3259 敷地から、ちょっと狩野川側に下ったところに、独身寮があった。仕事場から2分ほどの距離だ。とにかく、会社の中に常にいたようなもの、仲間のほとんどは、一緒に仕事をする田舎からの先輩たち、そして、夏は沖縄からの、そして、冬は東北からの出稼ぎ者、そして、私の一年後には、山陰からの集団就職の若者、二三年は、毎年、5~7人入ってきた。様々な人種、言葉が、分からず、面白かった。入社して半年後の10月には、組合の教宣部長、(この時、後に独立して富士プラスチック精工の塩崎さんが組合長だった、押出の上司でもあった)そして、寮生の代表にさせられた。張り切って忙しく動き回りだしていた。仕事は勿論、組合のこと、そして、会社の総務がやる仕事の手伝いもした。会社の催しには全て関わった。安全週間、品質管理月間、社内球技大会、社員旅行、誕生日会といろいろなパーティーなどの準備、切り回し、なんでもかんでも、頼まれれば、コーディネートした。一年半後に副、二年半後に組合長、三年後に三交代から出て、押出部門の係長がいない係長補佐として、押出の全てを任せられた。
その間、仕事の方では、半年もしないうちに、私が技術的に一番になっていた。提携で当てが割れた装置を使って、チューブ、プルファイル、丸棒などの素材を作り出しでは、皆さんを指導できるようになっていた。次々と新しい樹脂が日本に現れた時期で、私にチャンスが、どんどん与えられた。enplaextエンプラエクストである。インジェクション、射出成型用の樹脂ばかりだったが、それを使って、押出成形をするのだった。原料を作る側も当時は、押出成形には、MI(メルト インデックス 溶融粘度)が、それ用でなければならないということを知っていなかった。ABSやナイロン6、66樹脂を作っていた親会社の東レに言っても、なかなか、作ってくれなかった。現場で、製造にかかわっていれば、そんなことは、直ぐに指摘できることだが、出向できている上司も、必要性を理解できていなかった。それで、何故、製品が出きないんだと、怒っていた。自分がやってみろよと、何度思ったことか。
とにかく、製品がうまくできるように、私自身ができるだけ簡単に製品ができるように、様々な改良をしていた。そのことで、打ち合わせをする場はなかったし、上司の許可をいちいち取ることはなかったし、金型のメンテナンスをする部門に、私からの頼みが、上司からの依頼書など、正規のルートを省いて、直接頼み込んでいたので、彼らは、戸惑っていた。いろいろな点で、技術導入した姿から、だんだん、別物にしていった。
http://otaenplaext.net/newpage307.html ナイロンとの出会い。
チューブなど、穴がある製品の基本的金型です。ノズル、マンドレルの組み合わせですね。
また、面白い確率が出されましたね。30年以内に、7~40%の確率で、M9の大地震が起きるというものだ。懲りないなと思う。釧路辺りは、私からしてみれば、地震頻発地帯だと思う。10年間隔ぐらいでM6~8が来ているような印象だ。これらの余地はしなかった。そして、今後何回も起きるだろう、このくらいの地震の確率は言わないのでしょうか。そして、今回の予知?全く、意味不明、こんな予知なら出すなよと言いたい。人心を惑わせるだけだ。何度も書くが、日本中、いつでも、どこでも、巨大地震や津波が起きる可能性がある。そして、何度も書くが、予知していない場所で、巨大地震が起きている。それまでの、対策らしいものが、意味をなさない規模の災害が起きている。いや、何らかの対策をしていた地域なら、何も対策していなかったら、もっとひどい被害になっていたかもしれない。
MI エンプラ 予知