しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <わが愛する者よ>

2022-06-06 | 雅歌

「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。」(雅歌4:1新改訳)

イエス・キリストが花嫁なる教会に対して抱いておられる愛を示したことば。「ああ、あなたは美しい」と二度もくりかえして花嫁によびかけるとは驚くべきことである。▼新約聖書でこれに通じることばは、おそらくヤコブ書の一節であろう。「神が私たちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(私たちを)慕い求めておられる」(ヤコブ4:5別訳)である。人がキリストを信じて救われ、神の御霊を内に宿したということは、その人が(霊において)神の御目から見ると、特別に美しい存在になったということを意味する。信じがたいことかもしれないが事実である。▼あのベタニアのマリアは、主イエスに向かう尊敬と献身のあまり、高価なナルドの香油300グラムを全部主の御足に注ぎ、髪の毛でぬぐったので、香油の香りが部屋中に満ちたと書かれている(ヨハネ12章)。そこには、彼女の外見ではなく、心の美しさが輝き渡ったのであった。それを理解しない周囲の人たちは、「なんともったいないことを!」と怒り、マリアを非難した。しかし神が喜ばれるはなよめとはこのような心を持っている信仰者である。来るべき新天新地にあって燦然(さんぜん)と光を放つエルサレムは、すべての時代から選ばれたマリアのような人々から成る天の都なのだ。▼やがて子羊の妻たる花嫁が神のもとを出て天から降って来るそのとき、万物ははじめてキリストが感嘆しておられるわけを知るであろう。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録21:2新改訳)


朝の露 <私のたましいの恋い慕う方>

2022-06-02 | 雅歌

「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。『私のたましいの恋い慕う方を、お見かけになりませんでしたか。』」(雅歌3:3新改訳)

はなよめがくり返す「私のたましいの恋い慕う方」とは、新約の光で見ればイエス・キリストを指す。▼人が地上生涯で、自分のすべてをささげて恋い慕う方を得たとしたら、人もうらやむ幸福を手にしたことになる。それがたんなる人間であれば、いつかは色あせてしまうが、主イエスであればその愛は永遠不変である。雅歌に出て来るはなよめは、深い霊において主と相思相愛の関係にあるので、何らかの理由で彼を見失うと、いてもたってもおられず、夜中でもかまわずに捜し歩く。といっても肉体的にではなく、心の世界にあってそうするのであり、本章前半はその心象風景を描いている。むろん、心象風景といってもただの空想世界ではない。はなよめの内におられる御聖霊は天と地、過去と現在をつらぬいて存在しているお方であるから、その導きによって私たちは主イエスのみもとに至ることができるのだ。そこに愛の交わりが生じるといえる。▼キリスト者は御子と愛の交わりを求めて、朝早く起き出でて祈り、みことばを味わっては黙想する。時には断食し、夜更けても静まり、みことばを繰っては主の御姿を求めて徹夜もいとわない。また、犠牲を気にせず各地の聖会に出席し、過去の聖徒たちの著作を読んでは「主にお会いする」ことを求める。あらゆる時代を通じてこれほど多くの人々から、これほど熱心に恋い慕われる方は他に存在しないであろう。考えてみれば、主イエスはなんと魅力に富むお方であろう。


朝の露 <茨の中のゆり>

2022-06-01 | 雅歌

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」(雅歌2:2新改訳)

このみことばは、主イエスがご自身のはなよめとして選んだキリスト者を心配し、気遣う愛の気持ちを表したものと味わいたい。▼一口に信仰者といっても、主が種蒔きのたとえ(マタイ一三章)で話されたように、みことばを鳥に奪われた者、岩地に蒔かれて枯れてしまった者、茨にふさがれて実らない者など、さまざまである。娘たちはそれらを指すと思う。だがその中にあって、主をひとすじに愛するはなよめは彼女たちからねたまれ、いろいろな嫌がらせを受け、ときには迫害にあったりする。主はそれを心配されるのであろう。▼雑木林の中に咲く真っ白な野百合、風が吹くと周囲の雑草にもまれているのを、修養生のとき学院の構内で毎年ながめ、もったいないと思ったことがあった。復活昇天し、大祭司として神の右におられる主は、地上のはなよめが守られ、やがてこひつじの婚姻のときを迎えるよう、昼も夜も目をさまし、とりなしておられる。感謝のほかはない。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高くあげられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」(ヘブル7:24、25同)▼私たちは地上の信仰生涯を、十字架のあがないを仰いでいるとはいえ、自己の力だけで全うできると考えるべきではない。天の御父の右にあって、片時も休むことなくとりなしておられる方があるからこそ守られ、歩めるのである。その上、聖霊ははなよめに内住し、内側から時々刻々執り成しておられる。つまり天と地の両方における愛の見守りと支え、とりなしに挟まれ、囲まれて存在しているのが私たちなのだ。また天の御父の命により、御使いたちが派遣され、はなよめが悪の勢力から危害を加えられないよう、火の垣根を作って囲んでいて下さるのである。満腔(まんこう)の感謝をもって朝を迎え、また夜を迎えるべきは当然ではないだろうか。

 


朝の露 <私のたましいの恋い慕う方>

2022-05-31 | 雅歌

「私のたましいの恋い慕う方。どうか私に教えてください。どこで羊を飼っておられるのですか。昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。なぜ、私はあなたの仲間の羊の群れの傍らで、顔覆いをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」(雅歌1:7新改訳)

ほんとうに救われているキリスト者は、愛する主の臨在が感じられなくなると、じつに苦しいものである。そのような状態にあるときは、何をしても砂を噛むようでうるおいがなく、魂は活ける水を求めてあえぐ。▼臨在とは不思議なもの、キリスト者の霊性とは正直なものである。主はどこにおられるのか、どうしたらお会いできるのか、そのことだけを考えて過ごす。そうしているうちに、自分がいつの間にか高ぶり、主ご自身を求めるより、なにか別のことに思いを向けていたことに気づかされ、悔い改めつつ主を仰ぐ姿勢を回復していく。「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」(Ⅰヨハネ2:15、16同)▼このようにして思いがけない時、主が自分と共におられる、という確信と喜びが再び心にあふれて来て、交わりの回復が始まるのである。

<わが喜びわが望み>

①わが喜び わが望み わがいのちの君 昼たたえ夜歌いて なお足らぬを思う

②慕いまつる飼い主よ いずこの牧場にその群れと 君は行きて 楽しみ給える

③荒野野原、道もなく 踏み分けかねつつ 佇めるこの憂き身を 仇は嘲み笑う

④シオンの娘 語れかし わが愛の君に 野辺にてか幕屋にてか 会い奉らざりし

⑤君の笑みの優しさに 御使い喜び みことばの麗しさに あめつち歌えり

⑥慕いまつるイエス君の み声ぞ嬉しき わが望みわがいのちは 君にこそあれや

                                     <インマヌエル讃美歌17 詞:Joseph Swain,1791>


朝の露 雅歌8章 <急いでください>

2017-11-22 | 雅歌

白と紫の花「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌8:14新改訳)

雅歌の最後が、「私の愛する方よ。急いでください」との呼びかけで結ばれているのは、とても印象的である。というのは、黙示録もそれに似ているからだ。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20同)▼結婚を間近に控えている相思相愛の男女が、もっとも強く交わす呼びかけはなんだろうか。それは何といっても、早く来てください、急いでください、であろう。キリストと教会の結婚は、再臨の日が来れば成就する。だから教会にとり、早く来てほしいのは主ご自身であるともいえるし、結婚式の日そのものであるともいえる。▼御霊と共に歩む日々の中で、花婿のすばらしさを知れば知るほど、花嫁には早くその日が来てほしいとの願いが灼熱の太陽のごとく燃え上がる。誰もその炎を消すことはできない。◆「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所」(雅歌8:5)とあるが、霊界でもっとも美しいものは、愛する者のために、祈りにおいて産みの苦しみをしている姿ではないかと思う。◆主イエスはゲッセマネで、私たちを滅びから救い出すため、十字架にかかる決心をされた。しかしそこに行くためには、血のごとき汗を流しながら何時間も苦祷されたのである。翌日の十字架でもそうであった。この愛の苦しみがなかったら、だれひとり救われる者はなく、今頃私たちは滅びへの道を否応なしに辿(たど)っていたはずだ。◆パウロはガラテヤ教会の人々が恵みに回復するよう、祈りにおいて二度目の苦痛を味わっていると記している(ガラテヤ4:19)。もし彼が御霊による愛に捕らえられていなかったら、彼等を「放り出し」、堕落したままにしたにちがいない。しかし神による愛が、彼に産みの苦しみをさせたのである。しかも二度も・・・。またエパフラスは故郷コロサイの信徒たちが、十分に確信をもつ「成人のキリスト者」になるよう、ローマにおいてひたすら祈りに励んでいる、とパウロが証ししている(コロサイ4:12)。◆まもなく私たちは主イエスにお会いする。教会をはなよめとして、ご自身の胸に永遠に迎えるため、再臨される主。どのような御姿と御顔をしておられるのであろう。