しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 雅歌7章 <御霊の実>

2017-11-21 | 雅歌

ピラカンサス「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌7:13新改訳)

花よめが花むこへの愛を告白している箇所だが、恋なすびは御霊の結ぶ実を表わすと見てよい。▼パウロはキリスト者が御霊によって歩むなら、自然に豊かな実を結ぶことができると言い、その実とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」のことだとする(ガラテヤ5:22,23同)。またヘブル書も、「キリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(13:15同)と勧めている。▼ここに列挙したような徳性を豊かに結んでいる信仰者は、人が見ても「美しい」の一語につきるが、神の御目から見ても香(かぐわ)しく、霊的魅力に満ちた存在である。それは内にいます御聖霊に源を発し、花むこキリストがこよなく慕い求める美しさだからである。かくてキリストと花よめの間に交わされる霊の交わりは永遠に続いて行く(Ⅰコリント13:13)。◆イエス・キリストは再臨されたとき、愛するはなよめたちが「どのような実を結んだか」を見られるであろう。なぜなら、彼女たちは皆、栄化の約束としての御霊を頂いた存在だからである。それは栄化の保証であると同時に、地上で豊かに実を結ぶことを期待されて与えられた。パウロがくり返し、御霊によって歩みなさい、と命じたのは、そうしていくとき、キリスト者は実を結ぶな、と言われても自然かつ豊かに実を結んでしまう存在だからなのである。いのちとはそういう性質のものだ。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1:3同)とあるように。◆願わくば、私たちは主にお会いした時、「私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです」と、顔を輝かせながら「御霊の実」を差し出すものでありますように。


朝の露 雅歌6章 <知らないうちに>

2017-11-20 | 雅歌

バラ「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌6:12新改訳)

全知全能の神は、この世界が創造される前から、キリスト者ひとりひとりをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた(エペソ1:4同)。▼とはいえ、そのことが実行される時、場所、方法などは千差万別で、どんな知恵ある人でも知り得ない不思議さに満ちている。ためしにあなたの隣にいる兄弟に救われた証しをしてもらうがよい。百人が百人、一人として同じ内容の人に出会うことはないだろう。▼ただし、確実に言えることがある。それは誰もが、次のように賛美できることだ。「何ゆえ御神は、かかる身をも、神の子とせしか知るを得ねど、わがより頼む主は、ゆだねたる身と魂(たま)を、守り得たもうと確信するなり」(新聖歌357)。▼知らないうちに高貴な人の車に乗せられていた、とおどろく雅歌書のはなよめ、それは私たちのことである。しかも車どころか、キリスト者は父なる神の右、御子と同じ場所に永遠に座ることになるのである。愛する方の永遠の伴侶として・・・。◆今の世でも、なにか特別なことのため選ばれるということは非常な喜びであろう。コンテストなどで選ばれ、頂点に立った人が満面に笑みを浮かべ、壇上にフラッシュを浴びている光景がよく放映されている。ほんの一時的なこの世の選びでもこれほど大きいとすれば、永遠の選びにあずかることは、想像もできない喜びをもたらして当然である。◆地上に再臨された主キリストから、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(マタイ25:34同)と言われた時、キリスト者たちの心にあった悲しみ、十字架を背負った苦しみなどは、海の藻屑のようにあとかたもなく消え去るにちがいない。その日の光栄を胸に刻みながら、残りの生涯を喜々として送らせていただこう。


朝の露 雅歌5章 <万人よりすぐれた方>

2017-11-16 | 雅歌

菊「女の中で最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(雅歌5:9新改訳)

エルサレムの娘たちのふしぎそうな問いかけが冒頭の聖句。▼私たちがイエス・キリストに抱く愛は、この世の人々からみれば謎であり不思議である。どうして一宗教の開祖に過ぎない人物にそれほどまで夢中になるのか、と。しかし御霊により目が開かれた人には、このお方が万人よりすぐれ、いかなる犠牲を払おうと少しも惜しくないほどすばらしいお方であることがわかる。▼ペテロが、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(Ⅰペテロ1:8同)と記したように、キリスト者に宿った神の愛は、観念や思想ではなく、その人を形容できない喜びと信仰で新しく造り変えずにはおかない。まさに奇蹟である。◆私は冒頭の聖句で、思い浮かべるのはマグダラのマリヤである。彼女は七つの悪霊に占領されていた女性で、気の毒な半生が想像できる。それが癒されたとき、彼女はだれよりも主イエスを愛する女性になった。もちろんそれは男女間の愛などではない。そして主が墓に葬られたとき、ためらわずして香料をもって墓に急いだのであった。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(ヨハネ20:11同)◆師への敬愛の情は、他の弟子たちが帰ってしまった後も、彼女を墓にとどまらせるほど強かった。どうしてもおからだを見つけたい、亡くなった師でもよい、ふたたびお会いしたい、と泣き続けるマリヤに復活した主イエスは最初に御姿を示されたのであった。◆愛する主イエスはふたたび来ようとしておられる。ひたむきな愛をもって待ち望むはなよめだけが、感激の対面をすることになろう。あの賢い5人の乙女たちのように(マタイ25:1~13)。


朝の露 雅歌4章 <花嫁よ。私といっしょに>

2017-11-15 | 雅歌

azalea「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニル、すなわちヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りてきなさい。」(雅歌4:8新改訳)

主イエスの私たちに対するこの呼びかけは、このお方がどんなにキリスト者と共に歩むことを望んでおられるかを示している。愛し合っている夫婦は何にも勝り、いっしょにいることを望む。貧しく苦しくても、共に居さえすれば幸福なのだ。驚くべきことに、主はわたしたちを「あなたのすべては美しく」、「あなたは私の心を奪った」とまで慕い求めて下さる。想像もできないことだが、この愛はほんとうである。▼ところがエペソ教会はいつの間にか主に向かう純粋な愛を失ってしまった。「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4同)とあるように、なにか他のものに関心を向けたのである。これほど花婿(はなむこ)イエスを悲しませることはない。ひたむきの愛にお応えするのは、ひたむきの愛しかない。携挙される条件はただそれだけである。◆パウロはローマ人への手紙を記したが、8章まで筆を進めて来たとき、キリストの自分に向かう愛に占領され、感極まって我を忘れたかのように叫んだ。すなわちあまりの愛の素晴らしさに圧倒されてしまったのである。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。・・・死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39同)◆はなよめに注がれる神の無限の御愛、それに満たされたパウロの愛も、天地宇宙の広がりに等しいところまで拡大され、応答していることがわかる。これがキリストとそのはなよめに交わされる愛の感応なのではないだろうか。おそらく御使いも、いかなる被造物も、このような愛をもって叫ぶことはできない。ただあがなわれたキリストのはなよめだけが、愛を交わせる存在として造られたのだ。そして永遠の昔、世界が創造されるはるか以前から御心の奥深く秘められていた御計画とは、まさにキリストのはなよめを産み出す、この一点に存在したのである。


朝の露 雅歌3章 <つかまえて放さず>

2017-11-14 | 雅歌

洋ラン「彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。」(雅歌3:4新改訳)

キリスト者の霊性は、この世のどんなものでも満足せず、ただ主イエスの愛によって満ち足りるという本質を持っている。だから臨在意識が希薄になると、何とも言えない渇き、欠乏感をおぼえ、どうにかして回復したいとの願いを抱くものだ。▼この章で、はなよめは愛するお方から離れ、見失ったため、眠りもままならず、真夜中に起き出て探し回った。これは実際にそうしたのではなく、祈りと黙想のうちに葛藤する心の様子をあらわしたのであろう。その結果、「町中を捜して回り、ようやく主に出会った」ので、「しっかりつかまえて」奥の間にお連れした。▼パウロはエペソの信徒たちのため、「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」(エペソ3:17同)と祈ったが、主は一心に尋ね求める信仰者に、かならずご自身を現わされるお方である。▼「私をみごもった人の奥の間」とは何を指すのだろうか。キリスト者は神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる、とパウロが言う(Ⅰコリント3:16同)。神殿であるなら、奥の間とは至聖所のことで、人格の最奥部、三位一体の神が住まいされる所にほかならない。そこにおいてこそ、御父と御子、そして御聖霊と私たちが、昼も夜も愛の交わりを保っていくのである。こうしてキリストのはなよめは、ついに愛するお方との交わりを回復したのだ。彼女のかぎりない喜びが伝わって来るみことばではないか。