しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <神へのうらぎり>

2023-05-15 | ホセア書
「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実ように見ていた。バアル・ペオルにやって来たとき、彼らは恥ずべきものに身を委ね、自分たちが愛しているものと同じように、彼ら自身も忌まわしいものとなった。」(ホセア9:10新改訳)

神はエジプトで奴隷となっていたイスラエルをご自身の宝として選ばれた。たしかに彼らの先祖、たとえば族長ヤコブの息子であるヨセフのように、敬虔で主をおそれる信仰を継承していれば、そうなっていたろう。だが彼らの信仰はうわべだけ、出エジプトしてエジプトから脱出したものの、その生き方は偶像文明にどっぷりつかったままであった。▼シナイ山で主と契約を結んだものの、本質は何ら変わっておらず、それが暴露されたのが、荒野でモアブ人に誘惑されたバアル・ペオルの事件であった(民数記二五章)。冒頭の聖句はそのことへの言及である。何度もいうように、人はイエスの十字架を信じ、新しい御霊のご性質を与えられないかぎり、罪から自由になることはできない。ホセア書のメッセージもそれが結論である。▼あらためて使徒パウロの叫びを聞こう。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」(ローマ12:2同)

朝の露 <サマリアの子牛>

2023-05-11 | ホセア書
「それはイスラエルから出たもの。それは職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛(こうし)は粉々に砕かれる。」(ホセア8:6新改訳)

イスラエルがエジプトにいたころから、子牛礼拝は盛んであった。今でもエジプトの古代遺跡展(こだいいせきてん)などが日本で開かれるが、黄金で作られた子牛像が陳列(ちんれつ)されているのを見たことがある。この信仰は根深く、あのホレブ山でモーセが神に見えていた時、ふもとでは民が子牛を鋳造(ちゅうぞう)し、「これが我々をエジプトからここまで導いてくれた神だ」と言って礼拝し、同時に飲めや歌えの酒宴(しゅえん)を開いて罪にふけった。しかもそれから六百年後のイスラエル王国でも子牛礼拝が存続し、国家滅亡の原因となったとは、人の心に巣食う偶像礼拝の執拗(しつよう)さにあきれる。▼ホセアが糾弾(きゅうだん)してやまなかったように、唯一神(ゆいいつしん)礼拝が捨てられ、自由宗教の名のもとに偶像礼拝が行われると、そこに必ず道徳の退廃(たいはい)とあらゆるかたちの腐敗(ふはい)が蔓延(まんえん)する。日本も例外ではない。イスラエルの歴史はすべての時代と人類に対する神のメッセージであることをおぼえるべきである。

朝の露 <エフライムの悪>

2023-05-10 | ホセア書
「しかし、彼らは考えもしない。わたしが彼らのすべての悪を覚えていることを。今、彼らの悪行は彼らを取り囲んで、わたしの面前にある。」(ホセア7:2新改訳)

サマリアを首府にした北イスラエル王国は、時代が下るに従い、ますます堕落(だらく)の一途(いっと)をたどるようになった。▼神への純粋な信仰を失えば、選民であっても悪の泥沼におちいるだけだ。ホセアは悲しみながらその罪のひどさを描写する。人が神を忘れたとしても、神は人を忘れ給わない。地上でした行為はすべて神の面前に立ち上り、記録されている。それを知らないのか、とホセアは言う。▼神はソドムとゴモラについて、アブラハムに仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼしつくされるべきかどうかを、見て確かめたい」(創世記18:20,21同)と。▼人の罪深さを天にいます神に叫び、訴える者が存在する。それは、神が人の心に住まわせた良心かもしれない。あるいは人々が住んでいる国土、大地そのものかもしれない。とにかくその叫びが増大し、限界に達した時、神の審判の火は必ず降るのである。▼私たち一億二千万人が住んでいる日本列島がもの言うとすれば、今なにを神に向かって叫んでいるのであろう。「神よ、日本人たちは堕落し、犯せるだけの罪を毎日犯しています。私たちはその重さに耐えられなくなりました。このままでは海のなかに沈んでしまいます。神よ、どうにかしてください」とうめきつつ祈っているのではないだろうか。アブラハムのように、とりなす人はいないのだろうか(創世記18章)。
 

朝の露 <イスラエルの復活>

2023-05-09 | ホセア書
「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目には立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」(ホセア6:2新改訳)

この聖句は、直接にはイスラエルがやがて歴史の終わりに復活することの預言である。しかし同時にイエスが墓の中から三日目によみがえられる預言ともなっている。このように御子の復活とイスラエルの回復が同じみことばで語られていることに不思議さがある。つまり、異邦人である私たちが福音により救われるという教会時代も、やがてイスラエルが枯骨の谷からよみがえるようにして救われることも、御子イエスの死とよみがえりを基(もとい)になされる神の恩寵(おんちょう)のみわざなのだ。▼考えてみれば、今から二千七百年も前に地図から消えて行った北イスラエルの十部族、それがもう一度出現することなどふつうではあり得ない。しかし全能者のみことばがその実現を約束しておられる以上、起きないはずはない。そして、十字架にかかり、死んで葬られたお方が復活することも常識ではあり得ないはずなのに、起こったのだ。それは神のことばが誓いをもって預言しておられたからである。▼キリストのうちに満ちた復活の生命は、枯れた骨がつらなり、肉体となり、ついにイスラエルの群衆となることにより、全世界に輝きわたるであろう。全能者の栄光として。

朝の露 <姦淫の霊>

2023-05-08 | ホセア書
「彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫(かんいん)の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ。」(ホセア5:4新改訳)

ホセアの時代は北イスラエル王国の末期に当たるが、霊的・信仰的には悲惨なものであった。モーセ律法はまったく顧みられず、それを教える人々もおらず、道徳的に紊乱(びんらん)の極みだったのである。▼こうなると、自然に人心は他国から輸入された偶像礼拝に傾く。それらはわかりやすい像と不道徳な儀式を持ち、肉欲を刺激するから、人々はたちまちとりこになる。しかも偶像は個人の倫理(りんり)生活に干渉しないから、なにをしようと自由だ。こんな都合(つごう)のよい宗教はない。▼ホセアはそのような信仰のあり方を姦淫の霊と呼ぶ。人々よ、イスラエルは昔、唯一の神と聖なる契約を結んだ、言いかえれば男女が契り(ちぎり)を交(か)わしたことと同じだ。それをうらぎる偶像礼拝はたましいの姦淫であることを理解しないのか。だから聖なる神はあなたがたにきびしいさばきをくだされる、それが近づいている、と。▼ホセアの警告(けいこく)は現代の私たちへのそれである。真実の悔い改めだけが救われる道なのだ、と。