南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆TPS 9

2017-12-28 23:01:54 | 押出成形

 3267 静岡市は南アルプス、北岳、まである。日本で富士山が一番、ここが二番3192m、静岡市に雪が降ることは非常に珍しかったが、北岳など白根三山には、富士山とどちらが早いかというくらい、早く降る、そして積る。そして、今日、静岡に初めて雪が降った、風花も舞った、というニュースがあった。このニュース、ちょっと変、南アルプスにはとっくに雪が積もっているのに。市街地の北部に降ったのでしょうか、それとも、梅が島辺りなのでしょうか。場所を言ってもらった方がよかったと思う。

 

風花(かざはな)といえば、小学校の時、授業中、窓の外を見れば、風花が舞っていた。もう、授業どころではない。運動場に飛び出して、両手を広げて、受ける、すぐ消えてしまう。地面に落ちて、すぐ消えてしまう。空を見上げて、真っ青な中に、舞う粒を追う。静岡の平野部には、年に一回か二回だった。積もることはない。

 

 入社して5年目頃に、仕事の成果について虚しさを感じるようになってきた。やはり、親会社の東レや極貿から出向できている人たちに存在だ。35~50歳くらいで、各部署の係長、課長、部長、工場長、その間に、何人かの補佐もいた。創立間もないのだから、仕方がない、当然ながら、塩崎さん(当時、係長、私が5年目まで、直属上司、係長)以外、すべてが出向者だった。押出の課長は極貿からの出向者だった。係長補佐になっていた私は、塩崎さん(初代組合長でもあった、私は三代目)が独立してからは、その人が直上司になった。そして、私の係の範囲と課の範囲は同じだった。要するに、どちらかがいなくてもいい組織になっていた。塩崎さんが辞めて自分で始めてしまった経緯がはっきり読めてしまった。

 

会社全体の従業員からの頼られ方、私の部門の技術、取引先とのつながり、私がすべてを引き受けているという意識があった。35人の部下を纏めていた。しかし、課長さん、何もしない、給料は私の三倍、会社にいる時間も定時以下、現場にはほとんど来ない。偶に出てきて、製品がうまくできていないと、何やってんだ、というのが、口癖、自分では、何もできないのに、手を出さないのに。

 

新規の話が持ち込まれた時に、私が応対する。できるかできないか、私が返事をする、できないといったことはないが。そして、試作が始まる、うまくいかない、納期に間に合わない、どうしようと、悩んでいるとき、休日無しで、改良したり試作したりして、どうにもならないとき、お前が引き受けたからお前が悪い、と、あからさまに言う、何回か、頭にきて、その場を放り出して、工場の外に出て、会社の周りを何回か回って、頭を冷やして、戻ってきた、ということもあった。その時、その場に、その人はいなくなっている。また、挑戦をする。納期が間に合わないときは、出来損ないのサンプルを持って、客先に状況を話し、納期を伸ばしてもらう。時には、客先が様子を見に、工場に来る。その人が、私に頼んだ責任者だから、社内的に説明をしなければならないからだ。上司は知らん顔、というより、対応しても意味がないから、顔を出さない。

 

そして、やっと、これなら承認をえられると思う製品が出来上がったとき、その人が、自分が届けるといって、持ってゆく。感謝されてご機嫌で帰ってくる。その後、寸法公差や検査標準書、限度見本などを作ってからの打ち合わせは、私が行くことになる。

 

総合力が、私より少ない人が、その人が、私を評価する。たまったものではない。入社から6年過ぎた3月末日に、時の工場長に直談判、そんな事情を話して、その人を返して、自分から仕事を覚えようとする他の人に変えてほしいと。そして、一年待ちます、何も変わらなかったら、辞表を出します。自分でやりますと。それから1年、何も変わらず、何の話もなかった。そして、ピッタリ、一年後、入社して七年後、3月31日に辞表を工場長に出した。そして、4月1日は、もう出勤しなかった。その後、呼び出されて、会社へ行ったが、説得だけだった。お世話になった臼井国際の社長さんやそのほか、囲碁などで知り合いになった、他社の経営者に近い方々からも、頼まれたのでしょう、呼び出されて撤回するように説得されたが、一年、何の話もなく、辞表を出されて、慌てている工場長や製造部長の姿を見て、体裁を見繕いたいだけだと、寂しく思った。だめだ、こりゃ、私の真剣な頼みを放っておいて、決心を変えようがない。

 

半年後、やっと、離職票を受け取ることができた。晴れて、フリーになった。1966年 22歳で就職し、1970年 26歳で結婚 1973年 29歳で退職でした。7年半(実質7年)TPSに在籍した。時代だったのでしょう、新しいことに次々と挑戦ができた密度が高かった。

 

長泉町まで行ってきた。行き帰りの途中、富士川サービスエリア付近からの富士山と愛鷹山。

 

そして、この通りの右側に、私たちの家があった。今は、建て替えられて当時の姿はない。

程度 評価 辞表

 

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