マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

なくても困らないモノの残し方(思い出のモノ編)

2020-05-23 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
前回に引き続き、マシュマロ流モノの残し方をお送りします(笑)
このテーマは、全部で4つの記事にする予定で、今日は2回目です。

『なくても困らないモノの残し方(趣味のモノ編)』前回
『なくても困らないモノの残し方(思い出のモノ編)』←今回はココ
『なくても困らないモノの残し方(頂きモノ編)』
『なくても困らないモノの残し方(大切な人のモノ編)』

ちなみに、わざわざ4回に分けたのは、書きたいことを短く上手にまとめられなかったからです(苦笑)

思い出のモノは何ですか?
思い出のモノって、たくさんある人もいれば、厳選された数個だけ、という人もいると思います。
何が思い出で、何が思い出でないかは個人差がありますが、ここは私マシュマロのブログなので、私が決めたルールを中心に、話を進めます(笑)

私がここで取り上げる「思い出のモノ」は、自分が写っている写真や画像、そのときが記憶に甦るモノ(身に付けるモノや購入品、造形物)、特別な贈り物などです。
ちなみに、誕生日、クリスマス、アニバーサリーの贈り物は、ただ恒例だから頂いただけのモノと、特別な年齢や状況で頂いたモノでは、価値が全く違ってくると思うので、思い出が鮮明によみがえるモノに限定します。

この思い出のモノの中には、前回の『趣味のモノ』と重複しているモノも、いくつかあると思います。
例えば、何かの記念日や記録達成の特別なグッズや、自分だけの特別なシチュエーションで手に入れたモノなどは、単なるグッズではないので、どちらにするか迷うところです。
そこで、私の場合は、趣味に紐づけられる思い出の品は『趣味のモノ』としてカテゴライズしました。
ただ、もしも、その趣味のモノが恋人や配偶者、特別な人からの贈り物で、特別な意味があるのならば『思い出のモノ』にカテゴライズしていいと思います。

さて、この記事を読んでくださっている方の思い出のモノは、一体何がどれくらいありましたか?

写真や画像の残し方
思い出のモノとして、いちばん真っ先に思い付いたのが、私の場合、自分が写っている写真(フィルムを含む)と画像でした。

写真や画像といっても、いろいろありますよね。
自分で撮影したモノ、人が撮影しプリントしてくれたモノ、卒業アルバム、写真館で撮影した特別なモノ。
今では、デジタルカメラやスマホのカメラ機能でフィルム枚数を気にすることなく、何百枚でも撮影できる時代なので、日常を気軽に写すこともできます。

しかし、その枚数、もうすでに管理できないくらい、たくさんありませんか?
私の場合、父が割とカメラが好きだったので、幼いころ(といっても小学生くらいまで)撮影した写真が、多く残っています。
それに加えて、自分専用のカメラを持つようになってから、さらに写真が増えていき、デジタルカメラを持つようになってからは、とにかく莫大な数の画像が増えていきました(笑)
そして、卒業アルバムや集合写真など、学校で撮影されたモノも、思い出の写真ですよね。

でも、その大量の写真や画像、本当に思い出の1枚なのかな?
という思いが、ある日突然過りまして、よし、どうでもいい写真は処分してしまおう、となりました。
この時、自分の中で決めたのは、父が撮影してくれた写真だけは残そう、ということでした。
そして、卒業アルバムや学校の集合写真、自分で撮影した風景や若い自分が写っている写真は、全て処分しました。

ここで言いたいのは、写真の大半を処分しろ、ということではなくて、自分で基準をはっきりと決めて、残すモノを選びましょう、ということです。
私の場合は、若いころの自分に興味がないということもありましたし、他人が映した写真では、特に思い出も甦らず、ただ私が偶然映り込んでいたから、プリントしてくれただけの写真も多数ありました。
そして、どうでもいいようなモノを映している写真も多くありました。
そんな中、自分が幼いころに父が映してくれた写真は、私にとっては特別なモノとして感じられたので、他の写真は処分したとしても、父が撮影した写真だけは、最後まで持っておこうかな、と思いました。

結果、いま手元にある私の写真は、小学校までの父が撮影した写真と、大学の卒業アルバムだけになっています。

特別な贈り物の残し方
毎年ある誕生日やクリスマス、年頃になればバレンタインにも贈り物をしあうこともあるでしょうから、きっと思い出深い贈り物はたくさんあると思います。

しかし、振り返ってみると特別な贈り物が、大量になっていませんか?
思いが込められた贈り物は、そもそも処分はしたくないですよね。
でも、もしそれがメンテナンスの難しいモノだったり、大き過ぎたり重量が重たかったりすると、少し憂鬱になったりもします(苦笑)

そういったモノは、無理して手放すことはしなくていいと思います。
他人にとっては、もしかしたらどうでもいいくだらないモノかもしれませんが、自分にとって特別なモノであれば、市場価値とか他人軸の価値とか、関係ありませんから。

ただ、もしモノが溢れていて、一部処分したいかもしれないと思うようでしたら、過去の思い出を基準とするのではなく、今の自分にどれくらいの刺激や影響をくれるモノかどうか、で判断してみてください。
私の場合は、今の自分が、その贈り物を見て、ポジティブ思考になれるかどうか、で残すモノを決めることにしたのですが、私自身の結論は

「実体は要らない」

でした。

たしかに、思い出深いモノではあるのですが、高級品ではないし、もし手放したとしても、思い出や贈ってくれた相手の気持ちは、自分の中にしっかりと残っているので、実体を処分してしまっても、大丈夫でした。
結局、大切にしたいのは、贈ってもらったモノではなくて、贈ってくれた思いだったな、と改めて感じたので、思いだけ残して、実体は処分しました。

私にとっては、実体は要らなかったのですが、そう簡単に思いきれるものではないということもわかっているので、もし全部処分できないのであれば、全部残してずっと持ち続けていいと思います。
ただ、モノに対する感情って、自分に変化があったときにがらりと変わる場合があります。
私が、実体がなくてもいいと感じたのも、そのためだと思っています。
ですから、今も昔も変わらない思いが甦るモノを残す、ということでも、いいのかなと思います。

自分で作ったモノの残し方
これは、一見簡単に残すモノを判断できそうですが、意外とそうできないモノのひとつですね(笑)
趣味のモノとも重複する場合は、趣味のモノとしてカテゴライズしたらいいだけですが、問題は、旅先などでモノづくり体験した際の作品です。
作品そのものが気に入っているかどうか、も重要ですが、旅の思い出としても残したいモノのひとつですよね。

旅行をして、写真を撮るのは割と誰でもしていると思うのですが、モノづくり体験となると、製作工程で苦労したことや完成時の達成感などが付加されて、より一層思い出が強く残ると思います。
また、思った以上に出来栄えがよかったりすると、部屋に飾って来客があった際に見てもらいたい気持ちになったりもしますよね(笑)

ただ、やはりこれも特別な1品だけに絞った方が、実はセンスが良く見えます(笑)
旅先でのモノづくり体験は、仕上がった作品よりかは、体験そのものに価値があります。
しかも、素人が指導者に教わりながら作ったモノですから、市場価値などもまったくありません(笑)
であれば、部屋のインテリアになじむ1品ないしは2品だけを飾っておいたら十分なのではないかと思っています。
作ったモノ全部ではなく、お気に入りの1品、家に馴染む1品、探して残してみてはいかがでしょうか?

思い出のモノ全般に言えること
写真以外の思い出のモノについては、私は共通した基準を設けることで、残すモノが厳選されると思っています。
その共通した基準は

 今の自分、そしてこれからの自分が大切にしていけるモノかどうか

ということです。
思い出のモノなのだから、大切にするに決まっている、と思われるかもしれませんが、実際はどうでしょうか?
もしかしたら、大切に「しまい込んでいる」だけで、メンテナンスをしたり、飾ったり使ったりしていないモノ、結構あるのではないでしょうか?
思い出のモノだからといって、箱に詰めて収納の奥にしまい込んで、目につかないところに置いていたら、ないのも同然ですよね。
また、飾ったり使ったりはしているけれど、いつの間にか扱いが乱暴になっていたり、思い出よりも使い勝手に気持ちが集中してしまったり、飾っていても普段見向きもしないのであれば、すでに思いがどこかに消えています。
だったら、本当に思い出が褪せない、今の自分とこれからの自分が、変わらずその思いを大切にできるモノだけを残していけば、気持ちが充実するような気がしています。


思い出のモノを処分するのは、とっても複雑で悲しくて寂しい気持ちが伴います。
でも、モノが溢れていて、切羽詰まっていて、とにかくモノは減らさなくてはいけない状況になったとき、じっくり時間をかけて思い出と向き合うと、残すべきモノがはっきりと見えてきます。
大事なことは、モノの価値には目を向けずに、思い出そのものに目を向けること。
その思い出が、単なる記憶でしかないのであれば、モノはなくても大丈夫です。
しかし、自分の現在や未来に影響する、鮮明な思い出が蘇るなら、それを残しましょう。
そして、引き続き思い出を大切にしていきましょう。