府組織がある。実は独裁者はなんとしても不妊症を治す薬の開発がすすめ、元の人類世界を作りたいのだ。独裁者を暗殺する指令を受けているのがシェリーズである。そのターゲットまでたどり着き、殺そうとしたとき、独裁者はキャロリンではないか、と暗殺者に向かって言う。暗殺者に、なにかしらの動揺が起きる。そして殺せない。結論を言えば、独裁者は元夫なものだ。そして彼は組織内から解任されようとしていた。新薬の開発に反対する現状維持の勢力である。

400年後の世界では300歳を越える人もいた。目や耳には微粒のデバイスが組み込まれている。秘密の情報は液体飲むことで、情報が発せられ、自分だけに聞こえる。

 とまあ、こんなものだが、人間の脂肪と筋肉、下肢、上肢

頭部、目、鼻、唇は美しいものだ、とつくづくまた思ったのだった。


シェリーズ セロン

2017年11月01日 | 映画

  シェーリーズ セロンという南アフリカ出身のハリウッド女優がいる。「モンスター」デアカデミー主演女優賞をとっている。彼女は人類がこれほどまでに美しい肉体をつくるものかと思えるくらいプロポーション、スタイルがよい。

「イーオン フラックス」ではその身体の動きと顔の美しさが堪能できる。

2017年10月の彼女の新作があり、スパイアクションものだというので、映画館に見に行きたいくらいだ。彼女はその美しい身体を保っているのだろうか。

 最近洋画をよく見る。見ていなっかたものに秀作がある。ようやくアカデミー賞主演男優賞をとったという、デカプリオの「レヴァラント 蘇りしもの」をみて、俳優の苦労がよくわかった。映画全部が雪と雪山であり、凍土であり、川であった。どれほどのロケを行ったのか、デカプリオの執念のようなものを感じた。最後に復讐を成し遂げるのだが、賞への執念を感じざるをえない。

 夜はまたシャーリー セロンの「イーオン フラックス」を見て、身体をまたよくよく観察して、感嘆することだろう。

 


セッション

2017年10月15日 | 映画

 思えば、親子である種のスポーツ競技を幼い頃から励んできたゆえの成功者が世に出ることがある。成功するものはわzかばかり。成功に及ばなかった彼ら、彼女らはどのようにこころの始末をするのだろう。陽が当たるほんの一点。その他は影の部分である。彼らは陰をどう生きるのだろう。

 アメリカ映画の「セッション」は親子とは関係のない話である。主人公は音楽大学に通うドラマーである。ジャズのフルバンドでその腕を発揮し、ドラマーで食っていきたい。高校の教師である親はミュージシャンという職業に敬意を払っていない。

 彼は一人のカリスマ的な教授に呼び出され、フルバンドに加わることになる。ここはしのぎを削る場である。教授は口汚くののしり、無能だと、言いまくる。視聴者にはわからないわずかなテンポの速さや遅さにを敏感に感じとる教授。かれは好きな人とも別れて、練習に練習をする。教授についていこうとする。それでも教授は彼の腕をなじり、クソミソに言うもである。集合場所に到着するにも、運悪くバスが故障し、レンタカーで行くにも最早間に合わない、というところで交通事故を起こす。それでも彼はコンサートで演奏する場所に向かいドラムを叩くのだ。手、指は動かない。バンドを台無しにしてしまう。ほとんど彼は狂ってしまっている。

 父親は教授を訴え、教授は大学を辞め、町のジャズバーで演奏をしている。彼は茫然とした日々を過ごしている。彼の闘いはこれから始まるもである。

 ピアノ、バイオリン、絵画などで生きていける人は数少ない。どこかで折り合いをつけなければならなくなる。その折り合いをつけるかどうかの線上をこの映画は描いている。

 複雑な感想を持ったが、彼は口汚い教授との闘いを克服したのであった。それはプロになる者の一人である。音楽とはこれほど難しいものなのか。浮かべるは友の剣道八段への挑戦。狂うしかないのか。映画はそう言っていた。

 

 


a perfect world など

2017年10月11日 | 映画

 昔みていなかった映画をBSなどでやっているので、時々見る。最近で言えば「the rock」。これは完全無欠な孤島にある刑務所がアメリカ海兵隊の一部グループに乗っ取られ、そこからサンフランシスコに毒ガスを撃つぞ、と脅迫するストーリーである。いわばジェットコースター映画である。この刑務所の内部通路をよく知る人物は元イギリス諜報員で、アメリカの刑務所に収監されているショーンコネリーである。

 彼に道先案内を頼むしか、サンフランシスコは救えないのである。このショーンコネリーがあまりにも格好いいのである。素晴らしい男であった。007 が年をとってでてきたようである。伸びた髪の毛を短く整えるシーンは圧巻であった。

 もうひとつ見た、「a perfect world」である。クリント・イーストウッド監督作品である。ケビン・コスナーが脱獄囚役で、逃走にエホバの証人を母にもつ少年を人質に逃げるロードムービーである。脱獄囚は悪い男ではないと徐々に感じ始める少年。善意で食事と宿泊を提供してくれた男の家族といるなかで決定的な事件が集約的に起きる。

  ひとつの純文学を読むような映画であった。脱獄囚の生い立ちが、一宿一飯を与えてくれた男が子供を虐待するところを目の当たりにして、脱獄囚はキレてしまう。脅して息子に「愛しているよ」と抱いて言え、もっと心底から愛していると家と迫る。少年んがとった行動はこの事件を悲しい結末に導いてしまう。

 最近みた映画でよかったと思ったのは、トルコ映画の「雪の轍」。それよりもいい映画だった。

 ショーンコネリーみたいになるにはどうしたらいいんだろう。つい思ってしまう。


宮藤官九郎

2017年09月20日 | 映画

 宮藤官九郎の脚本は面白い。昔のテレビドラマである「流星の絆」を連続して見た。本来は両親が殺されて残された兄、弟、妹三人が復讐を遂げようとするミステリードラマである。宮藤官九郎は一時間で終わってしまうようなあらすじに、ハチャメチャに滑稽にした妄想係長をいれたり、セリフに原作の東野圭吾では考えつかないものを入れたりして、ドラマを明るく引き延ばしている。

 「ひよっこ」の岡田惠和の脚本も優れたものだと思うが、「あまちゃん」のときの宮藤官九郎もよかった。日本では才能ある二人の脚本家だと思う。

 そう言えばテレビドラマというものをほとんど見ない時期があった。最近は気に入りそうなものを探しだして見るようにしている。「流星の絆」は二宮和也や戸田恵梨香がでていて、9年前おもである。彼らもこのドラマの時期から9歳年をとっているのか、と思う。そしてぼくの9年前はバリ島によく通っていて、ドラマでは大河ドラマ以外は見ていないなあ、と思い起こしてみる。

 どれでTSUTAYAに行き、探してみようかと思う。それは、なんだか時代の流れをドラマを通して再確認したいような衝動である。またあのころ切迫していた状況の中で欠けたピースを探してうめるような、そんな衝動である。

 

 

 

 

 


深夜食堂

2017年09月12日 | 映画

深夜食堂」のような市井の一人間を上からでもなく下からでもなく、同じ立ち位置で人ならだれでももっているような思いや、ちょっとした出来事、深刻な出来事などから人のこころの機微を表しているTVドラマは珍しい。

 奇抜なストーリーやファンタジーで染まるNHKや民放のドラマであるが、7年前からひっそりと始まったこの30分ドラマはついにシリーズ四までDVDで発売することになった。ついでに映画が二作できてしまった。

 その深夜食堂の名前は「めしや」という。夜中の12時から朝の7時までの営業時間。酒は2本まで。材料があれば作って欲しい料理があれば作ってくれる。オムライスに思い出がある人がいる。ハムカツに幼い頃の弟のことを思い出す人がいる。卵焼きとソーセージが好きな男がいる。

 人にはそれぞれの思いがあり、人生がある。それも時にわき役陣がユーモアで、時にしんみりとなって一回、一回の主人公の顛末を描くのである。作者の安倍夜郎とはどんな人か知らないが、庶民のこころの有り様を探っている。韓国でもリメイク版がでていている。

 やはり、「あいよ」というマスターの小林薫の存在が大きいように思える。繁華街街の路地裏にひっそりと佇む「めしや」と「客たち」。なにか昔よく言った「いろは」を思いだすなあ。

 じわじわと人気が広がっているのだろう。