3269 逃げの一手、気ままの二手目、行き当たりばったりの三手目。逃げ人生の始まりだった。将来、背負ってたつ気で入った会社から、これじゃ、できそうもいない、持ちそうもないと諦めて、ほうほうの体で逃げ出した。逃げたはいいが、逃げだしてから、何をするのか、まったく、決めていない、手を打っていない、就職先を決めてから,辞めるなどという段取りなど全く考えていない。ただただ、その場から逃げただけだった。説得する人、すべてから聞かれた。それなら、決めてから辞めればいいとも言われたが、そんなことはできないというしかなかった。
さて、どうするか、やめてしまって、考えた。妻の収入があるから、生活にすぐ困ることはい。一応それは計算ずくで、妻からの了解は得ていた。しばらくすると、どこで知ったのか、富士のポリプラのプラ研の所長から、来ないかという誘いがあった。押出に関して研究や指導をしてほしいと。また、大田区の日本エクストロンからも誘いがあった。どちらも、面接には出かけた。しかし、やはり、勤め人は無理だと思った。そして、自分で会社を始めることにした。
貯金がない。どうしよう、親にどうするつもりか聞かれていたが、開業資金を出してもらう訳にはいかない。どうしたかというと、フジプラの塩崎さんのお世話になることにした。この会社、その、二年ほど前に、私が紹介した大学同級生の小山君が、すでに、大番頭として勤めていた。しかし、彼は、営業、そこで、私が現場の手伝いを引き受けることにした。といっても、三交代勤務の現場で、私は夜勤だけ12時間、昼間は工場長?の弟さんがいた。22時から8時までだった。給料か固定で20万円だった。当時の大卒初任給が10万円だったので、夜勤で残業4時間としては、普通だと思うが、当時の29歳の会社員としては、かなり多かった。それを資金に充てた。一年半で、200万円以上溜まっていた。あと半年頑張って、それから、開業準備にかかろうと思っていた。
ところが、ある程度、フジプラも現行の生産に関しては、技術が向上し、私の存在を必要なくなってきたのでしょう。取引先(御殿場のアオイなど)や押出成形関連の装置、例えば五十嵐機械(アイメックス)など、押出機、引取機を作っている会社から是非来てほしいという話を持ち掛けられて、どうか、ということになって、面接に行かされたりした。もう、フジプラ潮時かなと思って、逃げ出した。
東プラ時代の倉庫の係長で、沼津に住んでいる人から、自分でやるなら、貸工場を持っているから、どうだといわれていた。そして、沼津の志下というところで、始めることにした。押出ライン一式、中古、100万円で準備した。当初の原料費やその他設備、50万円、トラック5万円などで始まった。仕事は、お前がやるなら、すぐに、そちらへ回すよ、という、会社から、50万円の仕事(LDPEチューブ、スパイラルチューブ用、当時は、後工程でスパイラルチューブに加工していた)が、すぐに始まった。太田化工の始まりだった。1973年4月、30歳でした。一人で始めた。
茜色の富士山
ゴルフ場にあった木。
逃げ 気儘 行き当たりばったり