エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

水仙

2015年12月11日 | ポエム
水仙・・・生けるもの。
水仙・・・うまずたゆまず、咲けるもの。
水仙・・・優しく厳しさを湛えるもの。

水仙・・・かぎりなく憧憬するもの。



水仙は、横顔が良く似合う。
水仙は、気持ちを託すのに躊躇いもない。

水仙のキャパは、宙のように限りもない。







「小春日や風のそよぎの音ばかり」







昨日は、小春日和の最終の日。
今日からは「冬暖か」と云おう。

風は冷たいのだけれど、陽射しの柔らかさは例えようもない。

母の膝小僧の暖かさが迫ってくる。
昨夜は、空を見上げ母の星を見つけた。

「瞬き」は限りなく優しかった。



      荒 野人

冬そうび

2015年12月09日 | ポエム
冬薔薇である。
秋の薔薇を詠んだとき、冬薔薇は「ふゆそうび」と読みたいと書いたことがある。



冬そうびは、どこかしら不完全に見える。
花びらが欠けていたり、花びらの縁が茶色かったりする。

そうであっても、薔薇は薔薇だ!



冬そうびには、あえて花言葉を与えたくは無い。
存在自体が、尊い。

ぼくはそう思っている。







「冬そうび疲れた肌の生めかし」







冬そうびは、陽射しのない日だって良い。
陽が当たらなくても、凛然としているのだ。



そうした画然と、空間を¥隔つ咲き方に憧憬するのである。





       荒 野人

光が丘公園の紅葉

2015年12月08日 | ポエム
光が丘公園のグルリをドライブしていると、ハッとするくらいの赤がある。
あまりの赤さに近づいてみると、少しくすんでいたりする。

「あの赤は、どこにいってしまったんだろう!」
と、がっかりする。

今年の紅葉の特徴である。



けれども、冬の柔らかな陽射しの真下で眺めてみると良い。
赤さは復活してくれるのである。



くすんでいると云ったら、いけないのかもしれない。
黄葉であると見上げることである。



ぼくは、このベンチに座った。
このベンチは、初めてであった。
春先や、夏も良いのかもしれない。

草いきれが満ちて来そうなベンチである。







「頬杖の白き指から冬の風」







来年も、この奥深い公園の黄葉を楽しもうと思う。
この公園の奥まで紅葉を楽しんだのは、初めてであった。



家の近くでも、素敵な場所がある!
と、改めて知った一日であった。



間もなく、秋の残滓が輝く。



     荒 野人


冬の蒼

2015年12月07日 | ポエム
冬の空は、あくまでも蒼い。
そうはいっても、時雨れ出すとどうしようもない。
あるいは、雪模様の時には灰褐色の空となる。
それも冬の空、である。



この区切られた空は、メタセコイヤの並木によるものだ。







「やや風のある小春日の空の蒼」







冬の空は、区切られた空である。
区切るものは、枯枝であったり、冬木立だったりする。

あらゆるものが、冬化粧だと云って良い。
そこから、ぼくは清新な大気を吸い込む。

今年は、あまり深呼吸出来そうもない。
冷気が怖い、のである。



     荒 野人

変な雲

2015年12月06日 | ポエム
変な雲が遊弋していた。
変な雲と云ったって、誠に感動的な雲である。



雲を見上げるのが大好きである。
雲が天才であるからだ。

この日の雲は、いくら眺めていても飽きることがなかった。







「鴨の声空の一部の変な雲」







見上げていたら、いつのまにか薄明となっているのであった。
雲は、その薄明の色に染まっていく。



その様は、マジックのようでもあった。
あるいは、大道芸人のジャグリングの玉でもあるかのようであった。



ぼくは、しばらく眺めていたのだけれど・・・。
陽が落ちるのが早かった。

けれど、空の色はグラデーションで彩られた。
団地の光が、さらに鮮やかになっていくのであった。



      荒 野人