南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆厚着

2018-10-15 22:28:12 | 知識

 3558 先日の日本からの友人、矢張り、日本人だと思う。暑さに慣れた私よりかなり暑がりというか、暑く感じていたようだった。天気に恵まれ、キンタマニの雄大な景色も、見ることもできたし、ウルワトゥの野外ケチャックも堪能したし、ジンバランの海岸での食事も、クタ海岸の散策も、全て、コンディションには恵まれていた。

 

車での移動が多かった。私は助手席、皆さんは後ろ、皆さんは、座るなりすぐに、冷房を強風にしていた。後ろから風の音が大きく聞こえてくる。私は、弱にして、風向きを上にしている。飛行機の中も車の中も寒いので、厚くはないが、長そでのシャツを着っぱなしだった。

 

バイクの多さには当然のように驚いていたが、バイクに乗っている人の厚着にはもっと驚いていたようだった。ほぼ全員がジャンパーを着ている。最近、急台頭してきた緑のグラブ(ゴジェック)のユニフォームも当然、緑のジャンパーだ。日焼けを嫌ってや蚊に刺されないようにと言った理由ではない。やはり、風辺りで、冷えるからだと思う。バイクの乗っていないときでも、着ている人が多いから、矢張り、寒いからか。ファッションで一時的でもない。私が22年前赴任してきたばかりの時も感じたこと、どこの服売り場もセーターやジャンパーの売り場があった。何人からか、日本に帰ったら、日本製のセーターを買ってきて頼まれたこともあった。

 

矢張り、寒いからだと思う。雨季になれば、25℃くらいの日も続く、私でも寒いと思う。私は風邪を引かないが、インドネシア人は良く風邪を引く。

ただし、足元は靴下を履かず、サンダル履きが多い。足は冷たくないらしい。インドネシア人の足は暑さ寒さに強いし、裸足で歩くことが習慣だから、足の裏は厚い、私は痛くて歩けない,土や砂利の上でも痛く成らしい。

 

マンガが鈴なりのゴルフ場、クラブやビンタローなども実を投げて落とそうとしている人が多い、この乾季から雨季に変わる時期、ポホンアピが赤いはなをつける時期でもある。サヲは、もう、店頭から消えた。

寒い ジャンパー セーター

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(^_-)-☆いろいろの事

2018-10-14 20:01:09 | 情報

 3557 先ず試作の事、まだ、完成していない。ゴルフの後、13時過ぎからパイプを切る方法にして始めた。以前、38φから28φ迄閉じてしまったもで。その閉じ方を少なくし、ちょうど30φになるよう冷却条件を色々変えてみた。厚さ、冷却水の量や冷却する場所、引取速度、それをの組み合わせを変えて、10種類以上のパイプを作った。それらに切り込みを入れて、ちじみ具合をチェックした。その中に、狙いに近いものが有ったが、完全ではない。もう1mm元が大きければ30φになる。また、金型を修正することになった。

 

昨日、バンドゥンへ行く途中、カラワンティムールのサービスエリアで給油をしようとした。セルフ給油になったという、知らせの看板があちこちに見える。ポンパ ベンシン行くと、スタンドの横に女性がいる。その女性に、方法を聞いた。ポンプの横に、切符の購入機のようなパネルがあった。ガソリンの種類はポンプできまっているので、先ず,金額を選ぶ、私は20万Rp、金額がでる。そして、現金かカードかのボタンを押す、私は現金、それを見ていた女性に20万Rpを払った。女性は、給油のボタンを押す。わたしは、給油機を取って、給油を開始した。そして、終わって、元に戻すと、領収書がパネルの横から出てきた。セルフと言ったって、給油を自分でしなさいと言うだけで、付き切りの人が居なければならない。なんだか、なっこくが行かない、変!!

 

20年くらい、インドネシアでゴルフをしているが、女性と一緒に回ったことがなかった。今日は、その、無かったことがあった。三人で回ったのだが、一人は、飛ばす人なので、飛ばさない私とカートを一緒にした。白から私がティショットをする,彼女は、歩いて、前の赤からティーショットをする。私のボールより先に行っている、だから、二打目も私が先に打つ。三打目は大体同じ場所から打つ、その、後は、私の方が、うまい。ちょっとだけ、手本を見せることができたと思う。

今日がジャバベカゴルフデビューでした。冗談を交えて、キャディーとも、話が弾んでいた。後半は、赤旗を立てた、コースの中に入っていい。VIP気分で、キャディーと一緒に大喜び、楽しく、回れたと思う。メンバーになったというから、また、いつか、一緒に回ることでしょう。

 

封印されたリッポチカランのカラオケ、7か所だけではなかったようで、ほとんど、すべてが、閉められたそうだ。それはそれだが、聞く所によると、売春など風俗関係が問題だったのではなく、営業届や許可が不行き届きだったからだとか、要するに、皆さん、お金を払ったにしても、足りなかったということらしい。そして、要求通り、払って、今日は、やっているよ。ということらしい。流石、インドネシア、レバラン、ラマダンでもないのに、イミグレの動きといい、警察の動きと言い、何か、資金をほしいことがあるのでしょうか。全て、聞くところによるとである。

 

インドネシアでちょっとしたニュースがあった。兄が妹を妊娠させた。兄は禁固3年、中絶した妹は禁固1年の判決だとか。中絶が犯罪になるらしい。イスラムでは。そんな話をキャディーとしていて、たまたま、17番にさしっ勝った時、赤いパイナップルがなるだしたのを見た。美味しいの?美味しいよ、という話の後、一人が、食べると子供をおるすことができるよ。浮氣で妊娠してしまったら、これを食べれば、直ぐ下せる、実行した人を何人も知っていると。それを、キャgヒー全員が知っていて、うなづいていた。一緒に回った女性も。へ~~~!と、聞いていた。味は黄色い普通のものと変わらないらしい。イスラムでしょ、大丈夫なの。

試作 女性 カラオケ

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(^_-)-☆こんなものだ

2018-10-13 23:07:55 | 思うこと

 3556 Tujuh Tempat Hiburan Malam di Lippo Cikarang Kabupaten Bekasi Ditutup PetugasTujuh tempat hiburan malam (di Rumah Toko Thamrin, Kawasan Lippo Cikarang, Kabupaten Bekasi, ditutup paksa petugas Satpol PP. Selasa, 9 Oktober 2018 14:40

Yakni Mulia,V2,Jenesis,Soyanggang.Halliwood,Bitterfly,Monalisa,Ruko Thamrin Lippo Cikarang

7か所のカラオケが封鎖された。ルコタムリンだから、コリアン系が多いのかもしれないね。他のルコやシンガラジャなどは、どうだったのでしょうか。人によってはビクビクものでしょうね。

 

バンドゥンまで行ってきた。相変わらず、ジャラン トールのフライオーバー線の降り口登り口の場所になっている、カラワンバラット迄は断続的に渋滞が慢性化しているし、路肩に寝転んでいるトラックも渋滞の元、打ち合わせ場所まで、予想より、1時間余分に掛かってしまった。話は、チトセ(主に折り椅子メーカー)向けのベッドのサイドバンパーだ。

「太田さん、これが、製品の図面です。何時、製品ができます?」と、いきなり聞いてきた。

やはり直接話をしてよかった。押出製品の新製品を作るときの流れ、プロセスを知っていない。その説明をした。

 

金型と製品の見積もりを出す。OKなら、金型のPOを差してもらう。その時、一部、DP(前払い)して、折らう場合もある。そこから、金型製作に掛かり、試作をし修正し、試作品を提出する。その期間が、この製品の場合、おおよそ、2か月掛かりそう。早ければ、1っか月半。試作品がOKなら、金型費用の請求書を発行する。その後、製品のPOを待つ。

重要なのは、金型のPOだ。ここから、すべてがスタートする。

 

この会社、全部を回ってみることはできないが、3M位の高さも塀で囲って有り、入口は狭いが、入ると、工場は広い、特に中華系の製造会社の特徴だ。バンドゥン、タンゲランに多い。日系の自動車メーカーの部品を主に作っている。こんなごちゃごちゃした、地域の一角、とても5Sなどと言っていられない工場、ISO?しっかり修得している。嘘でしょ、と言いたくなるほど、環境が悪い。これでも、車の部品を供給している。車メーカーの査察は厳しい、しかし、多くの部品は,こんなところで造られている。奇妙にお思う。

 

部品を日系下請けとこういうローカルメーカーから購入する。日系下請けのチュックを厳しくし、必要書類はそこで整える。ローカルメーカーからは、ただ、使える製品がはいればいい。これが、実態だと思う。こんなものです。

PO 見積もり 流れ

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(^_-)-☆もう限界

2018-10-12 22:22:23 | 情報

 3555 15時から1時間、16時半から20時半の二回停電。全く仕事にならないばかりか、ロスだけを作っている。二色成型の製品が、準備と製品化に3時間かかる、それだけかけて、やっと製品になった途端に停電、回復しても、そのまま、温度が上がるのを待つしかない、待って、直ぐ流せるかというと、そうはいかない、全て解体し、整備をし直して、セットをする。温度が上がるのをまつ。最初準備した時の二倍の時間と労力が必要になる。今日は、それをしている途中で二回目の停電だった。二回目のスタートをしていなくて幸いだった。ただし、今週は火曜日にも停電があった。この製品だけで、原料ロスは20kg5000円程になる。従業員2日分の給料だ。

 

今日は、昨日完成しなかった試作に取り掛かっていた。朝から準備し、試作に取り掛かった、間もなく寸法公差内になろうかという時に、停電、そして、電気が戻って、温度が上がって、スタートをした。これは、試作なんで、コンタミや異物や変色していても問題ないから、解体、整備は必要ないから、そのまま流せる。そして、また、成功直前部門にマティランプ、再度と電気が来るのを待ったが、暗くなって18時になっても回復しないので、今日はあきらめた。

 

他、二ラインも解体整備が必要だったので、私が帰るときには止まったまま、20時半に電気が来た。家と工場は同じ停電地区、夜勤で生産が再開されるが、製品になるのは24時を回るだろう。

 

ャガイモ、芋もそうだが、日本のものと比べると大きいし、凸凹が少ないし、何より安い。硬さは中間、

限界 駄目だ 最後

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(^_-)-☆生き生き

2018-10-11 23:12:42 | 

 3554 水を得た魚のよう。ナンブで抑えられていたものが解放され、新しい製品、新しい装置を生き生きとした様子で、作り始めている。私に来る仕事は後を絶たないし、断ることもない。私自身ではできないこともある、例えば、ローカルの機械加工屋さん、装置作り屋さんとの細かい部分の会話、注文など。彼がやってくれるから、私は眺めていればいい。私がやろうとすると、私がやるという。今迄のところではそうはいかない。まず、出来ないと断ってしまうから、彼がしたいことをする機会がほとんどないからだ。

私は、彼の能力を分かっているし、何かあったときには、私がバックアップするし、責任を取る、資金的にも心配はかけない。だから、彼は、より積極的になれる。

 

従業員全員への話も、私が言うより数倍以上の効き目があるし、理解しやすいはずだ。非常に助かっている。ただ一つの利益が上がっている押出部門の存在をないがしろにして、携わっている従業員の気持ちを理解しないで、場当たり的な言い訳しか客先にしない経営では、やる気はなくなるし、機会があれば、止めて、別の場所に逃げたいというのは、誰だって思うこと。そして、彼は、その場所に移った。そして、彼の動きを見ると、ナンブでどれだけ抑えられていたかが理解できる。

 

今日は、二ラインで試作をした。ヘニー君とディキ君、それぞれで、パラアマントベッドとホギだ。見ていて楽しくなってしまった。私は二ラインを行ったり来たりしながら補助をした。手伝いをした。彼らの手が届いていない場所で何となく、手を出した。こんな優秀な助手はいないぞと思いながら。

 

 

一つは完成したが一つが明日に持ち越しだ。

ナンブのジャカ君から電話が入った。立ち上げがうまくいかない製品についての相談だ。ディキ君がいなくなってしまったので、私に相談だ。勿論、アドバイスをした。太田さん、僕もそっちへ行っていいかと聞かれた。正式名はジャカリア君だ。

試作 助手 し甲斐

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(^_-)-☆夢の中

2018-10-10 22:24:17 | 

 

 3553 チカラン地方の工業地帯の現状チェックから始まって、キンタマニまで、5日間、慌ただしく、あっという間に過ぎてしまった。

 

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page237.html

 

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page236.html

 

2011年、単独でバリへ行った時の記録です。今回、皆さんと歩いた場所と重なっています。

 

 

 

ツアーコンダクターとしての役割は、何となく、果たせたと思う。平均年齢は後期高齢者、皆さん、ロング ロング アゴーのクラスメート、当時、そのままに、動き回ったら、とても持ちそうにないので、皆さんの行動速度に一番、気を使った。はぐれないように気を使った。特にバリ、初日の夜のウルワトゥのケチャッでの混雑ぶりを酷かった。こんなに入れるなよ、と思う。

 

 

 

食事に気を使った。日本食は最初から避けようと思った。せっかく、インドネシアへ来ているのだから、日本食以外で、お腹を壊さないだろう食事をしてもらうことを気にした。インドネシア料理が主だが、揚げ物、炒め物、煮物の色々を食べてもらった、スープ類も色々試してもらった。皆さんの評判は、押しなべて、良かったと思う。アッサム、マニスの料理が気に入ったようだった。日本に無い味付けなのかもしれない。ゴレン、バカールなども覚えてもらった、ガドガドも結構いけるらしい。私が辛い物が苦手なので、辛くしないように頼んでおいて、何種類かのサンバルを添えてもらった。皆さん、それらを付けたり混ぜたりして試していたが、これも、それぞれの好みで、美味しそうに食べてくれた。

 

 

 

最終日、バリの空港のレストランで、日本ではちょっと食べる機会がない料理だからと思い、ソ ブントゥットゥやミーアタムを食べてもらった。結構、大きな肉も入っていて量的にも食べ甲斐がったようだが、味を気にいったようだった。で、ブンブーについて話もした。

 

すでに、皆さん、手で食べるようになっていた。最初の内は、ナイフとフォークで、何とか食べていたが、私が手で食べているので、何となく、皆さんも手で食べるようになっていた。そのうち、インドネシア料理は手で食べた方が良い料理ばかりだねというようになっていた。勿論、どのレストランにも、手を洗う場所があることも知ってもらった。

 

 

 

満喫してもらたと思う、体の具合が悪くなる人もいなかった。皆さんの協力に感謝。帰国しても、皆さんの平穏な生活が長く続くことを願うと締めくくった。夢の中の出来事でした。

 

 

 

そして、夢から覚めて、新規の仕事の詳細を聞くために、デルタシリコン3の中華系の射出の会社へ行ってきた。医療用ではなく、普通のベッドのサイドバンパーだった。この会社は、それとセットになる製品を受注しようとしている。最終客先はバンドゥンだとか、金曜日にバンドゥンまで行って詳細の打ち合わせをすることになった。

満喫 無事 感謝

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(^_-)-☆皆さんと別れ

2018-10-09 23:28:14 | 

 3552 無事、皆さんをスカルノハッタ空港で見送った。慌ただしい数日だったが、過ぎてしまえば、あっというまだった。肩の荷が軽くなった。

 

昨日と同じように、朝、8時にアストンからスタート、先ず、キンタマニへ向かった。昼食後、そこから、時間を見ながら南にむかって、途中、プラ、ヒンドゥー寺院に寄るという、スケジュールだった。しかし、早く着きすぎてしまうので、途中、ゴア ガジャにより、それでも、早いので、ティルタエンプルにもよった。鯉の池や水浴びの場所があるところだ。

 

11:30にそこから、キンタマニに向かい、12;00にレストランに入った。バツールの北側から、赤い炎が上がっていた。野焼きかと聞いたら、自然発火だという。いわゆる山火事だ。火の粉が偶に舞って来るという。

かなり激しく燃えているが、消火作業をしないで放っておくらしい。手前に焼け跡が広がっている。

 

食事後、キンタマニでも、もっと上のダナウ バトゥール寺院に寄ってみる。以前、行ったことがあって、印象が良かった場所だった。熱心に説明をする人が付いてきて、マークの意味とか、カルデラ湖の縁にあった寺院は、噴火で埋まってしまったので、この場所に、1935年に再建したとか、ヒンドゥー年は、一年420日だと、一か月は35日だとか説明してくれた。

 

皆さんがホテルに帰る途中、ライステラスに寄った。この世界遺産の棚田、何故なったのか理解できない。インドネシアには他に、持った大規模な棚田は一杯ある、それも、バリの棚田に比べれば,100倍以上の規模だ。私にしてみれば、かなり上位のがっかり世界遺産だ。それでも、観光客で賑わっている、登録されて二三年後には、もとの、がら空きに戻るどこかと違って、不思議に賑わいが増している。

 

私は、空港で降ろしてもらい、皆さんがホテルに戻り、バッグを持って空港に来るのを待った。18;30頃、チェックイン、時間があるからと、ゆっくり食事をしていたが、皆さんと私の便が違っていて、私は皆さんより一時間早い出発になってしまっていたことに気が付いて、あわてて、私だけ、ゲートの場所を探しに行ってしまった。慌ただしい、分かれになってしまった。

私は、24時を回って、工場に到着した。

5,000 hilang di dua kawasan Paluプラの二か所の地帯で5000人が見付かっていない。

Semasa Balaroa, Petobo alami insiden tanah jerlus

見送り キンタマニ 分かれ

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(^_-)-☆タナロットなど

2018-10-08 22:57:46 | 

 3551 8時 アストンから出発するため、私のフェイブからは6;30に出て、歩いてみた。30分で着いてしまった。私のホテルは、クタ海岸入口ゲートを左に見ながら右に曲がってすぐのところ、途中に、ソゴーやワーターブームがあり、夜遅くまで賑わう通り、早朝は、ひっそり、歩くのに、人をよけない。前を見て、横を見、なにがどこにあるかゆっくり確認しながらジャランジャランだ。2Kmくらいだったでしょうか。昨日は、タクシーで大渋滞、25分かかったが、今朝は、閑散道を逆方向、徒歩、30分だった。

私にウェブサイトの一つの表紙にしてある場所、ゴルフ場も何度も来ているが、何方からも、他方を眺めるだけで、どちらからも、行ったことがないので、一度、行ってみたいと思っていた。

 

その後、クタビーチに寄って、散策、暑い砂浜の海岸を皆さん良く歩いたと思う、その前に、シーフードレストランで昼食、私にといってはお決まりのカンクンやイカンバカール、ウダンアッサムマニス、チュミチュミゴレンなど、皆さんとっては初体験の食事をしてもらった。安くておいしい、見事に平らげた。

 

ガルーダ・ウィスヌ・クンチャナGaruda Wisnu Kencana Cultural Park 前回来た時には、あのでっかいガルーダの像が未完成だったが、今回は既に完成しているので、皆さんに見せたかった。昨日、入口の前を、時間が無くて通過した場所だ。

観光客の多いこと、大型タクシーが次々とやってくる。入るとすぐに、バロンダンスの鑑賞ができた。昨日のケタッとは、会場の雰囲気が全く違って、広々とゆったりした会場で、ゆっくり鑑賞することができた。これは、着いていたなと思う。皆さんに、昨日の雰囲気は何方かというと、特殊だったと。その後、あの大きな、完成したばかりの像の下まで登った。皆さん大変だったと思うが、行く頑張った。その後、下ってきて、カフェで休憩、ゆっくり、懇談これもよかった、休めた。

 

ここの奥、左側に私が泊まったフェイヴホテルがある。

 

ここを右に曲がって、左に曲がれば、正面にクタビーチのゲートが目に入る。

 

閑散とした道の先、T字路、ここを右に曲がって、300m位先の右側に、アストンクタホテルがある。

 

ジンバランで食事、サンセットを眺めながら、贅沢な夕食、ロブスターやクラブ。大満喫してもらったと思う。

 

もう一日、今のところ、全員が、正常。まずまずである、もう一日、無事にと願う。

歩く 食べる 見る

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(^_-)-☆バリ島

2018-10-07 07:09:44 | 

 3550 9;35のフライト、かなり余裕を見て、5:30工場から出発した。タクシーの運ちゃん、今の時間なら1時間20分で着くよという。早すぎる。それが、もっと早く、ターミナル3に6;30についてしまった。3時間も前だ。チェックインカウンターへ行ったら、7;35があるから、それにしたら?と言われてしまった。ダメダメ、と、断った。

 

吉野家、日本でも入って食べたことがない、どんなものかと、食べてみた。このセットで500円くらい、高!味はどうか、“ほかべん“の牛肉と同じ味、インドネシアバージョンだ。わたしには合わなかったが、もったいないから食べてしまった。

 

10:00発だったが、順調に飛んで、バリへはバリ時間、12:30に外に出た。ところが、迎えのミニバス、5人分だから、太田さんは30万Rp払わなければ載せられないと言い出した。タクシーなら10万Rpの距離、HISの日本人に頼んでみた。全く、融通が利かない、規則になっているから、払っていただかなければ、乗せることはできません、の、一点張り、仕方がないから、タクシ―を使った。10万Rp払ったが、ブルーバードのメータータクシーなら5万Rp以下だ。HISそんな規則は見直した方が良いんじゃないの。

 

15時出発でムルアトゥのケチャックを見にいった。渋滞が所々であり、近くのコーヒー園まで、1時間半かかった。それでも、18時から始まるので、余裕があって、コーヒー園でジャコウネコのコーヒーを飲んでみた。コピ・ルアク(kopi luwak)というらしい、高級コーヒー?らしいが、もうし訳ない、あまり、逢わなかったが、飲みほした。そのあと、何種類かのコーヒーや紅茶などの試飲をし、ドリアン味が気に入ったので、その粉を買った。ジャコウネコは、アラビカ種の豆しか食べないという、食べるというか、飲み込むらしいが、本当かな、糞に豆のまま出てきている。全然、消化しないみたいだ。それを、洗ってきれいにしたものも、見せていた。

 

そして、目的のケチャック、18時15分前に入場した。もう、一杯一杯、観覧席には座れず、したのコンクリートに座らされた。18時始まったときには、お尻が痛くなっていた。狭い、入れすぎ、直ぐもの前デ、ケチャックが始まった。演出は派手、今まで、何回も見ているが、おふざけが多く、観客受けはしていたが、私は面白くなかったし、お尻の痛さが食いこんで、それどことではなかった。皆さんはこんなものかと楽しんでくれたようで、何よりだったと思う。19時終了、帰りは1時間で、アストンクタに着いた。皆さんとソトアヤムの夕食後、私が泊まるフェイブホテルに21時に着いた。

疲れ 不満 満足

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(^_-)-☆見学工場

2018-10-06 10:07:25 | 行動

 3549 TRC、EJIPの中村社長、PARAMOUNTBEDの田中さんには、大変、お世話をかけました。有難うございました。梨大卒の同級生、皆さん、充実した体験をさせていただいて感謝。感激でした。

 

9時にイビスから出発、インドネシアの発展ぶりや日系企業の進出ぶりを先ず、確認したいという昨日から、南下し、メイカルタの建設現場の中を通り、東に向かいデルタマスに入り、また南下し、サクラホテルの前を通過、なお、南下しGIICに入った。私も久しぶり、先ず目に入ったのがSUZUKI広大だ。完成車の在庫でしょうか、これも広大だ。もう、皆さん、それだけで驚きだ。まだ、ずっと先にも、ずっと西にも真っすぐな道があるが、時間が限られているので、端までゆくのをあきらめて、引き返した。途中、日本語の看板の店も多く見えた。デルタマスインターの手前から西に向かう、自然に、デルタシリコンの2、3,4,5,6のエリアに入る。

カネフサやニットウなど、イジップから移ったり、第二、第三ファクロリーとしている企業も多き見られる。ここも、南に広がっているが。メイン道を通過するだけだ。自然にヒュンダイに入った。ここの団地は、道の基礎が手抜き何でしょうか、陥没が書が多いそして、南の出口から、EJIPの南に入り口に入る、入ってすぐ右側に、pt.TRCの入り口がある。約束の時間通り、10時丁度に到着した。

 

丁寧なお迎え、恐縮、先ず、アジア三か国への赴任経験から、社長のインドネシアへ進出の日系企業の問題点を韓国や中国企業の例を挙げ、説明を受けた。私もそうだが、皆さん、多くの外国で勤務したことがないので、なるほどと、聞き入るばかりだった。ついで、工場の現場を一通り案内していただきながら、それぞれに仕事の重要ポイントの説明を受けた。やはり、工場の現場に入った経験が殆どない人たち、通過するたびに、作業している若ものから挨拶され、また、その手先の動きの速さなどを見、関心仕切り、今や日本の企業にはこういう風景は無くなってきているねと呟く。ここは女性の作業者が多い、何方でもできる仕事なら女性の方が良い。これは、全企業共通だ。

 

12時15分前にTRCから出た。次はMM2100だが約束は、13時、食事をすれば遅れるので、EJIPの中を15分ほど、そして、西に向かい橋を渡って、MMに向かう、ちょっと、遠回りし、ヤマハやアスモ、そして、ホンダモートル前を通り、インターの手前から、南に行き、私が1996年に努めた工場の前を通りながら、Uターンし、ベアチュカイの前を通り、向かい、7年ほど前に押出部門をたちたナンブの前を通り、今、難しい施策をしているHOGIの前をとおり、左折、左折でP,BEDに入った。13時丁度だった。ゴルフ仲間の田中さんに案内をお願いした。

 

直ぐに,金属プレスの工程いから、溶接や塗装、最終的には組立、出荷までの流れの工場の全工程を、丁寧に案内をしていただいた。いろいろな機能が付け加えられていく工程を皆さん、興味深めに聞き入っていた。やはり、教育や研究現場とは別世界。問題点、改良点を自ら指摘し、それを何とかしたいという話を聞かされ、なるほどと、聞きってもいた。私が作って提供した押出製品もちらっと見えた。時間をオーバーし、少しばかりの意見交換をさせていただき、失礼をした。ここは、私は20年のお付き合いだ。日本で、パラマウントベッドのお世話になっている方、私が提供したプラスチックの押出製品がくっ付いていると思いますよ。

 

ゴルフにドライビングレンジの名残の向こうに高速道路の建設現場がみえる。

イズミで遅い昼食後、ジャバベカのホテルに戻り、16時過ぎにタクシーで空港近くのスイス何とかというホテルに向かってもらった。わたしは、とてもじゃないが、送る迎はできない、何時間かかるかわからない。工場に戻って、明日朝5;30のタクシーを予約した。

見た 聞いた 考えた

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(^_-)-☆歓迎

2018-10-05 23:41:00 | 行動

 3548 いよいよやってきましたね。娘は仕事でベトナム、ハノイに出張中だとか、バイクの多さにびっくりだとか。

 

こちらは、安全を見て、14時過ぎにタクシーで空港に向かう、16:30にターミナル3に到着、早く着きすぎ、時間は十分ある。ここのタクシー乗り場の人達、私を覚えている、行くと、いきなり、チカランや?と言われてしまった。今日は、違うよ、向かいに来たから、ちょっと大きめで、タクシー6人乗り、運転手込みで7人、皆さん、それなりの大きさのバゲジを持ってきているので、そんなことを話して、タクシーというかミニバスを手配してもらった。95万Rpで。

 

遂にやってきた、大学の時の同級生4人と一人の奥さん。Selamat Datangスラマッ ダタン、ようこそ!だ。

18:00過ぎに、出てきた。皆さんとは、一年ぶり、甲府で会う顔とインドネシアで会う顔とは、明るさが違っていた。何故でしょうか。

 

18;30ジャバベカゴルフの直ぐ脇のイビス スタイルまで出発、もう、真っ暗、グロゴール経由の高速道路、例のタマンアッグレックの電飾を見ながら、スマンギの高架を通過、順調に東へ向かう、来るときに渋滞していた辺りも、渋滞はほとんどない。疲れているだろうから、黙っていようと思ったが、せっかくだからと思い、インドネシアの建設ラッシュの現場を見ながら、あれは、なに、これは、なにと説明しながら通り過ぎる。2時間ちょっと、21:00前にはホテルへ到着。

その後、遅い夕食、皆さんはナシゴレン、私だけソ、ブントゥットゥ、私以外はビールで乾杯。とにかく、皆さん疲れているでしょうが、元気そう。

明日の迎えに時間を言って、私は、失礼した。さあ、始まったぞ。皆さんの体調が悪くならないように願うばかりだ。

11:30を回ってしまった。早く寝よう。

 

チャワンの中国高速鉄道建設現場

 タマンアングレック15時ころの電飾

出迎え 順調 元気

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(^_-)-☆謝り方教えて

2018-10-04 19:18:20 | 欲望

 3547 貴乃花は、行っちゃんている人だが、もう一人いた。「日本は過去の過ちに対して謝罪の気持ちを持つべきで、韓国人が受け入れるまで謝るべきだ」と言っている人、鳩山何とかという元首相?ですね。この人も、多分、行っちゃっている人でしょうね。

どの程度の過ちを日本が韓国に対してやったのか、人によって、国によって違う、それなのに、韓国人が受け入れるまで、どう、誤れば良いのでしょうか、なんと謝ったって、いくら、お金や技術を渡したって、そうですか、受け入れましょうと、心から言ってくれる韓国人は何%くらいいるのでしょうか。韓国の教育にも関係してくるでしょうし、経済力にも関係してくるでしょう。

じゃ、安倍首相が、この人のように、土下座して、ごめんなさいと言えば、受け入れてくれるのでしょうか。それなら、金をもっと出せということになるでしょう。いくら出せばいいの?きりがない話だ。

 

私、個人的には、既に、30年間に韓国人だけではなく、中国人、フィリピン人、そして、インドネシア人、多分、お金も技術も日本語も、多くの事で、援助をしている。今でも、継続している。親の世代が、迷惑をかけたであろう国に、ごめんなさい、赦して下さい、と、彼らに言ったことはない。彼らは私に感謝していると、自己満足している。それでいいと思っている。

 

余談だが、この中に日本人と結婚した人が二人いる、また、援助した人が日本で同国人と知合い、結婚したのが二組ある。今、私の会社に、ナンブから移ってきたディキ君も奥さんとは、私の日本の会社でアルバイトをしている時に知り合った。

 

日本が、“漢江の奇跡“の手助けをしたことは間違いない。当時に韓国経済力、GDPからしたら、多額の援助をした。それで、韓国の急成長を手助けした事実がある。その後も、様々な援助をしている。私が仕事を始めたころ、韓国の中小企業経営者の集団が静岡の工場を見学にして、私の技術もその中の数人に、見せてやった。彼らは、感謝感激だった。

 

それでも、慰安婦とか徴用工とか旭日旗とか、謝れ、謝れと言っている人、そういう教育をしている人、永久に、無くならないでしょう。どんな謝り方をしても、それが、彼らの生き甲斐だから。

ということで、誤りを受け入れていただくには、どうすれない良いのでしょうか、ね、鳩山さん。鳩山さん自身、どう誤れば、許してもらえる、受け入れてもらえるのか、韓国人のどなたか、「日本よ謝れ!の会」?の代表者の方と話し合いをしてみてください。何とかという韓国な大学の日本人教授や女性の慰安婦問題とか旭日旗で燃える女性教授らに、是非、聞いてもしいですね。そのくらいの知恵はあるでしょう。安倍さんや日本国民に、水に流してもらえる謝り方を示してください。それとも、かなりの財産をもっておられるらしいですね。私財を全て、日本を許さないといっている方々に、提供したらいかがでしょうか。

 

そんなしつこい韓国人が主流なのに、きつい性格の人が多いと思うのに、何故、昔、日本の通り道にされてしまったのでしょうか、モンゴル軍の通過道にされてしまったのでしょうか。韓国人は、その原因を真摯に考えてほしいですね。朝鮮半島から、そいう話題を聞いたことがない。

鳩山さんと貴乃花に関しての報道はしないようにしてほしい。

 

こんな製品を作る方法を韓国人とシンガポール人に教えたことがあった。

 

帰りに通過した通り、カキリマ。多くの仕事帰りの女性が立ち寄り、ブンクスをコスに持ち帰る。。

謝罪 許し 後いくら

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(^_-)-☆地震国インドネシア

2018-10-03 21:58:27 | 状況

 3546 このスラウェジトゥンガーの地震は9月22日もあった。その時の震源はパレの直下で津波は全くなかった。

Gempabumi Tektonik M=4.8 Mengguncang Provinsi Sulawesi Tengah 22 September 2018, Tidak Berpotensi Tsunami

 

Gempabumi & Tsunami 26 Desember 2004 2004年のスマトラ北部のアチェの西海底を震源とするⅯ9以上の大地震でした。

Dipenghujung tahun 2004, tepatnya pada hari Minggu, 26 Desember 2004, Indonesia dan delapan negara lainnya di kawasan Samudera India dilanda bencana tsunami sangat hebat. Tsunami tersebut telah merenggut lebih dari seperempat juta jiwa25万人以上の命 pada beberapa negara Asia dan Afrika yang meliputi : Indonesia, Malaysia, Thailand, Myanmar, Bangladesh, Srilangka, India, Maladewa, Somalia dan Kenya.

とにかく、日本と並んで、地震大国だ。私がインドネシアにいる間に、ニアス、パダン、メサン、パンガンダラン、タシクマラヤ、バントゥール、スンダンビル、バリ、ロンボク、マルク、クンダリ、などなど、インドネシアの各地で地震、津波が起きている。アチェを別格として、その他、合計で2万人以上亡くなっていると思う。

インドネシアの海岸沿いのいたるところに、地震が発生したら、向こうへ逃げろという、看板が出ている。避難集合場所も指定されていて、看板もある。

しかし、防波堤がある海岸はまれで、有っても、2Mくらいの高さしかない。造るのは大変なことだと思う。だから、自分の身は自分で守ろう、と、言うことになる。日本だって、設備や対策のレベルはかなり高いと思うが、同じようなものだと思う。

 

リッポチカランへ行ってきたが、行きは、チカランバラットインター付近を通って行ったが、帰りは、チバトゥの方からにしてみた。というのは、チバトゥインター近くから、リッポチカラン方面への近道があるのを知ったから、それの逆コースで行ってみようと思った。モールの前の道を道なりにひたすらに進む、以前は直進できなかった場所で南に右折したが、そこの直進道があって、車はほとんど行かないがバイクは結構行っている、そのあとについていくと、例のメイカルタのプロジェクトの真っただ中を真っすぐではないが、道なりに進む、両側は工事現場ばかりで、多くは高い塀があって,中が見えない。行く手に、建設が遠くに始まっている4棟の高層ビルがみえて、その方向に向かっている。やがて、私が以前確認したチバトゥインターの入り口手前にでた。左折して、インター入り口に向かうしかない。まさか、と、思ったが、ゲートの手前にUターン場所はあった。そこで、Uターンすれば、チバトゥインターから出てきた車と合流だ。そのあとは、今まで何度も通っている道だ。

 

かなりの近道になる、ただし、途中の両側に何もないので、通過するだけの道だから、空いている。渋滞になりそうにない道だ。これから、会社からリッポチカランやイジップに行くときは、この道を使おう。MM2100にも近いかも知れない。ただし、大型車はだめだ。通行できない。

 近道 ムシバ 災害

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(^_-)-☆バブルがここにも

2018-10-02 22:12:34 | 行動

 3545 STSに寄って、ホギ用の金型の修正を頼んだ後、MM2100のホギを訪問した。チビトゥンインターに向かって左折し、南にむかった。そこに、いきなり、道の両側に、高架用の柱が林立していた。何も乗っていない、何のため?こんなところに高架道路?インターにアクセスするのかな。しかし、インターの向こう側のMM2100のインターの向こうにもMM2100内にも高架の柱を作り出している。なぜでしょうか。道の両側にあるのは、インターからの出口、インターへの入り口用でしょうか。

 

チビトゥンの町の方から、チビトゥンインターに直進して入ることができなくなっている。カリマラン通りを東に向かい、500mほど先の橋を渡ってUターンする場所まで行って、カリマラン川の向こう側を西に向かい、やっと、インターに入ることができる。また、ここも、遠回りを強いられ始めた。ま、インドネシア、こういうことが当然のように、あちこちに有る。

 

この場所、カリマラン川の橋の手前、ここは十字路になっていて、川を渡って向こう側も十字路のなっていて、直進はチビトゥンのインターに入った。しかし、左折しなければならなくなったし、右からもカリマラン通りを通り抜け出来なくなった。あちらもこちらも遠回りになった。

一体この界隈、なにができるのでしょうか、広大な土地の造成が?繰り広げられている。MM2100インター、チビトゥンインター付近にもバブルを感じる。

 

ロッテマートの前横のAYAM GEPUK“肥満の鶏“というインドネシア料理ラストランで、昼食、ソプアヤムが辛く無くて美味しかった。セットメニューとテーが二人分で7万8千Rp,安い。

 

中部スラウェジ、その後、Korban Meninggal Dunia Gempa-Tsunami Capai 1.203 Orang

Senin 01 Okt 2018 08:57 WIB今朝の時点で、1200人を越えましたね。まだまだ、行方不明者はいます。1500人は超えそいうだ。

 

イジップの工業団地の各社にイミグレのチェックが入るようです。2日から、一日,10何社に入って、関係書類やイタスの内容をチェックするとともに、訪問者があれば、訪問者のビザのチェックもするそうです。予告日に当たる日には、会社に来ないようにと、各社、関連会社にメールをしているそうです。その日に約束があれば,日を変えているそうです。

 

ノーベル賞を日本人がまた受けましたね。韓国がまたぼやく季節になりましたね。

バブル 犠牲者 イミブレ

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(^_-)-☆遠い津波

2018-10-01 23:05:09 | 情報

 3544 スワウェジの中央部の北西の地震津波の犠牲者は500人以上になっているが、まだまだ増えるでしょう。ジョコ大統領が現地に着いた様子だ。

https://www.kompas.tv/content/article/33325/video/berita-kompas-tv/tiba-di-palu-jokowi-pantau-lokasi-terdampak-gempa

日本から、心配の問い合わせが、寄せられているようだが、ジャカルタ、ブカシ辺りからは、1500kmちかく、バリからでも1000km遠いので、何の影響もない。

 

スワウェジの観光地としては、マナドが500km、タナトラジャが200km、カリマンタンのバリクパパンまでは、海を隔てて、250km、サマリンダは200kmくらい、今、震源近くのパレという街へは、陸路で行くより、バリクパパンから船で行くのが、分かりやすい。

 

夕方、久しぶりに、カラワンへ行ってみた。カラワンバラットインター近くの新しい?ショッピングモールが目だっていたので入ってみた。CENTROという名前のだ。日曜の夕方だったからか、かなりの賑わいだ。地上のそう広くない駐車場は一杯で、地下に駐車した。地下駐車場は広い。

チュチマタ cuti mata目的の私といして、眺めて回った。買い物はしない。様々な種類の店が出店している。履物、服、おそらく10点以上、もっとか、電化製品、キッズコーナー、各所レストラン、かなりの広さだ。私は、いろいろなショッピングモールへ行っているわけではないが、今迄では、最大の広さだ。それに、通路は広いし、ごちゃごちゃしていない。

 

一番という、寿司レストランで夕食、これは、失敗、8万Rpでこれ、SUBHI,SASIMIというメニューの名前だったが、刺身だけ、それも、なには新鮮味がない、美味しくないというより不味かったが、もったいないから食べた。この店、寿司レストランと書いてあったが、寿司や刺身がメインではなく、何とかの照り焼きとか、フライなど、ほかほかべんとう、のようなメニューが主なようだ。皆さんはそれらを美味しそうに食べている。席に空きを待っている客の行列になっていた。

 

こんなショッピングモールが、これからも、どんどん増えてゆくのだろうなと思う。チカランバラットインターに建設中も、多分、地下駐車場が充実しているのだろうと思う。町の車、人の流れが変わるでしょう。

津波 犠牲 チュチマタ

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