しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <永遠の家族>

2024-10-13 | みことば静想
「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。」(エペソ3:14、15新改訳)

ギリシア語では父をパテールといい、家族はパトーリアという。すなわち、あらゆる生物が家族を構成していれば、そこにはかならず「父」がいるとの意味である。私は、天の父が世界を創造する前から計画していたのは、やがて到来する新世界において永遠の家族を構成することではないかと思う。▼そもそもアダム夫妻は、エデンの園にあって罪なき世界の豊かさを楽しんでいたが、自分たちを造られた神を「愛する父」として意識することは少なかったのではないか。というのは、蛇がエバを誘惑したとき、彼女は父を考慮せず、自分の言葉で返事しているからである。ほんとうなら、蛇が、善悪を知る木を食べてもあなたは死なず、神のようにかしこくなれる、とそそのかしたとき、「お父様に聞いてみよう」と考えただろう。ところが彼女はそうしないで蛇に返事をした。その結果、人類と被造物世界は今日のように詛われた世界になってしまった。▼だがそれは御子イエスの降誕をもたらし、十字架によるあがないが成就、人は父なる神とこひつじの比類なき愛を体験することになった。いうならば、罪の歴史を通り、人はより深い家族愛を体験し、はじめて強力に御父に結び着けられたわけである。だから今の歴史は永遠の家族が造られる途上にあるともいえる。▼昔は日本でも家庭のあたたかさがあり、男性が仕事を終え、疲れたからだで帰ってくると、妻と子どもが喜んで迎え、祖父と祖母がほほえんで待っている、そんな家が今より多かったように思う。男はそこで心身がいやされ、新しい気持ちが湧いて、翌朝また世の中にでかけることができたのである。▼世界が創造される前、天の父の心にあったのは、神のかたちに造られた人間を加え、永遠の家族を創出することではなかったろうか。人はエデンの園で神のいましめを犯し、そこから出されて地上で辛酸(しんさん)をなめる経験を味わった。だが、その涙の世界に天より御子が来られ、十字架にかかり御血を流し、天上でも決して見ることができなかった「神の愛」が出現したのである。人はゴルゴタで初めて父と子が人をどれほど愛し、惜しんでおられるかを目の当たりにしたのである。こうしてあがなわれた人の子たちが、神の家族に加わるという奇蹟が始まった。▼やがて出現する新世界は天の父、そのひとり子であるキリスト、愛により伴侶(はんりょ)となった人間たち、しもべである御使い、その他の被造物によって形成されるのであろう。壮大きわまりない大家族である。そしてそこに満ちているのは御父の愛といつくしみ、御子の愛と犠牲の心、神の愛をすべてのすべてとしたはなよめたち、神をほめたたえてやまない被造物の世界だと思う。今の天地が造られるはるか以前から御父の心にあったご計画、みこころ、そのすべてが実現した新しい家族、私たちはそれを待っているのである。