しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <いのちの書とゲヘナ>

2024-05-05 | みことば静想
「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:12新改訳)

ここには、今の天地が消え去り、新しい天地が現れるあいだに行われる最後の審判が描かれる。▼ヨハネが見ていると、キリストのあがないを信じなかった、あるいはその機会がなかったすべての人間が、神の御座の前に立っていた。彼らは「死とよみから出て来た」ので一種の復活にあずかり、体を持っている者たちである。そして永遠の行く先を決める最後の基準はいのちの書に名が記されているかどうかであった(15)。▼つまり、人間はいのちの書に名がなければ、最終的な苦しみの場所(ゲヘナ・火の池)に行かざるを得ず、しかも罪に生きた証拠である肉体を持って行かなければならないことがわかる。私たちはこのような未来が待ち受けていることを知りながら、なおも十字架の救いを拒み、罪の生涯を送るのであろうか。それは勇気でも理性の結果でもなく、悪魔に心を占領された結果であることを悟らなければならない。▼ゲヘナの真相を知るただひとりのお方、イエス・キリストは「片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです」(マタイ18:8同)と仰せられた。