「このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」(ホセア13:5,6新改訳)
イスラエル民族にとり、荒野の四〇年はきびしいものだったが、約束の地を占領した後の平和な時代より、はるかに神が近くにおられ、彼らの信仰も真剣であった。▼不思議なもので、信仰生活は困難に囲まれている時のほうがいのちにあふれることが多い。モーセもそれを知っていたから、カナン突入前に警告を与えている。「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。・・・あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。」(申命記8:11~14同)▼モーセにはすべてが見えていた。彼らの内にある堕落性は神への従順を骨抜きにし、主を怒らせ、ついには悲惨な民族的結末を迎えるに違いないことを。そしてイエス・キリストによる救いだけがイスラエルの希望であることを。◆モーセだけではなく、旧約の聖徒たちはイエス・キリストによる福音の出現を待ちわびつつ、それぞれの使命を終えたのであった。彼らはいかにその日を見たいと望み、願ったことであろう。しかし許されなかったのである。そして願ってもいなかった教会にそれが現されたのであった。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした」(マタイ13:16,17同)と弟子たちに語られた主のおことばを思う時、教会に与えられた祝福のすばらしさを認めずにはいられない。