「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌7:13新改訳)
花よめが花むこへの愛を告白している箇所だが、恋なすびは御霊の結ぶ実を表わすと見てよい。▼パウロはキリスト者が御霊によって歩むなら、自然に豊かな実を結ぶことができると言い、その実とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」のことだとする(ガラテヤ5:22,23同)。またヘブル書も、「キリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(13:15同)と勧めている。▼ここに列挙したような徳性を豊かに結んでいる信仰者は、人が見ても「美しい」の一語につきるが、神の御目から見ても香(かぐわ)しく、霊的魅力に満ちた存在である。それは内にいます御聖霊に源を発し、花むこキリストがこよなく慕い求める美しさだからである。かくてキリストと花よめの間に交わされる霊の交わりは永遠に続いて行く(Ⅰコリント13:13)。◆イエス・キリストは再臨されたとき、愛するはなよめたちが「どのような実を結んだか」を見られるであろう。なぜなら、彼女たちは皆、栄化の約束としての御霊を頂いた存在だからである。それは栄化の保証であると同時に、地上で豊かに実を結ぶことを期待されて与えられた。パウロがくり返し、御霊によって歩みなさい、と命じたのは、そうしていくとき、キリスト者は実を結ぶな、と言われても自然かつ豊かに実を結んでしまう存在だからなのである。いのちとはそういう性質のものだ。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1:3同)とあるように。◆願わくば、私たちは主にお会いした時、「私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです」と、顔を輝かせながら「御霊の実」を差し出すものでありますように。