エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

時ならぬ

2016年12月27日 | ポエム
昨日あたりから、寒さが戻ってきた。
冬なのだから、当然の寒さである。

このところ、南風が吹いて日本海側はフェーン現象によって温かかった。
南風が、不幸を運んできたのであった。

「冬至なのに春一番」が吹いた。
そう隣の未亡人が・・・仰った。

ぼくの敬愛して止まない詩人・・・西脇順三郎の詩を紹介しよう。


『Ambarvalia』から
   ギリシャ的叙情詩


    天 気
   (覆された宝石)のやうな朝
   何人か戸口にて誰かとさゝやく
   それは神の生誕の日。


    カプリの牧人
   春の朝でも
   我がシゝリアのパイプは秋の音がする。
   幾千年の思ひをたどり。


    雨
   南風は柔い女神をもたらした。
   青銅をぬらした、噴水をぬらした、
   ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
   潮を濡らし、砂をぬらし、魚をぬらした。
   静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
   この静かな女神の行列が
   私の舌をぬらした。


まだ続くのだけれど、岩波文庫に詩集としてリリースされているから読んでほしい。
西脇順三郎は、柔らかな女神の行進として南風が齎して雨を表現した。

けれど、糸魚川火災を始めとする多くの火災は南風によってもたらされたのだ。
西脇先生、南風は柔らかい雨を齎してはくれなかった・・・。
大災害を惹起してしまった。

西脇先生、南風は少しも柔らかく無かったよ!

昨日あたりから、寒さが舞い戻ってきた。
ぼくは、ネッグ・ウオーマーを着用して外出している。
手術痕が痛むのである。







「階梯や冬の陽射しの落ちている」







詩を紹介するブログとなった。
会わせて、近頃のぼくの心境を詩人の力をお借りして表現したい。


「秋の瞳」から
    八木 重吉


  つかれたる 心
 あかき 霜月の葉を
 窓よりみる日 旅を おもう
 かくのごときは じつに心おごれるに似たれど
 まことは
 こころあまりにも つかれたるゆえなり


  かなしみ
 このかなしみを
 ひとつに 統ぶる 力はないか


  死と珠
 死と 珠と
 また おもうべきか 今日が きた


流石、珠玉の言葉である。



ぼくは、感動するしか方法が無い。

因に、八木重吉の平易な言葉の選択には驚嘆する。
家族を紡ぎつつ、自然を透明な感覚で描ききった。
こんな詩がある。


  花
 花はなぜうつくしいか
 ひとすじの気持ちで咲いているからだ


  春
 桃子
 お父ちゃんはね
 早く良くなってお前と遊びたいよ


桃子は、八木重吉の子どもである。
病と闘う八木重吉らしい、ピュアな詩である。
感性が、研ぎ澄まされていったのだろうと思うのだ。

西脇順三郎は、初めは英語で詩を紡いでいた。
その英語から日本語へと変貌する刹那、西脇順三郎は閃めき煌めいた。
だがしかし、西脇順三郎は孤高の詩人であった。


  「旅人かへらず」から
       西脇 順三郎

  八
 あのささやき
 蜜の巣の暗さ
 あの世の
 なげかはしき

  一二九
 むらさき水晶
 恋情の化石か


学生時代、西脇順三郎の自宅に電話をした事があった。
会いたくて会いたくてならなかったし・・・。
西脇順三郎が纏っているであろう景色を、見たかったのであった。

彼は、村野四郎を紹介してくれた。
だがしかし、ぼくは村野四郎を訪ねる事は無かった。
勿論、西脇順三郎に会う事も無かった。



    荒 野人