しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <ただみこころに従って>

2024-12-22 | みことば静想
「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4新改訳)

私は61年前の今日(1963年12月22日・日曜日)、教会の洗礼槽で、早朝の洗礼式にあずかった。今日はそのときと同じ日曜日で、思い出すと感無量である。▼それから早くも60年を過ぎたが、真冬の水の冷たさとともに、つい昨日のように式の光景を思い出す。私のクリスチャン生涯もご多聞分に漏れず、山あり坂ありの60年だったが、教会から一度も離れたことはなかった。といっても自分で頑張ったわけでもなく、意思が固かったからでもない。なぜか「見えない力」が私をつなぎとめて離さなかったからなのだ。ほんとうにふしぎだと思う。▼そして今、牧師家庭となり、四人の子の父親となり、11人の孫のお爺さんとなった。なにより嬉しいのは四人の子が信仰を持ち、うち3人が私たち夫婦とおなじ牧師になり、教会の働きにあずかってくれていることである。孫もすでに6人が受洗してくれた。といっても誇る気持ちなどさらさらなく、神の選びの中に置かれていることが、ただ嬉しい。なぜなら、イエス・キリストと神の国を共通の目標として歩む、その一体感がなんとも言えないのである。▼でも周囲の困難と問題を見回せば、山のようにある。その中で悪戦苦闘する毎日といったら大げさかもしれないが、かならずしも誇張ではない。第一わたしは昨年大腸がんをわずらい、腹膜播種を宣告され、末期がんと診断された。1,2カ月ごとに定期検査を受ける身だが、これもふしぎで1年たった今も日常生活を滞りなく送っている。「生きている」のではなく「神に生かされている」というのが心底実感である。81歳になり、何人もの同輩、先輩が天国に行かれ、ふすまの向こうに天国があり、そこで楽しく語らっておられるのが聞こえてくるような気分になった。▼しかし私は幸福である。持ち合わせる物は何もなく、家内と二人きりの日々だが、結構楽しく過ごしているのだから。日曜日ごとに礼拝で兄姉たちと神の前にでて、礼拝や交わりをいただくのが最高の悦楽であり、みことばとイエス様を語り合うのがこの上なくうれしい。救われる前、高齢になったらどうするのだろう?と思っていたが、花園のような場所とは予想もしなかった。共におられるキリスト・イエス、そのみことばである聖書、幼子のように無邪気に抱く信仰、人の生涯にいちばん必要なのは、この三つであると、つくづく思う。