3252 25年ほど前に、仲人をした。その子供、何歳か、小さいときに二三回、会って以来、名前も顔も覚えていない。その子が21才だとか。太田化工の社長の息子だ。太田化工を継ぐために、どこかで、見習い仕事をさせておきたい、自分の会社で修業させるのも親として、他の従業員の手前、やりにくい、ということで、日本のどこかというわけにもいかないから、インドネシアでどうかというので、一年ほど、面倒見てほしいというので、今日の面接で、本人の覚悟を聞くことにした。
http://otaenplaext.net/newpage110.html
VISAの申請と収得、その後について書かれている、参考にと、伝えた。
本人、行きたいモードになっていて、3月末には、現地の現れるよう段取りをするということで,まとまった。
昨日、仕事が私に来てしまっていると書いたが、今日も、PT.KOHNOという、ボトルの上に着くポンプを作っている会社はから、どう思ったのか、インドネシアから電話が入った。こことの付き合いはかれこれ20年くらい前からで、ポンプの下から、ボトルの底近くまでのチューブで、KITAGAWA AFMI(TPR)、MUKUTA,そして、NANBUと私がいる場所に、注文がついてきていた。それぞれが、私がいなくなって、何かと問題が起きてしまったからだ。そして、今日、NANBUで、問題が続いてしまっているから、何とかしてほしい、という、電話だった。
ただし、この中のMAKUTAについては事情が違っている。
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0012.html
PT.KITAGAWAで、私を追い出したあと、押出部門が立ち行かなくなって、私が手伝い始めていた、PT,AFMIで押出部門を引き取ってほしいので、仲介してほしいと、本社から、頼まれて、仲介したが、インドネシアの社長同士が、私や従業員の希望を無視して、条件を決めてしまったので、移ってきた、従業員のポジションや給料、そして、退職金に関して、不満が爆発して、直ぐに、キタガワからの従業員は辞めてしまった。サー困ったのは、北川から、移動した客先だ。装置はあっても、AFMIの技術者では、できない。
そこで、私が資金を提供して、作らせた会社がMAKUTAでした。キタガワからの従業員と客先を引き受けるためだった。そして、AFMIの社長から、私は、追い出された。
その後、南部の当時の社長から、インドネシア進出の話があり、KITAGAWAの撤退後を仲介した。実際には、撤退にてこずっていて、あきらめて、その背中合わせのマレーシア系のオリエンタルという会社を紹介し、そちらに、入ったときに、MAKUTAをNANBUにすべてを売った。射出などが入る前、押出部門だけ、稼働させ、利益を上げて、その他の部門が進出する先駆けとした。いくつかの客先は、私が移動する会社に移動してきていた。
昼間、今年一杯で閉店をするというホームセンターへ行ってきた。何日か続いていた賑わいは、なくなっていて、前の道の渋滞はなくなっていた。ザクロと無花果の苗を買った。
50年ほど前に、日本で初めて作ったエッジングとスパイラルチューブです。
移動 後継者 見習い