しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <真の計画者・実行者>

2022-08-31 | イザヤ書
「わたしは東から猛禽を、遠い地から、わたしの計画を行う者を呼ぶ。わたしは語って、それを来たらせ、計画を立てて、それを実行する。」(イザヤ46:11新改訳)
私たちが世界史を学ぶとき、各時代と地域、民族がそれぞれ自分たちの思うままに活動し、栄枯盛衰をくり返しているように見える。しかしそれは正しい見方ではない。▼人間のすべての歴史と宇宙全体の営みは偶然ではなく、あらゆる事象が全能の神による御計画と統御下にある。神を知らない人間の心の中まで全能者に知られ、その御計画に沿ってすべてが運ばれているのだ。それどころではない、一羽の鳥、宇宙空間に浮かぶ一つの星も神によって名前がつけられ、整然と動き活動しており、御心からはずれることはない。▼このような創造者を偶像にすり替え、香を焚(た)いて拝むほど馬鹿げたことがあるだろうか。また、神の存在を排除し、頭で考え出した理屈で説明しようとするほど高慢で無知な行き方があるだろうか。しかしそれが、昔から人間の行って来た罪の愚行にほかならないのだ。「偶像礼拝をやめなさい」というのは、旧新約聖書66巻をつらぬき、あらゆる時代、あらゆる地域、あらゆる人々にひびきわたっている「天の父のお声」である。

朝の露 <わたしが主である>

2022-08-30 | イザヤ書
「それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」(イザヤ45:6新改訳)
この章に「わたしが主である。ほかにはいない」とのことばが七回記され(5、6、18、21、22)、まさに神による自己宣言のラッシュである。▼ユダがバビロンに捕囚となって七〇年、もはや聖地回復とユダ王国再建は誰が見ても不可能と思われた。ところが突然、歴史は回転し始めたのである。バビロン帝国はペルシアに倒され、キュロス王が民族解放令を発布、ユダヤ人は祖国に帰り、神殿再建を許されたのであった。諸国民はおどろき、ユダヤ人たちは夢を見ているような気持ちになった、とうたわれている。「主がシオンを復興してくださったとき 私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき 私たちの口は笑いで満たされ 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき 諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』」(詩篇126:1,2同)。▼後の時代になり、歴史を学ぶ人々はこの出来事を知って、イスラエルの神以外に神はいないことを認めざるを得なくなるであろう。本章はそう宣言している。ここで言及されているキュロスはキリストの予表的人物、やがて全世界、全宇宙が主によって呪いから解放される偉大な日がやって来るであろう。もちろんユダヤ民族が捕囚から解放されたことは、奇蹟であり、「すばらしい」の一語につきる。しかし天地宇宙をふくむ全被造物が「もはや、のろわれるものは何もない」(黙示録22:3同)との宣言を聞き、死と滅亡から解き放たれることは、最終最大の喜びである。その実現はこひつじイエスの十字架における勝利によって、今や「時間の問題」になった。だからすべての造られたものは、その日が早く来るようにと切願し、うめいている。

「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。」(ローマ8:22~24同)▼エリヤはバアルの預言者たちとの戦いに勝ち、彼らを始末したとき、その霊耳に「はげしい大雨の音」が聞こえてきた(Ⅰ列王記18:41)。三年六ヶ月ぶりに聞こえてきた雨の音である。しかし、それで、自動的に雨が降って来たのではなかった。彼はカルメル山の頂上に登り、「地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめ」、主に懇願したのである(同42)。一度や二度ではない、はるか遠く、地中海の水平線を見ながら(実際に見ていたのはしもべの若者であったが)執拗に祈りを続けたのであった。すると、ついに、とうとう、人の手のひらぐらいの小さく濃い雨雲がはるか向こうに現れたではないか。こうして、待ちに待った大雨が降って来たのだった。この状況は、主のお出でを待つ今の状況にそっくりである。キリストの来臨を待ち望むキリスト者たちは、まさにこのエリヤにならうことが期待されているといえよう。


朝の露 <何の役にも立たないもの>

2022-08-29 | イザヤ書
「だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。見よ、その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて、ともに恥を見る。」(イザヤ44:10,11新改訳)
人間は今、生命を形作っている遺伝子を解析しつつある。それを読み解いたうえで自由に操作し、ゆくゆくは思い通りに人間を造るためであろう。つきつめていえば、人間を創造された神とおなじ立場に立って、人を造ろうとしていることになる。恐ろしいことを考えているものだ。それがまことの神に対する罪の極致であることに気がつかないのだから・・。▼しかし、いかなる人間を設計し、こしらえても「それを細工した者が人間にすぎない」という事実は変わらない。つまりイザヤ時代の人と現代人も、「偶像を作りだす本質は」まったく同じで、何の進歩もしていないことになる。エデンの園でエバは蛇に欺かれ、神の知恵を得たいと禁断の実を食した。それが二一世紀の今、実現しつつあるともいえよう。ただし、得たのは悪魔の知恵であって、神の知恵ではないのだが・・。▼このような道を歩み続けるなら、最後に神は人類に大きな恥辱を与え、恐怖で震えおののくようにされるであろう。つまり、自分で作り出した生命のため、取返しのつかない結果を刈り取ることになるのではないだろうか。その典型が核兵器であろう。

百数十年前、学者たちは光の持つふしぎな性質を研究し、それが発展していったとき、アインシュタインは自然界に隠されていた有名な法則、E=mC²を発見した。そこから核分裂が導かれ、作り出されたのが原子爆弾であった。▼私が学校で習ったのは、石炭の小さな塊一個に秘められた核エネルギーを解放すると、豪華客船一隻を日本からアメリカまで楽に動かせる。そのような夢の時代がもうすぐ来るという夢の青写真だった。それを聞いて胸をときめかせたものだ。しかし現実はどうか。動いているのは豪華客船ではなく、原子力潜水艦、原子力空母とそれに搭載されたミサイルである。▼人類の歴史は「夢のような未来」を約束する数々の発明、理論であったが、ことごとく破れ、うらぎられ、私たちは兵器や毒物、汚染、病気、廃棄物にかこまれ、明日の恐怖におびえている。たしかに便利である種の快適さは得たが、それをはるかにうわまわる悩みと不安が覆いかぶさって来たというのが真相ではないだろうか。▼結局のところ、この世界は人間が主人公ではなにをやっても解決はないのである。かえって逆の結果しか産み出せない、それが人類の「罪に支配された姿」にほかならないのである。永遠の神たるお方、創造者にすべてをお返しし、ひれ伏して出る、それをなす以外に解決はないと知るべきである。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。」(イザヤ44:6,7同)



朝の露 <わたしは主>

2022-08-25 | イザヤ書
「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」(イザヤ43:15新改訳)
神はイスラエルの王であられる。そして私たち異邦人キリスト者はイエス・キリストへの信仰によってイスラエルにつながった。なぜなら主イエスは「イスラエルの王」として十字架につけられたからである(マタイ27:42)。このようにして、ユダヤ人も異邦人もなく、まったく新しいイスラエルがキリストのからだとして出現したのである。私たちはこれを「真のイスラエル」と呼び、「キリストのはなよめ」とも呼ぶ。▼神はこのイスラエルを永遠に捨てることはなく、ついにすべてを完全に救う時が来るであろう。それは神ご自身の宣言だからだ。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4同)▼歴史においてイスラエル民族は水の中、火の中を限りなく通らせられた(2)が、消滅することはなかった。今現在も存在し続け、世界歴史の不思議と言われていることは周知のとおり。▼ちょうどそのように、終末に至ると、真のイスラエルは全人類から救われた人々から成る子羊の新婦・天のエルサレムへと発展し、新天新地の中心である神の都となって行く。こうして万物が永遠に神をほめたたえてやまない新世界が出現するのである。「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(エペソ3:5,6同)


朝の露 <わたしの名は主>

2022-08-24 | イザヤ書
「わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。」(イザヤ42:8新改訳)
神ご自身が、「わたしは唯一の存在者だ」と厳粛(げんしゅく)に語っておられるのがイザヤ書である。これはイザヤが活動していた時代、ユダ王国が乱れ、多神教礼拝と不道徳に傾いていたことを考えると、ひじょうに重要である。▼主の預言者たちはイスラエルにあり、どんなに孤独でつらい活動をしなければならなかったことか。伝説によれば、イザヤはマナセ王の命令により、のこぎりで体を挽(ひ)かれて死んだという。にもかかわらず、イザヤ、エレミヤなどは王侯貴族、国民がこぞって神々をこしらえ、快楽と宗教を結びつけて罪をおかしている時、敢然(かんぜん)と立ち上がり、悔い改めと審判の切迫を人々に語った。契約の民・イスラエルにとり、神の御名と唯一性は絶対に犯してはならないからであった。▼イザヤ書が神のことばであるとすれば、私たちの祖国日本は、悲しいことに、二一世紀の今日でも二千七百年前のイスラエルとすこしも変わらず、罪を犯していることになる。選民を怒り、さばき給うた主が、このままの日本をさばかないことがあろうか。読めば読むほど、預言者の胸の痛みが押し寄せて来る。キリストの救いにあずかり、滅びをのがれた私たちに期待されているのは、涙の祈りと共に種をまくことにつきよう。

二千年間土中で眠っていたハスの種が、当時の丸木舟とともに偶然掘り出され、大賀博士によって発芽処理をほどこされたとき芽を出し、美しい花を咲かせた。今やそれは日本各地で「大賀ハス」として私たちの目を楽しませている。丸木舟に乗り、ハスを取っていた縄文人たちは、二千年後にその実が花を咲かせるなどと夢にも思わなかっただろう。植物の種子ですら、そこにある生命の力はおどろくべきものだ。まして、福音の種はどれだけ生命に満ちていることだろう。私たちも種をまき続けたい。主を信じてキリスト者として生きる生涯、それ自体が聖なる「種まき」である。その生き方、あり方が知らず知らずのうちに周りの人たちの心に種としてまかれている。神の時が来れば、それはかならず芽を出し、実を結ぶと信じる。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」(伝道者11:6同)