しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ホセア13章 <忘恩の罪>

2018-10-31 | ホセア書

コスモス1「このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」(ホセア13:5,6新改訳)

イスラエル民族にとり、荒野の四〇年はきびしいものだったが、約束の地を占領した後の平和な時代より、はるかに神が近くにおられ、彼らの信仰も真剣であった。▼不思議なもので、信仰生活は困難に囲まれている時のほうがいのちにあふれることが多い。モーセもそれを知っていたから、カナン突入前に警告を与えている。「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。・・・あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。」(申命記8:11~14同)▼モーセにはすべてが見えていた。彼らの内にある堕落性は神への従順を骨抜きにし、主を怒らせ、ついには悲惨な民族的結末を迎えるに違いないことを。そしてイエス・キリストによる救いだけがイスラエルの希望であることを。◆モーセだけではなく、旧約の聖徒たちはイエス・キリストによる福音の出現を待ちわびつつ、それぞれの使命を終えたのであった。彼らはいかにその日を見たいと望み、願ったことであろう。しかし許されなかったのである。そして願ってもいなかった教会にそれが現されたのであった。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした」(マタイ13:16,17同)と弟子たちに語られた主のおことばを思う時、教会に与えられた祝福のすばらしさを認めずにはいられない。

 


朝の露 ホセア12章 <主の激しい怒り>

2018-10-30 | ホセア書

ミニバラ「エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。彼の主は、その血の責任を彼の上に下し、彼のそしりに報いを返される。」(ホセア12:14新改訳)

エフライム(北王国)に対する神の激しい怒りを表すことば。王国はBC722年、アッシリアのため滅ぼされ、国民は捕囚となって聖地から消えた。ほぼ二百年という短い歴史であった。▼列王記はその理由を次のように記している。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」(Ⅱ列王記17:7,8同)▼私たちキリスト者もこの世から救い出され、聖国目ざして歩む生涯に入れられた。イスラエルが偶像の国エジプトから解放されたのと良く似ている。そこで、異邦人たちがむなしい心で歩み、快楽の奴隷になっている姿を嫌悪し、二度と真似をしてはならないのである。ただし、似ているとはいえ、私たちがキリストのあがないにより、この世から救い出されたのは、イスラエルがエジプトから引き出され、律法を与えられたこととは雲泥の差があることに心しなければならない。▼私たちは、自己努力で救いを維持するのではなく、キリストご自身が信じる者の義と聖と贖いになってくださったのである(Ⅰコリント1:30同)。すなわちあらゆるものが「一方的な恵みによって」私たちに与えられているのであり、ただ信じるだけで救いを全うできるのだ。このようにすばらしい福音を拒むなら、もはや救いは存在しない。ヘブル書が言う通りである。「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」(ヘブル10:26~27同)▼だからあのガラテヤの信徒たちのように、最初の確信を投げ捨ててしまうのではなく、かの日、栄光の主にお会いするまで固く持ち続けようではないか。

 

 


朝の露 ホセア11章 <エフライムへの愛>

2018-10-29 | ホセア書

紅ばら「わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。」(ホセア11:9新改訳)

神に背いたイスラエル12部族ではあるが、永遠に滅ぼされる、ということはない。それは神が旧約聖書で、何度もくりかえしておられる約束のゆえによる。▼新約聖書でもパウロは言う。「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25、26同)▼異邦人の諸族で、このように神の約束が与えられた民族はない。ただイスラエルだけが最終的な救いにあずかる特別の民なのだ。ただし教会はちがう。教会だけはあらゆる民族の壁を越え、歴史と時間をつらぬき、一つに集められた特別な存在、キリストのからだである。この事実を思うと、私たちに注がれている永遠の愛の崇高さに、心打たれずにはいられない。◆もしあなたが男性であったとして、愛する妻が愛人のところに走り、姦淫のかぎりをつくし、呼べば呼ぶほどますますあなたから離れ、なおその不倫がエスカレートしたら、どうだろうか。それでもなお彼女を愛し、ゆるせる男がいるだろうか。あなたでさえそうなら、絶対の聖、絶対の義に満ちた神が淫行に走り続けるイスラエルをゆるせないのは当然ではあるまいか。◆しかし神は言われるのだ、イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている、と。神の愛は人の理解をはるかに超える。十字架に現された御愛は人知では理解しつくすことはできない。私たちは心からそれを認めようではないか。その深遠さ、広さ、高さ、長さの前に、立ち尽くすべきである。ゴルゴタの刑場で人々はただ黙し、立ち続けたのだ。涙も、叫びも、説明も、解説も、その他すべての言葉も出て来なかったのだ。男も女も、弟子たちも、兵士たちも、通行人も、最後は沈黙に呑まれたのだ。◆神の愛の出現に、人はことばを失う。礼拝とは、そういうものであろう。

 

 


朝の露 ホセア10章 <サマリヤは滅びうせる>

2018-10-25 | ホセア書

シャクナゲ「サマリヤは滅びうせ、その王は水の面の木切れのようだ。」(ホセア10:7新改訳)

今日イスラエルを旅行した人ならわかるが、サマリヤの都があった所は、ただの廃墟となり、草の生い茂る小山となっている。▼わが国もそうで、いかに多くの人々が一世を風靡(ふうび)したあと、空しく消えて行ったことであろう。「天上影は変わらねど、栄枯は移る世の姿、写さんとてか今もなお、ああ荒城の夜半(よわ)の月」と土井晩翠(ばんすい)が詠んだとおりだ。いったい古今東西を通じ、世界に横たわる累々たる廃墟、どの民族、どの国でも最後に屍(しかばね)になるのはなぜか。▼神の国である。イエス・キリストである。来ようとしている新天新地、いや、今現在造られつつある永遠の都、それ以外に存続する栄華があってはならず、罪の繁栄があるべきではない。全知全能の神が居ます宝座から、ケルビムは獅子吼(ししく)する、汝ら何ものをも神とすべからず、何ものをも永遠者となすべからず、天にいます御父とおんひとり子のみを拝し、御前にひれ伏せ、すべてをささげ、塵の上に置け、ただこのお方の御前に自らを投げ出せ、と。◆2,700年後の今も、預言者ホセアの声は世界にひびいている。「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる」(12)と。イエスの死と復活、そして御聖霊は正義の雨となって世界に降り注いだ。刈り入れは世界の信仰者の内ですでに始まったのである。サマリヤの町から出て、新しい耕地を開拓するため、御霊の示される所に出かけよう。私たちの父、諸民族の父アブラハムが故郷ウルを出て、約束の地に上ったように。

 


朝の露 ホセア9章 <偽りのささげもの>

2018-10-24 | ホセア書

黄色バラ「彼らは主にぶどう酒を注がず、自分たちのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、これを食べる者はみな身を汚す。彼らのパンは自分のためだけ。主の宮に持ち込むことはできない。」(ホセア9:4新改訳)

ある寡婦(やもめ)がレプタ二枚を献金箱に入れたとき、主イエスは、「この貧しいやもめは、・・・どの人よりもたくさん投げ入れました」(マルコ12:43同)と言われた。主はそれが彼女の生活費全部であることを御存知だったのである。▼ホセアが言うように、自分自身のためだけで神への愛と献身が全くこめられていないささげものが、神に受け入れられることはない。もし私たちが毎週もたれる聖日礼拝で、献金のときを、説教や聖歌隊の奉仕より軽く考えているとしたら、大きなまちがいである。かえって、それは一番重要なひとときかもしれない。なぜなら、神に対する自分の愛と献身が赤裸々に現われ、天の御父や無数の御使いたちの眼前に置かれる瞬間だからだ。たぶん人々がささげるたびに、喜びや驚き、慨嘆の声が天の使いたちの間に上がるのだろう。◆主よ、おゆるしください。私のささげものはあまりにも貧しいささげものです。額ではありません、感謝と喜びがこもっていないのです。何の感動も感謝もなく、カゴが回って来た時入れるだけ、そんな時がなんと多いことでしょう。献げることができる幸せ、主の御使いの前にそれらが上って記念とされる幸い、それを思ってみたこともない、愚かな者をどうぞあわれんでください。