エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

屋形舟

2015年07月05日 | ポエム
ひょんな事から、屋形舟に乗った。
誠に久しぶりであって、心地良い揺れに身を任せる事が出来た。

舟上から見る東京は、いつもと違って新鮮に映る。
スカイツリーもまた、その高さが手に取るように分かる。

水の高さと云うのは、楽しいものである。



こうして見ると、東京はやはり大都会である。
かつて・・・江戸時代までは東京は「東洋のベニス」と云われていた。
水運の街であった。



作家・池波正太郎は、その歴史を熟知していた。
猪牙舟(ちょきぶね)が、しばしば作品に登場する。

とりわけ剣客商売では、通常の交通手段として描かれる。
江戸時代、ちょっと気の効いた女性なら「櫓を漕ぐ」術を知っていた筈である。
その事を頭に入れて池波を読むと、深く作品を理解できる。







「水遊びおのことおみなたゆたうて」







スカイツリーもこんな風に見える。
楽しいではないか!



実は、この屋形舟乗船の事由は、大きな合コンであった。
いやいや、かくいう野人は世話役に過ぎず「くっ付け役」に徹したのであった。



品川駅から、徒歩数分「舟清」で舟に乗ったのであった。
緑のシャワーを浴びながら歩いていると、あっという間に舟清に到着した。



幾槽もの屋形舟が舫ってある。
船頭さんのいなせな鉢巻きが良い。

船上での料理も良かった。
とりわけ天麩羅は、上げたてで旨かった。

大型合コンで、結果実りは無かったけれど初めとしては上々!
今後に繋がった。

参加された若者は、全員好感が持てた。
なんとかして結ばれる二人が出てくると、良いのだけれど・・・。



        荒 野人

いつものユリの木

2015年07月04日 | ポエム
ぼくの思索を重ねるユリの木である。
様々な発想を頂ける。

この木は、ぼくの定点観測の聖木である。
愛おしくもあり、誇らしくもある。







「樹下に在る思索の果の道教え」







この樹の下のベンチに座っていると、来し方行く末を思う。
通り過ぎる人の群れは、時に忙しく時に穏やかである。
若き母親も居れば、老いた夫婦もいる。

ユリの木は、そうした人々をずっと見守ってきたのだ。
ぼくが聖なる木だと思うのは、そうだからである。

樹齢は、屋久杉には追っ付かないけれど少なくともぼくよりは高齢である。
木の高さ、枝振りでそれと知れる。



夏木立を従えた勇姿にぼくは、いつも胸がときめく。
鯉しているのかもしれない。

この稿は、R・ストラウスの交響詩ドンキホーテを聴きながら書いている。
正しく、来し方行く末を観がさせられる一曲である。



     荒 野人

紫陽花

2015年07月03日 | ポエム
紫陽花は、まだもう少しだけ楽しめる。
路地に佐久紫陽花は、そろそろ終わりだけれど「七変化」の異名通り踏ん張っている。

いたいけな花である。
最も、梅雨がまだまだ明けぬのだから頑張ってもらわなければなるまい。



梅雨の晴間が、明日も続くのだと云う。



云われてみれば、夏の空ではないし雲でもない。
大気は、たっぷりと水分を含んでいる。



額が花を取り囲んでいる。
典型的な紫陽花の姿である。







「ミスト浴び花の終わりの七変化」







様々な意匠を凝らした花である。
本来は、花玉よりも額紫陽花が原種である。

額紫陽花も、交配を重ね品種改良が進んでいる。



これは「墨田の花火」である。
品種改良の成功例であろう。

確かに花火のように、額が飛び出している。



これも品種改良の典型的な姿である。
額が、あたかも丸められた薄紙のように花を囲んでいる。



ぼくたちは、こうした姿が綺麗だと思っているのだけれど・・・。



それにしても、紫陽花には水が良く似合う。
この紫陽花園では、ミストを吐き出してくれる。



水煙でかすむ紫陽花は、格別である。
今年、じっくりと紫陽花を鑑賞したけれど良い句が出来ない。



浸りきる精神状態ではないのである。



      荒 野人


凌霄花(チョウショウカ)

2015年07月02日 | ポエム
ノウゼンカズラの異名である。
チョウショウカと読むのだ。
また、この三文字で「ノウゼンカズラ」と読んでも良い。

今、我が家の近くはこのノウゼンカズラが満開である。
梅雨明けは未だだけれど、夏らしさの象徴的な花である。



ぼくのイメージでは、沖縄の花なのだけれど・・・。
いまは、関東以南の花となってしまった。







「凌霄花淀む空気を滴らせ」







歳時記に、しっかりと掲載されているから関東でもかなり古くから咲いていたらしいのである。
江戸時代の文献にも、凌霄花は載っている。



かなり愛されていた事は、間違いないのである。
してみると、やはり山梨県では根付かなかったのであろうか?

とにかく、子ども時代に見た事の無い花である。

赤く滴るような花の連なりに、蠱惑されるのはぼくだけではないだろう。
この花は、落花した時も鮮やかである。



        荒 野人

庭石菖

2015年07月01日 | ポエム
再び、庭石菖である。
誠に楚々とした花であって、心打たれるのである。

誰もが見向きもしない。
けれど、美しく装っている花である。







「儚なさの極みの中や庭石菖」







この庭石菖は、ぼくのいつもの散歩道にある。
人は単なる雑草として、見過ごしてしまう。

そして通り過ぎてゆくのだ。



ぼくは、この花をいつも見続けている。
そうでなければ・・・いけない。

儚い命であるかもしれないけれど、自然の一分を成す大切な命であるからである。



      荒 野人