J・S・バッハは沢山の子供を残しました。
多くが音楽家になりましたが、その中でも一番出世をしたのが、
次男坊のエマニュエル・バッハです。
当時の王様、フリードリッヒ大王は大変な音楽好きで
宮廷に楽団を抱えていました。エマニュエルは運良くその楽団の
チェンバロ奏者として採用されました。しかし残念ながら
エマニュエルはこの待遇に不満を持っていました。
王はクヴァンツや○○の←忘れた……作品を演奏しましたが、
エマニュエルの作品はあまり演奏しなかったのです。
つまり彼を作曲家として優遇していなかった。
この原因は王のフルートの演奏技術によるところだと思われます。
エマニュエルの作品は難しかったのです。
エマニュエルは長く宮廷で楽師として勤めましたが、
ストレスが爆発したんでしょうね。
父バッハと親しかったテレマンに窮状を訴える手紙を書きました。
そして後にテレマン自身にテレマンの後任として強く推薦され、
ハンブルグに移り住みました。
ハンブルグでのエマニュエルは固定された役職は無かったものの、
フリーの音楽家として大活躍をしました。また、ハンザ同盟の
発祥の地ハンブルグで財界人との付き合いも多く、
エマニュエルは経済的にも恵まれたそうです。
フリードリッヒ大王のもとでの
古めかしい音楽のスタイルから離れ、
新しい風に吹かれたエマニュエルは
バロック音楽からの脱出をはかり、
形式にとらわれない自由な音楽を作り始めたのです。
残念ながら現在の評価は中途半端なもので、
非常にバロック的な音楽の中に説明のつかないフレーズが
紛れ込んでいるという感じも否めないと思いますが、
実際に演奏するとエマニュエルの情熱のほとばしりを
沢山感じることができます。
ハンブルガーソナタはそんなエマニュエルの
晩年の作品なのですが、非常に若々しい作品です。
全ての呪縛から解き放たれて宝石が
水しぶきを浴びてきらきらと太陽の下で輝いている。
そんな色合いを持っています。
演奏していると生きていることの喜びが伝わってきます。
ベルリンの歴史博物館に収められている
<サンスーシ宮のフィリードリッヒ大王>には
チェンバロの前にはC.P.Eバッハ、右端には
王のフルートの師であったクヴァンツの姿が見られます。
一度本物を見てみたいものです。
友人シズちゃんの質問にお答えしてみました。