エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

武蔵野の古刹

2015年12月05日 | ポエム
武蔵野の古刹と云えば「平林寺」をもって嚆矢とする。
誰にも異論は無かろう。

昨日、改めて平林寺の紅葉を愛でに出かけた。



先日よりは「まし!」だった。
とまれ「高揚期」と「落葉期」が同居する気候・・・。

紅葉する筈なのに、枯葉化して落葉してしまう。
一本の紅葉の、一重だが枯れてしまっている・・・そんな紅葉が多いのだ。
発色が今イチなのは、やむを得ない・







「武蔵野の古刹も里も照紅葉」







今年は、京都の紅葉も駄目だったらしい。
そもそも、八ヶ岳の麓の唐松の黄葉も今イチだった。

これも「温暖化」の成せる業であろうか。



しかし、黄葉川は鮮やかに見える。



水に映ると、より鮮やかに見えるからである。
平林寺の紅葉は、今週末が見頃なのかもしれない。



ただ、発色にあまり期待を持ってはいけない。



昨日のように、天気に恵まれることを持って「よし」としたい。
青空に似合う紅葉である。



      荒 野人

寒椿乃至山茶花

2015年12月04日 | ポエム
寒椿が赤々と宙を指差す。
指差すほど、凛乎と咲くのだ。



以前に紹介したけれど、遠目では寒椿も山茶花も殆ど見分けがつかない。
そこで、見分け方である・・・。



これは、寒椿の散り方。



これは、山茶花の散り方。

ご明察の通り。
寒椿は、花ごと散る。
山茶花は、花びらが一枚ずつ散るのである。



この花は山茶花。



山茶花は、色艶も一段と宜しい。







「寒椿画布の彼方へ落ちにけり」







寒椿は、一輪ごとに見応えがある。
山茶花は、群れるほどに美しい。

季節の器は、全てをお与えにはならないのである。



      荒 野人

光が丘公園

2015年12月03日 | ポエム
光が丘公園は、紅葉真っ盛りである。
同時に、初冬の佇まいでもある。



光が丘公園まで、徒歩でおよそ20分。
自転車で、写真を撮りながらゆっくりと進んでおよそ30分の距離である。

銀杏並木であるとか、ビオトープの池周りであるとか、あるいはまた紅葉のスポットであったり見所満載の公園である。







「公園という季節の容器秋深し」








桜の名所でもある。
いま、桜紅葉は終った。

終ったけれど、淡い紅葉となってまだまだ見ることが出来るのである。



今時でもあろうか、写真はスマホでお撮りになる。
その姿が、しかしサマになっている。

とりわけ若者から中年の女性は、その姿が絵になる。



かくいうぼくも、スマホで撮ることがある。
ただしその場合、その写真は基本的にラインで使用するためである。

俳句仲間に映像を送り、その映像で句を送る。
お互いが、日常と非日常を覚悟するためでもある。



      荒 野人

マユミの実

2015年12月02日 | ポエム
マユミの実は、晩秋の季語である。
晩秋から冬にかけて、マユミの赤い実は長く枝に残る。



だから・・・秋と冬にはヒヨドリやメジロが食べに来るのである。

マユミは、ニシキギ科の落葉小高木である。
ヤマニシキギとも称する。
初夏に花をつけ秋に実を結ぶ。熟すと四つに裂け、赤い種子が現れる。
昔この木で弓を作ったので、真弓の名がついたのである。







「まゆみの実宙鬱々と雨の来る」







マユミの花言葉は・・・。
「真心」「艶めき」「心に潜んだ」であり「あなたの魅力を心に刻む」といった表現まである。



まゆみは、人の名前にもなっている。
強靭な心が、親から望まれるのだろう。
また、花言葉も素敵ではないか。



      荒 野人

褐色の

2015年12月01日 | ポエム
晩冬とも云える季節に入った。
今日は、小春日和である。

紅葉が終焉に近づきつつあって、色とりどりの紅葉が見られるのも季節の至福である。



云うまでもなく紅葉である。



黄色に変わる黄葉もある。

見上げれば、褐色の変化が出迎えてくれる。
褐色の変化は、ぼくの中で「高橋和己」が蘇るのである。







「褐色の落葉時雨の似合う空」







もちろん忘れてならないのは、銀杏である。
あの、独特の匂いが残る並木道のベンチが大好きである。



      荒 野人